50
玄関でのプロポーズからおよそ一か月後。彼が組んだ胡坐の中に座って胸に耳を当て、力強い鼓動の音を聞いていた。
目を閉じて深呼吸をしても、もうオレンジの香りはしない。代わりに彼の匂いがする。
「お母さんのこと、落ち着いたみたいでよかった」
「うん。ありがとう。カズくんのお姉さんを通じて紹介してもらった弁護士さん、すごく親身になって話を聞いてくださって、ありがたかったよ」
彼の義兄にあたる、お姉さんの旦那さんが裁判官なので、その伝手で家族トラブルに強い弁護士さんを紹介してもらうことができたのだ。
以降、実母と直接会うことはなく、弁護士さんを通じて「二度と接触してくるな」と伝えると、色々と喚いてはいたものの、最終的には諦めたらしかった。
「……結局、あの人は何がしたかったんだろう。よくわからないけど。幸せじゃないんだなってことだけはわかった」
「麻衣がされたことを考えると、正直、幸せを願う気にはならないな」
「……そうだね。私も幸せは願ってないな。でも、不幸になってほしいってほどの強い感情もない。あんなに歪んじゃったら、もう普通の人には戻れないだろうから。山月記の李徴みたいな」
「さんげつき?」
「高校の授業でやったでしょう。虎になった人の話」
「なにも覚えてない」
「シモセンの授業だよ」
「たぶん俺全部寝てたよ」
そうそう、彼はしょっちゅう先生に叱られていたんだった。
「父曰く、若い頃の実母はそこまでおかしくなかったんだって。歳を重ねるごとに『少しおかしい』から『すごくおかしい』になって、どうしようもなくなっていったんだろうって。自分では普通のつもりでも、ときどきハッとすることってあるでしょう? 『あ、いま意地悪なこと考えちゃったな』って気付いたり、他の人の意見を聞いて『その視点はなかった』って驚いたり」
「あるな」
「そういうときに、ちゃんと軌道修正ができないと、あんな風になるのかなって」
大学時代に誰かに傍に居てほしくて恋愛モドキを繰り返したとき、匂いを失って不安定になったとき、選択を誤ったら、今とは違うところにいたかもしれない。
「虎にならないように気をつけないと」
「俺がそばにいるから大丈夫だよ」
「……そうだね」
「俺だけじゃない。お父さんもお母さんも、上の弟くんも、晃平もいる。俺と結婚したら、俺の家族も」
頷きながら、大きな体にぎゅうと抱きついた。
「麻衣」
「なに?」
「家族の匂い、吐くほど強かったことないって言ってただろ?」
彼が話す度に耳から伝わる振動が、とても心地いい。
「うん。でも、あれはもうい――」
「まぁ聞いて」
トントン、となだめるように柔く背を叩かれた。
「……うん」
「病院で麻衣の家族に会って、話して――って言うよりも、詰め寄られて――力が抜けた」
――どういう意味?
顔を上げ、目で問うた。
「それまでは麻衣と家族の関係がどんなだかわかんなかったから、『俺が守んなくちゃ』ってことばっかり考えてた。でも、晃平が見たこともない顔して『とぼけんじゃねぇ』って怒鳴るんだ。『ねぇちゃん傷つけたんだったら、いくらコーチでも許さないからな』とか言って。後ろに控えてた麻衣のお父さんとお母さんもめちゃくちゃ恐ろしい顔しててさ」
ふ、と鼻から息が漏れた。そんな彼らの様子がありありと目に浮かんだから。
「それを見て安心したんだ。あぁ、麻衣の家族は麻衣のことをちゃんと大事に思ってるんだなって」
「うん」
「でさ、匂いのことを麻衣の家族とアレコレ話してるうちに、俺なりの仮説を立てた」
「うん?」
「これまで麻衣が具合悪くなるくらいの匂いを感じたのって、相手は全部彼氏?」
「あ……うんと……一人だけ違う人がいたけど」
「聞き方を変える。全部、麻衣に好意を持ってる男?」
「うん」
彼の仮説がどうやら確信に変わったらしい。彼は満足げな声を漏らした。
「たぶん、匂いの違いは単に『好き』の性質の違いだよ」
「性質?」
「家族の好きと男女の好きは違うだろ?」
「うーん……」
「たとえば、俺は親父にキスしたいと思ったことはないし」
こふっ。
思わず咳き込んだ。
「……その例えはどうなの」
「でも、そういうこと」
「そっか」
「好きの形が違ったから、匂いも違った。麻衣を長いこと悩ませた答えは意外と単純だったんだよ」
「そうだね。きっと」
もっと前に彼がその仮説を思いついていたとしても、私は信じることができなかっただろう。彼らの愛情をきちんと信じられる今だからこそ、信じられる。
「ありがとう、カズくん」
「俺は何もしてないよ」
「待っててくれたでしょう」
彼のゆったりとした息遣いが聞こえる。
鼓動も。
音といえばそれくらいのものだった。静寂が心地よいと感じるのは、もしかすると初めてかもしれなかった。
「気は長いほうだ。高校入学直後に麻衣を好きになってから付き合い始めるまでに一年半以上待ったし」
低く笑う声が、耳のすぐそばを掠める。
思わず乱れた私の呼吸を、彼は笑う。
そんな息がまた、耳たぶをくすぐる。
「あの……」
長い腕が私の体を囲い込んではいるけど、強く抱きしめられているわけではないから、逃げ出そうと思えばいつでも簡単に逃げ出せる。だけど私は逃げ出さない。逃げ出す気なんてこれっぽっちもないのだから。
「とはいえ、『家族になってもいい』って伝えたときはやっぱり緊張したし、答えがなかったから『麻衣はまだ俺との関係に迷ってんのかな』とか、前に麻衣自身が言ってたように『そばにいてくれるヤツ枠』みたいな感じなのかなと思ったりもしたよ。でも、麻衣が目を覚ましてすぐに、そうじゃないって確信した。どうしてだと思う?」
彼の顔を見つめた。
「わかんない」
「俺の匂いがオレンジだったから」
穏やかな声だった。だけど、言葉の意味はわからなかった。彼の手が私の服の下にもぐりこんでいなかったとしても、たぶんわからなかったと思う。
「俺の匂いだけわかんなかったんだ。小川さんも知らなくて。あ、もう小川さんじゃないけど」
「……涼子が?」
そういえば、彼の匂いがオレンジだということは涼子にも話していなかった。ような、気がする。
「匂いがわかんない以上、麻衣には会えないって思った。せっかく家族からいい匂いがしても、俺から匂いがしなければ麻衣に疑いを抱かせる原因になるだろうし。俺の気持ちを疑われるのも困るし」
耳に注がれる声が熱を帯びている。まだあまり自由に動かない右手で、彼のニットの裾をめくった。そして指先を忍び込ませ、肌に触れた。私の手が冷たいのか、彼の体が熱いのか。
「退院後に小川さんから麻衣にさりげなく聞いてみるってことで話がついたんだ。それまで俺は麻衣に会わないってな」
「そう……だったんだ」
言葉が途切れる。
彼に触れられているところが、燃え上がるように熱い。
「でも、もしかしてオレンジかなって思った。ショッピングモールで会った時に麻衣が『好きな匂いだ』って言ってたのを思い出したから。それで、一か八かでオレンジの香水をつけて会ってみることにしたんだ」
「『好きな匂い』って言っただけなのに、覚えてたの?」
「記憶力は悪くない方だ」
「……山月記は全部忘れてるけど?」
「そりゃ元々聞いてないからな。好きな人の言葉くらいはちゃんと覚えてるよ」
「俺がオレンジの匂いで、麻衣がオレンジの匂いを好きだって言った。それなら、俺はちゃんと麻衣から好かれてるんだろうってな。それさえわかれば待つのは全く苦じゃなかった」
穏やかに話す彼を見つめていたら、いつも優しい言葉を紡いでくれるその唇を塞ぎたくなった。膝立ちになって背を伸ばし、彼の首に回した左腕に力を込める。そしてキスをした。
愛情を分かち合う行為がなぜキスなのか。誰がそれを始めたのか。わからないけど、わかる。甘くて、柔らかくて、美しいから。頬を伝った涙が顎の先から、ポトリとどこかへ落ちる。
――ありがとう。カズくん、愛してる。
――俺もだよ。麻衣、愛してる。
言葉はいらなかった。
口づけを深めながら互いの体に触れ、毛足の長いふかふかのカーペットの上、ベッドにもソファにも辿りつくことなく、私たちはひとつになる。再会した夜よりもよほど性急につながったというのに、痛みは全く感じなかった。
私が感じていることも、彼が感じていることも、言葉にせずとも互いにわかっていた。時折目を開けると、情欲の滲んだ黒い瞳で見つめ返された。頬が熱い。私に触れる彼の手も。熱が溶け合って、ひとつになってしまえばいい。
求められるのではなくて、求め合う。愛されるのではなくて、愛し合う。
それがあまりにも幸福で、私の涙はとまらなかった。
「まい」
どうやら少し眠っていたらしい。
体の下にはふかふかしたカーペットの感触。体の上には、彼が掛けてくれたらしい毛布の感触。首の下には、彼の筋肉質な腕の感触。どれもが、わたしを温かく包み込む。
「麻衣」
彼の手が私の髪を撫でている。
「いま俺の匂いがわかったら、麻衣は間違いなく気絶するのに」
私が眠っていると思っているのか、彼はひとり言のように呟いた。
***
「まい」
声がする。
「まい」
軽く体を揺すられる。
「麻衣、そろそろ起きて」
優しい声に、寝返りを打ってから両腕をぐんと上に伸ばした。
「いい伸びだ。鎖骨もすっかり元通りだな」
目を開けると、ベッドサイドに立つ夫が私を見下ろしていた。
「ん……おはよう」
「おはよう。体調は?」
「良好」
「ごめんな。もう少しゆっくり寝かせてあげたかったけど、午後からお義父さんとお義母さんに会いに行く約束があるからさ」
「あっそうだっ」
慌てて上体を起こして時計を見ると、短針は十と十一の間を指している。
「ごめん、すっかり寝坊」
「いや、いいよ」
「香桜は?」
「朝ごはんを食べ終わってアニメ見て、ひらがな練習して、おやつ食べたいって駄々こねて、お昼ご飯前だからダメって叱って、ふてくされて部屋の隅でパズルして、いまはソファで寝てる」
それを聞いて思わずクスと笑う。
「いつも通りだね」
「うん」
ベッドから下り、もう一度伸びをする。
そんな私を見下ろして彼は目を細めた。
「エッグベネディクト作ったけど、食えそう?」
「わぁ。そんな理想の休日の朝食が待ってるなんて……」
「幸せ?」
「うん。すごくね。理想の朝食が待ってなくても十分幸せだけど」
背伸びをして、彼の頬に唇を寄せる。彼はいつもどおり、私がそうしやすいように少し背をかがめてくれる。
「今のはお礼のキス?」
「ううん。おはようのキス」
「じゃあ、お礼のがもう一つ欲しい」
そう言って昔と変わらない顔で微笑む夫の、今度は唇にキスをしてから寝室を出た。
居間の日当たりのいい場所に置かれたソファでは小さな娘が体を丸めて眠っている。その脇にしゃがみこんで寝顔を見ていると、それだけで一日過ごせそうな気がする。短いまつ毛に、小さな鼻に、小さな唇に。
「この時間だとブランチって感じだな」
娘に見入っていたら、彼が朝食を運んで来てくれた。薄手のサマーニットに膝丈のハーフパンツ。野球部の練習のせいで真っ黒に日焼けした彼を見ていると、結婚して五年が過ぎた今でも心臓が暴れ出す。暴れ方は幾分控え目になってきたそれを何とか落ち着けながら、もう一度娘の寝顔を見つめた。
「朝寝坊しちゃってごめんね」
ささやき声で娘に話しかけ、小さな鼻を指先でそっとつついた。
「たまには寝坊くらいして、『お母さん』もサボらないと」
彼が朝食をサイドテーブルに置くカタンという音がした。それから彼は私の隣にぴたりと寄り添い、娘の寝顔を一緒に覗き込む。
「……サボりすぎるのが怖くて」
母親からの愛情を幼い頃に感じられなかった子は、それを与えることもまた下手になりやすい。そんな連鎖の不安がいつもどこかにある。
私の返事を予想していたらしい彼の腕が私の肩を抱き寄せた。
「麻衣はちゃんといいお母さんだよ」
「いいお母さん、できてるかな?」
「香桜がお母さん大好きっ子なのがその証拠だよ」
「ありがとう」
「いいお母さんだし、いい奥さんだし、いい代表でもある」
娘を産んだのをきっかけに銀行を辞め、一年ほど経った頃にステップファミリーを支援するNPO団体を立ち上げた。私や母の経験が涼子や玲那ちゃんの役に立ったように、同じ悩みを抱える人たちの力になれればという思いで始めた団体だ。今は子育ての合間に講演をしたり、交流会を開いたりという小規模での活動だが、いずれは大学院に通って臨床心理士の資格を取り、カウンセリングも含めた本格的な支援活動をできるようになればと思っている。
横を向き、そこにあった夫の頬に、もう一度口づけた。
「今のは?」
「ありがとうのキス」
彼は微笑み、立ち上がった。
「さて、そろそろこの眠り姫を起こして着替えさせないと。麻衣も、朝ご飯食べて。お義父さんとお義母さんがきっとヤキモキしながら待ってるから、早めに出よう」
「『話がある』なんて言わない方がよかったかな?」
「いや、たぶん内容は察してると思うよ」
「そうだよね」
彼の大きな手が、私のお腹に優しく触れた。
「今度はどっちかな? カズくんはどっちがいい?」
「どっちでも。強いて言えば、息子とキャッチボールって夢だけど。女の子でもできるしね」
「そうだね」
彼の手の上から私も手を添えて、お腹の命を慈しむ。
「そういえば香桜が、麻衣に聞きたいことがあるって言ってたよ」
「何?」
「さぁ。本人に聞いてみて」
穏やかな休日。
このありふれた家族の情景が、本当はちっとも当たり前ではないことを私は知っている。
だからこそ、不断の努力でこの情景をいつまでも守ろうと心に誓う。
グズりながら目覚めた娘を着替えさせ、実家に向かう車の中で娘から問われた。
「ママはどうしてパパとケッコンしたの?」
運転席の彼と視線を交わす。
この春に通い始めた幼稚園で仕入れて来るのか、最近この手の質問が増えた。
彼は笑いながら、「俺も聞きたいな、それ」と言った。
「何が決め手だった?」
「うーん、難しいけど……」
たとえば、優しさ。
たとえば、信頼。
たとえば、愛情。
彼から与えられたものはたくさんあるけど。
やっぱり決め手は――
「匂い、かな」
彼が笑った気配があった。
記憶の中にあるオレンジがふわりと香った、気がした。
これにて完結となります。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
また別の作品でもお会いできますように。
奏多悠香




