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目の前のダイニングテーブルにはいろんな思い出があった。
小学校の宿題も、中学のテスト勉強も、このテーブルで済ませた。母がキッチンに向かって夕飯の用意をする背中を見て、フライパンから出る音を聞いて、出来上がる料理の匂いをかぐのが大好きだった。宿題に飽きてテーブルに鉛筆で落書きをすると、母が叱りながら消した。ときには、構ってもらいたくてわざと書いた。
そんなテーブルに父は両肘をつき、頭を抱えていた。
「いっしょうきえない、こころのきずを、おわせた。きっと、ふせげたのに。あのとき、りこんを、もっとしぶっていれば。しんけんを、あらそっていれば。どれだけ、どれだけ」
切れ切れの言葉が、食いしばった歯の隙間から辛うじて漏れる。
もう声を出すこともできなくなったらしい父は、ただただ肩を揺らしていた。
そんな父の言葉の続きを母が引き取る。
「連絡を受けて麻衣に会いに行ったら、麻衣がその年頃の他の子よりずっとずっと小さくて痩せてて、お父さんが何かの拍子に手を動かしたときに反射的に頭を庇ったんだって。それを見て、お父さんは本当に悔しかったみたいでね。帰って来るなり、私の前に手をついて『これは相談じゃないから』って言ったの。『もう心は決まってる』って。私のことも翔平のことも、まだお腹にいる子どものことも大切だし心の底から愛してるけど、麻衣のことも同じように愛してるから、絶対に麻衣を引き取るって」
母はいつも通り、微笑みながら言葉を続ける。
「麻衣を引き取ることに反対なら、別々に暮らそうとまで言われた。翔平にもお腹の子どもにも私がいるし、私には実家に帰れば両親もいる。だけど、麻衣にはもうお父さんだけだからって。『身勝手で本当にすまないと思う。急なことで戸惑うだろうというのもわかってる。どんな結論を出すにせよ、子供の養育に必要な費用は成人まで必ず払うつもりだ』ってね。見たこともない顔をしてた。かっこいいでしょ?」
母が父を「かっこいい」と形容するのを初めて聞いて、思わず弟と顔を見合わせた。弟は少し気まずそうに片方の口の端を持ち上げた。
「それを聞いてお父さんに惚れ直した。それに娘ができるのはすごく楽しそうだったから、私は麻衣をこの家に迎えることに賛成したの。不安が無かったって言ったら嘘になるけど、お父さんに二度と同じ後悔を味わってほしくなかったし、私も後悔したくなかったし。お父さんを失いたくもなかった。そして今では、あれは人生で最良の選択だったと思ってる」
「私……困らせることも、たくさんしたのに」
母の表情は変わらなかった。私の言葉を否定はせず、静かに続ける。
「前に涼子ちゃんが家に来てた時に、二人で話したことがあったでしょう?」
「うん」
「あの時に、涼子ちゃんに聞かれたの。『やっぱり大変でしたか?』って。だから、『うん』って答えた」
そう言って、母はにっこり。
「『子どもを育てるのが大変じゃないなんて、一度も思ったことない』って。翔平も晃平も家中の障子を破いたし、襖には穴をあけてティッシュは全部箱から出した。少し大きくなると、泥んこで帰ってきたり怪我をしたり、心配事ばっかりで。人に迷惑をかけた時は先方に謝りに行って、叱って、大変だった。翔平の反抗期には悩んだし自信を無くしたし、落ち込みもした。だからね、麻衣も翔平も晃平も同じ。麻衣だけが特別大変だったわけじゃないの」
「お母さん……」
「子育ては大変だよ。本当に大変だった。子どもの安全のために四六時中緊張してなきゃいけないし、自分の未熟さを突きつけられてばかりで、いつもお父さんと一緒に悩んでた。だけど、遊び疲れて額に汗びっしょりのまま眠りこけてる姿とか、ご飯を食べて『おいしい』って笑う姿とか、そういう些細なことで疲れが吹き飛ぶの。大変なことよりも喜びの方が大きい。初めて麻衣が『お母さん』って呼んでくれたときなんて、向こう一年くらい良いことがひとつもなくても頑張れるくらいのエネルギーをもらったんだから」
今となっては不思議なくらいだった。
どうしてこれほどの愛情に気づかずにいたのだろう。どうして「失うかもしれない」なんて怖がっていたのだろう。
ずっと変わらず私の傍にあったのに。
「お父さん」
ようやく顔を上げた父の目は真っ赤に充血していた。
「お母さん」
母はやはり、微笑んだ。
「本当にありがとう。他に言葉が見つからない。心の底から感謝してる」
父と母が揃って頷いた。
「それから……お父さんもお母さんも、翔平も晃平も、みんな大好きだよ」
「うん、知ってたよ」
しんみりとした空気にほんの少し照れが混じって、誰からともなく笑い出す。
へへっともふふっともつかない音を各々が発した後、実母のことを短く話した。職場にも現れたこと、今日家にまで来たことから、「早々に弁護士や警察に相談しよう」ということになった。
「あの人と久しぶりに会って……私とは似てないなって思った。似てるかと思ってたけど」
「全然似てねぇよ。汚い老け方したババアだったじゃん。あまりに似てないから、まさかあれが姉ちゃんのお母さんなんて思いもしなかった」
吐き捨てるようにそう言った弟が唐突に情けない声を上げた。
「あれ? ってか、もしかして俺ってねぇちゃんと全然血つながってない?」
「そうだよ、いま気づいたの?」
その事実も、もうなんてことはなかった。
血がつながっていようがつながっていなかろうが、誰がなんと言おうと、私の弟だ。
「ぐあぁ……どうりでモテないわけだよ。ねぇちゃんだけモテんのおかしいと思ってたんだ……」
「偏差値10あげたらたぶんモテるぞ、晃平」
「10って……道のりが遠い、遠すぎる……」
今度は父に代わって弟が頭を抱える番だった。
「よかったね、10も上げる余地があって。だって今偏差値70とかだったら、もう上げられないよ?」
「どんなポジティブだよ」
両親と顔を見合わせて笑っていたら、玄関の呼び鈴が鳴った。
ハッと息を呑んだ。
――まさか。あの人がまた。
「私が出るっ」
そう言ってダイニングを飛び出して玄関に向かった。引き戸の向こうに見える影が大きい。実母ではない。
――それなら誰だろう。今度こそ近所の人かな。
それでもやはり少し警戒し、靴箱の上に置かれた蜂用の殺虫剤を横目で確認してから鍵を外して引き戸をガラガラと開けた。いざとなれば、赤字でデカデカと「マグナム」と書かれたそのスプレーをお見舞いしてやる覚悟だ。
「はい」
薄く開いた戸の隙間から外を覗くと、そこには見知った顔があった。
「よ、麻衣」
「カズくん。どうしてここに……」
「俺が呼んだー」
のんきな声とともに背後からやって来たのは弟だった。
「ちょっと、カズくんだってわかってたなら言ってよ、私、ノーブラ」
弟を小突きながら押し殺した声で言ったけど、弟は一向に悪びれない。
「そのジャージ姿、懐かしいな」
振り返ると彼が眩しそうな顔をして笑っていたので、コケモモおにぎりは特別に許してあげることにした。
弟の後ろから父と母も出てくる。
「夜分にお邪魔してすみません」
彼は両親に向かって言ったけど、恐縮している雰囲気ではなかった。家族と彼の間には奇妙な一体感のようなものがあった。
「麻衣、話せた?」
「うん。聞いたよ、カズくん。ありがとう」
「いえいえ」
彼はそう言いながらこちらをうかがうような視線を寄越した。
「麻衣のお母さんが来たって聞いたよ」
「それも知ってるの? 早いね。うん。来たよ。大丈夫だよ」
「大丈夫か?」と聞かれるとわかったから、先回りしてそう答えた。彼は私の顔をじっと見る。そして私の言葉に嘘がないとわかったのだろう。満足気に微笑んだ。
「スッキリしたって顔してるな」
「うん」
「父さんだけは全然スッキリしてないけどな、顔」
弟の言葉に父を見やると、泣いたせいか父の小粒な目は殆ど瞼に埋もれてしまっていた。
「麻衣」
父に向けていた視線を戻すと、彼が玄関口で跪いていた。
「え?」
「俺と結婚してくれないか」
そう言って彼は左手に載せた小さな箱の蓋を右手で持ち上げる。箱の中には小さな石のついた指輪が光っていた。
「コーチ、そこは『俺と人生のバッテリーを組んでくれないか』じゃないんすか」
「バカなこと言ってないで、晃平は部屋に戻ってなさい。邪魔しないの」
「いや、邪魔者は父さんも母さんも同じだろ」
外野が騒がしい。
でも、それでよかった。この瞬間を家族に見守ってもらえるのは嬉しかった。そしてたぶん、彼もそれをわかっていたからこの場で跪いたのだろう。
「カズくん、あのね。私、結婚がちょっと怖かったんだ」
彼は驚いてはいないようだった。
「でも、気づいたの。身近にものすごく素敵なロールモデルたちがいるって。結婚も、親になるのも、誰かを心から愛するのも。だから……その、私でよければ、よろしくお願いします」
彼が頷いて私の左手を取り、指輪をはめてくれる。
「あ、ゆるい」
「入らないよりいいよ」
「明日店に行って直してもらおう」
ノーブラに高校時代のジャージ。
ドアを開けるために履いたのは、あの日と同じ父のつっかけサンダル。
古い木造建築の玄関はプロポーズの最高の舞台だった。
「ヒューヒューねぇちゃん」
「それ、口で言うんじゃなくて指笛で鳴らすんだよ、晃平」
「指笛なんか鳴らせねえもん」
「大体お前、ヒューヒューって古すぎるぞ。なんで知ってんだ」
「昭和の漫画で見た」
外野はやっぱりうるさくて。
そして、最高だった。




