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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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「……匂いのこと、いつまで続けるつもりだったの?」

「金具を抜く手術のときに、もう一回麻酔かけるだろ。それまでにねぇちゃんが落ち着いてれば、そこでやめるつもりだった」

「……落ち着いてなかったら?」

「芳香罪の常習犯になる覚悟をだな」

「ずっと続けるつもりだったってこと?」

「うん。ねぇちゃんが落ち着くか、バレるまでは。でもまぁ、そんくらいでねぇちゃんが元気になるなら安いもんよ。スパイクの紐とアイスクリンおごってもらった恩があるし」


 弟の軽口をくすりと笑う。

 そして父を見た。

 深く息を吸って一気に吐き出した。


「あの日ね、私、書類を見つけちゃったの。嫡出否認の。それでちょっと動揺して」

「……やっぱりそうだったか」


 今度は父が深呼吸をする番だった。


「麻衣が四畳半から飛び出して行ったって晃平に聞いて、父さんも部屋を見てみたんだ。それであの封筒を見つけた。中身がバラバラだったから、もしかしてとは思ってたんだ。ごめんな麻衣。いつかちゃんと話そうと思ってたけど、父さんも勇気がなくて」


 弟が足を組み直す静かな衣擦れの音が響く。


「当時父さんが弁護士の先生からもらった書類はとっくに捨てたんだ。でも……どうやら、婆ちゃんは婆ちゃんでこっそり相談してたみたいだな。よっぽど心配だったんだろう。婆ちゃんは初孫の麻衣のことを本当に可愛がってたから」

「そっか」


 父が下唇を噛んだ。

 それを見て、私も覚悟を決める。

 父がすべてを話そうとしているとわかったから。


「麻衣が聞きたくなければ……」

「ううん、ちゃんと聞きたい。最初から全部。知らなきゃいけないと思う。この先あの人から身を守るためにも」


 父は母を見、母は父に向かって頷いた。


「麻衣のお母さん……香澄と結婚してた当時、父さんは仕事が忙しくて、帰りはいつも深夜だった。若かったから給料も今よりずっと少なくて、全然贅沢はできなかった。それでも、麻衣が生まれて幸せに暮らしてた。少なくとも父さんはそのつもりだった。でもある日突然香澄が言い出したんだ。別れて欲しい、麻衣は父さんの子じゃないから嫡出否認の訴えをしろって」


 父は両手の指を組み合わせてテーブルの上に置いていた。

 手が小刻みに震えているけど、その震えの正体はわからなかった。


「嫡出推定が及んでいたら他の男は認知できないらしくてな。本当の父親に認知してもらって、その男と三人で暮らしたいから否認の訴えをしろって言うんだよ」


 父は下を向き、背中を丸めて肩を震わせた。

 泣いているらしかった。


「麻衣は俺の子だって撥ね退けたけど、それが麻衣のためだって言われると……何が正しいのかわからなくなって、揺れた。でも結局、訴えは提起しなかった」

「……私のために?」


 父が一瞬顔を上げた。目が赤い。


「違うよ、麻衣。自分のためだよ。父さん自身のためだ。せめて法律上だけでも麻衣の父親でいたかったんだ。仕事でくたくたに疲れて家に帰って、麻衣の寝顔を見るのが日々の癒しだった。休日に麻衣をお腹の上に乗せて遊んでたら、父さんのお腹の上にぺっとりくっついて眠るんだ。可愛くてたまらなかった、本当に」


 私よりずっとずっと体の大きな父が、今はとても小さく見えた。


「相手の男に『不貞を理由に損害賠償を請求する』って言ったら、そいつはすぐにトンズラした」


 父の声以外に音がなかったから、冷蔵庫の中で自動製氷機が働くガタンゴロンという音がやけに大きく響いた。

 その「相手の男」というのが私の実父なのだろうけど、その人のことを聞いても何の感慨も湧いてこなかった。

 顔を持たずセリフも持たない黒い影。遠い世界の誰か。


「ごめん、麻衣。麻衣が本当の父親と暮らす機会を奪ったのは父さんなんだ。本当の父親を脅して追い払った」

「ごめんなんて」


 私の声も詰まった。


「ごめんなんて、お父さん。違うよ、ありがとう。ごめんは、お父さんじゃないよ」


 ごめんは父のセリフではない。

 そしてきっと私のセリフでもない。

 実母と実父が口にすべきセリフだった。

 ごくんと父が唾を飲む。


「それから半年くらいは一緒に暮らしたけど、夫婦の関係修復は絶望的でね。赤ん坊っていうのはすごく敏感で、麻衣が笑わなくなった。麻衣の発育もかなり遅れ気味だった。それで、話し合った末に離婚することになった。麻衣の親権は欲しかったけど、香澄は絶対に譲らなかった。元々小さな赤ん坊の親権は母親が有利だし、『本当の父親でもないくせにこれ以上麻衣を不幸にするつもりか』って言われて引き下がった。その頃の香澄は育児だけはちゃんとしていたから、大丈夫だと思ったんだ。大丈夫だと信じた」


 今の私とそう変わらない年齢だった当時の父にとって、それはきっと、どんなにか重い決断だったことだろう。


「どれだけっ」


 父の声が続かなかった。

 父は何かに耐えるように浅い呼吸を繰り返し、ようやく言った。


「……どれだけ、後悔したか。麻衣に会わせてもらえなかった期間も、麻衣が虐待されてるかもしれないっていう知らせを受け取った時も」


 ボタボタと、テーブルに滴の落ちる音がする。

 父のそんな姿を見るのは初めてだった。

 私の瞳からも涙が溢れた。父が苦しいのは私も苦しい。父を苦しめた人が私の親なのが苦しい。父の愛情深さを知っているから、それが裏切られたことが苦しい。

 元気印の焼きおにぎりすらも、私の隣で鼻を啜っている。


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