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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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 家族にどう切り出そうかと考えながら家に帰ると、弟が居間で寝転がってテレビを見ていた。その姿勢のまま、顔だけをこちらに向けて微笑む。


「ねぇちゃん、おかえり。リハビリどうだった?」


 いつもと変わらない笑顔だ。


「……いつも通りだったよ。お母さんは? いる?」


 どんな顔をすべきかわからなくて、上着を脱ぎながらそう問うと、弟は大きな欠伸をした。


「ふぁああ……カーブス行ったよ」

「そっか。晃平は部活休み?」

「うん。今日模試だったんだよ」

「そうなんだ、お疲れ」

「ほんと疲れた……マジで全然わかんなかったわ……やべぇよ……絶対E判定が並ぶよ……勉強してなかったのが悪いんだけどさ……」

「模試が近いっていう気配すら感じさせなかったもんね」

「すっかり忘れてたんだ。昨日友達に言われて思い出した」


 そうボヤいて床に伸びきっている弟からは、やはりコケモモの香りがした。胸が痛むわけではない。ただトクトクと鼓動が鳴る。


「晃平」

「んー?」


 弟はクッションに抱きついたまま、くぐもった声を上げた。

 障子を半分ほど開け、部屋に入りかけの中途半端な位置のまま弟に呼びかける。


「今日、下井先生に会った」

「どこで?」

「学校に会いに行ったの。お礼が言いたくて。それで、聞いたよ。香水のこと」


 息をのむ音が聞こえた。

 弟がクッションから離れてむくりと上体を起こした。その動きに合わせてまた、コケモモが立ち昇る。

 弟は私をじっと見つめ、小さな小さなため息をついた。


「バレちったか」


 隣家から漏れてくるテレビのニュースの声が弟の静かな声に被さった。

 何かを言おうと口を開いたけど、すぐに弟に遮られた。


「ねえちゃん、父さんと母さんが帰って来てからちゃんと話そう。だからちょっと待ってて」

「わかった」


 弟はまもなく寝息を立てはじめ、私は部屋着に着替えて一人でじっとテレビの画面を見つめていた。垂れ流されている映像は明るい色彩で、楽しげに誰かが笑っていた。でも番組の内容は全然頭に入ってこなかったし、弟が本当に眠っているのかもわからなかった。

 プゥゥゥウウ、と古い呼び鈴が鳴ったのは垂れ流されている番組で出されたクイズの答えをぼんやりと考えているときだった。古い家なので、いまだに呼び鈴に訪問者を確認できるカメラはついていないし、応答機能もない。眠っている弟を尻目に「はぁーい」と返事をしながら玄関に向かった。玄関の引き戸にはめ込まれたすりガラスの向こう側に人影が見える。


「はーい」


 近所の人からのおすそわけか何かだろうかと、もう一度軽い返事をしながら鍵を回して引き戸をガラガラと開けた。そこに立つ人を見て、喉がヒョッという音を立てた。


「な、に、して、ん、の」


 それしか言えなかった。

 人影の正体は実母だった。

 実母が父に何をしたかを知る今、前回職場の前で声をかけられたとき以上に強い怒りを抱いている。そのせいか、その顔を見た瞬間に体がぶるりと震えた。


「ちょうどよかったー。今お父さんいるー?」


 何がちょうどよかったのかも、なぜ父の所在を訊くのかもわからない。


「……いない」


 そう答えを絞り出しながら引き戸を閉めようとしたが、何かが引っかかって最後まで閉められない。母が靴先を差し込んでいるせいだとわかったのは、戸の建付けのせいで閉まらないのかと何度かガタガタしてからだった。


「いないのー?」


 私が閉めようとしていることに気づかないはずはないのに、母は私の背後をうかがうように家の奥に視線を向ける。


「いないってば」


 そう言いながら母のつま先を押し出そうとするが、びくともしない。

 パニックを起こしそうなのを必死におさえつけていたら、背後から「どちら様ですか」と声が掛かった。焼きおにぎりだ。目を覚ましたらしい。居間からこちらを覗いている。


「出てきちゃダメっ! 中にいてっ!」


 自分でも驚くほど大きな声が出た。弟は驚いたような顔をしたが、顔をひっこめるつもりはないらしい。訝しそうに首をかしげながら出てくる。


「ダメだってば、なかにいて、なかにはいって」


 泣きそうになった。


 ――晃平を巻き込んじゃダメだ。まだ高校生なのに。こんな邪悪な人と関わったら、絶対に嫌な思いをするに決まってる。私が守らなくちゃいけない。


 実母の視界を遮ろうと、小さな身を必死に縦に伸ばして彼女の前に立ちはだかる。


「うちになにか御用ですか?」


 そう言いながら晃平が框のところまで出て来るのが足音でわかった。


「この子だぁれー?」


 私の背後を見ながら放たれた実母の問いに「あなたには関係ない。帰って」と短く答えると、「冷たいじゃーん」と返された。

 彼女がひとこと話すたびに、汚いものがどろどろと体に流れ込んでくるような感覚になる。


 ――ちがう、わたしは、このひとじゃない。娘だけど、同じじゃない。


「ねえちゃん、知ってる人?」


 晃平の問いに、実母が「ふぅん?」と眉を持ち上げ、値踏みするように晃平を見つめた。


「『ねえちゃん』ね」


 そう言った実母の口元に嘲りのようなものが浮かんだ。血が繋がっていないのに「ねえちゃん」なんて、と、その顔に書いてある。


「あの人の息子ってことかぁ。そういえば再婚相手との間にも子供いるって言ってたけど、その子? それとも、そのあとの子かなー? まだ高校生くらい? いくつ?」

「話しかけないで。帰って」

「あの人に用事があって来たんだってばー」

「それならその用事とやらは私から伝えるから」

「ほんとに? じゃあ伝えて。お金ほしいの」


 耳を疑った。


「……おかね……?」

「そ」

「……何言ってんの? お金……?」


 ロクでもない人間だということはとうの昔からわかっているはずなのに、「信じられない」なんて思ってしまったから、心のどこかにひとかけらくらい、この人に対する期待みたいなものが残っていたのかもしれない。


「貸してもらえないかなって思ってさー」


 ――早く追い返さなきゃ。一刻も早く。絶対にお父さんに会わせちゃダメだ。これ以上傷ついてほしくない。


 私の存在そのものが父を傷つけ続けているのだろうに、これ以上傷つけられたくない。それに弟もだ。


「……そんなのお父さんには伝えないよ。お金が必要なら、しかるべき場所で借りればいいでしょ」

「貸してもらえるアテがあるのに、わざわざ高い金利なんて払いたくないもん」

「なんでお父さんが貸すと思うの?」

「一応夫婦やってたからねー。貸してくれるよ」


 実母は嫌な笑みを浮かべた。

 父はまっすぐな人だ。いつも「金は貸すな。どうしても貸したいときは『あげる』つもりで渡せ」と言っていた。そんな父が「夫婦だったから」という理由だけで、どう見ても返す気のない相手にお金を貸したりはしない。それなのに目の前の人がここまで自信満々に「貸してくれる」と言い切るには、なにか理由があるのだろうと思った。たとえば弱みを握っているとか。


 ――父の弱み。


 ひとつ、すぐに思いつくものがあった。

 実母を見つめた。たぶんほとんど睨むような視線になっていたと思う。

 実母は怯むことなく、唇の端に薄い笑みみたいなものを浮かべている。

 三度ほど深呼吸をしてから口を開いた。


「もしも、私がお父さんの本当の子どもじゃないことで『麻衣にバラされたくなければお金をよこせ』ってお父さんを脅そうとしてるなら無駄だよ。私はもう知ってる」


 声が震えるかと思ったけど震えなかった。

 予想よりもずっと低くてしっかりした声が出た。

 図星だったらしい。実母は「なぁんだ」と呟いた。


「知ってたのー」

「そう。知ってる。だから無駄なの。お父さんはあなたに絶対にお金を貸さないし、貸そうとしたら私が止める」

「別に麻衣に貸してって言ってるわけじゃないんだから、麻衣には関係ないでしょー?」

「関係あるよ。関係ある」


 涙が出そうになるのは、あまりに強い怒りのせいだ。恐怖じゃない。

 弟が框を下りて靴を履いたのが、靴底の擦れる音でわかった。

 肩に大きな手が乗る。実母が一瞬怯んだような目をしたから、たぶん弟が怖い顔をしたのだろう。


「自分の大切な家族が傷つけられそうになってるのに、指を咥えて眺めてるわけないでしょ。私はもう、お腹を空かせてひとりぼっちで泣いてた女の子じゃない。ろくでもない人間を、それでも『親』として頼らないと生きていけなかった、非力な存在じゃない」

「……『大切な家族』とか、さむ」


 実母は鼻の付け根をくしゃりと寄せて嫌そうな声を上げた。たぶん吐き捨てるつもりだったのだろうけど、声には力がない。


「……そう思うんだろうね。あなたは」


 ――私とは何もかもが違う。


「さよなら」


 そう言いながら、右足を後ろに引いて勢いをつけ、ボール蹴るくらいの勢いで母のつま先を蹴飛ばした。ずり、とつま先が後ろに下がったのを確認し、引き戸をぴしゃりと閉めて鍵をかけた。引き戸の向こう側で「いったーい」と騒ぐ声や悪態が聞こえていたけど、しばらくするとすりガラスの前から人影が離れて行った。


「帰ったみたい」


 いつの間にか中二階に上がって窓から外の様子をうかがっていた晃平がこちらには視線を寄越さずそう言った。


「そっか、よかった」


 晃平が窓から少し離れた。こちらを向こうか迷っているみたいに、窓の外を見ている。ややあって、ゆっくりと日焼けした顔をこちらに向けた。


「ねえちゃん、あの人……」

「お父さんの元奥さん。私の実の母」


 言葉少なにそう答えた。


「……そっか」


 弟もそれしか言わなかった。

 私が実母に放った言葉を聞いていないはずはないけど、そのことには触れなかった。

 二人で黙って居間に戻り、座ってテレビを眺めた。弟も画面を見つめてはいたけど、たぶん内容は頭に入っていなかったと思う。お気に入りの女性タレントが出てきても、いつもみたいに「かわいい」と騒がなかったから。

 実母がなにをしでかすかわからないので、万一に備えて父と母には実母の来襲を知らせた。《すぐに帰る。戸締りをし、誰が来てもドアを開けないで》という旨の返信があった。


***


 まもなく両親が揃って帰宅し、私と弟を見てホッとしたように息を吐いた。


「麻衣も晃平も大丈夫か」

「うん」

「俺はなんともないよ。突っ立ってただけだ」

「香澄はなんて?」


 香澄、は実母の名前だ。そんな名前だったな、と思った。


「……信じられないことを」

「具体的には?」


 実母を庇おうなんて気持ちはこれっぽっちもない。なのになぜか、実母の言葉を口にするのに躊躇った。

 言い淀んでいると、父の奥歯がギチ、と音を立てた。


「何か傷つくようなことを言われたのか?」

「ううん」


 首を横に振った。


「傷ついてないよ。大丈夫」


 中央に寄っていた父の眉が少し離れた。そして「それならよかった」と呟く。

 実母に言われたことを話そうとすると、私が父の子どもではない話に触れることになる。だから実母の話をする前に、きちんと言っておきたいことがあった。

 「あの人のことは後で話すよ。だけどその前に、色々と話しておきたいことがあるの」と切り出すと、両親は覚悟していたように顔を見合わせて頷いた。


「たくさんあるんだけどね」

「ゆっくり聞くよ」

「まずは……香水のこと。今日下井先生と話してわかった。知りたいことはたくさんあるけど、最初にどうしても言っておきたいことがある」


 言葉を切って深呼吸をする。

 実母と対峙したときも深呼吸をした。あのときは冷静に話す力が欲しかった。怒りで我を忘れそうだったからだ。でもこの深呼吸は違う。胸が厚くて涙が出そうになるのを押し留めるためだった。


「ありがとう」


 これ以外の言葉が見つからなかった。

 彼らがどうして香水をつけていたのか。「どういう経緯で」という意味での「どうして」かはまるでわからなかったけれど、「なんの為に」という意味での「どうして」かは聞くまでもなかった。私のためだ。


「ほんとに、ありがとう」


 両親と弟は顔を見合わせて頷いた。


「どういたしまして」


 ゆっくりと視線を交わし、互いの心の準備が整ったことを確認する。

 父は少し顔を強張らせていて、母はいつも通り微笑んでいて、弟はワクワクしている表情だった。私のはたぶん父のように強張っていて、でも母のように微笑んでいて、そしてきっと、弟のようにワクワクしている。緊張と安堵と期待が入り混じったこの感情の名前を、私は知らない。


「いつから香水をつけてたの?」


 案外落ち着いた声が出た。


「姉ちゃんが麻酔で眠ってるとき」


 弟が答えた。


「どうして匂いのことを知ってたの?」

「上村コーチが初めて見舞いに来た時に、俺がコーチに詰め寄って吐かせた。だって、おかしすぎだろ。あの事故のとき、ねぇちゃんは父さんのつっかけサンダル履いてたんだぞ。しかも助手席にはワイングラス置いて、免許証は不携帯。絶対何かあったに決まってる。で、あの――スポーツショップで会った日にコーチと姉ちゃんの空気がおかしかったのを思い出してさ。絶対何か知ってるなって思ったから、知ってること全部吐けって言ったんだ」


 弟は軽い口調で言ったけど、声はひどく真剣だった。


「麻衣。上村君はね、麻衣の信頼を裏切りたくないからって最初は絶対に話そうとしなかったの。だけど……」

「うん。彼のことを責めるつもりなんか全然ないよ。私のためだってわかってるから」

「それならよかった」


 母は随分と安堵したらしかった。ホッと息を吐き出す。


「それで……彼は、何て?」

「事故の日に麻衣が上村君の家に行ったことと、そのときに様子がおかしかったことを教えてくれたの。理由は知らないけど、麻衣がそれくらい悩むのは家族のことだと思うって」

「そっか」


 次いで、父が口を開いた。


「最初はちゃんと話をしようと思ったんだ。でも、どう話せばいいのかわからなかった。麻衣がこの家に来て一年くらい経った頃に、一度聞いてみたことがあるんだ。『お母さんと暮らしてたときのことを覚えてる?』って」

「……そんなことあったっけ?」

「麻衣は口をつぐんだまま何も話さなくなって、それから四日間高熱を出して寝込んだ。たぶん、ものすごいストレスがかかったんだろう。それ以来、昔のことは話題にしないと決めていた」

「そっか」


 その時のことは全く覚えていなかったけど、きっと「お母さんのところに戻されるかもしれない」と思ったのだろう。私はいつも心のどこかでそうなることを恐れていたから。


「それで……どうすれば麻衣が安心できるだろうって頭を悩ませていたら、上村君が匂いのことを教えてくれてね」

「んで、俺が言ったんだ。匂いがなくなって不安になってるなら、また匂うようになればいいんじゃね? って」

「偏差値が低い割にいいアイデアだった」

「偏差値は今関係ねぇだろ」

「まぁ、晃平の成績については模試の結果が帰ってきた頃にでも改めて話すとして。香水のことはね、皆で話し合って決めたの。麻衣を騙すことになるから悩んだけど、それで麻衣が安心できるならってことで」


 その話し合いの図を想像するだけで、心がぽかぽかと温まる。

 私のちっとも知らないところで、彼らは私のために話をし、私のために悩んでくれたのだ。


「それぞれの匂いを教えてくれたのは涼子ちゃんなの」

「そうそう。それだよ、一番大変だったのは。父さんと母さんはいいよ。苺とかブルーベリーとかさ。兄ちゃんのラズベリーもまだましだった。涼子さんの薔薇なんてどこでも売ってる。でも俺、コケモモ」


 そう言って弟は土偶みたいな顔をする。


「まず俺、コケモモって聞いても形すら浮かばなかった。コケモモの香水なんて店で売ってんの見たことないし、通販でもなかなか見つかんないし、マジで苦労したわ。海外の通販で見つけて入手できるまで、スーパーで買ってきたコケモモジャムで代用してたんだぞ」

「え? ジャム?」

「ねぇちゃんに近づく直前にコケモモジャム貪り食ってた」


 思わず笑ってしまった。


「笑いごとじゃねぇよ。口の中ベットベトでさ。ホント、どうしようかと思った。香水届いてからもクラスの奴にくさいくさい言われるし、シモ先はうまいこと言ったとでも思ってんのか『お前、芳香罪だぞ』ってドヤるし」

「あ、それ私にも言ってた」

「だろ? 何かやたら気に入ってんだよ」


 弟は本気で嫌そうな顔をする。

 芳香罪。

 優しい嘘にまみれた、とんでもない罪だ。

 日焼けした顔を見ながら、そう思った。



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