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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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 天気のいい休日、リハビリのために病院に向かった。父が不在だったので、久しぶりに汽車に乗った。平日は混みあっているから人とぶつからないようにと汽車を避けていたけれど、休日の昼は空いている。窓から差し込む陽がぽかぽかと気持ちよくて、一日の始まりは最高だった。

 それからいつも通りに痛いリハビリを終え、ふと思い立って出身校に向かった。事故の時にお世話になったらしい下井先生にお礼を言うためだ。

 先生は私の姿を見るなり嬉しそうな表情を見せた。


「おう、上澤か。よかったなぁお前。心配したぞ」

「はい、その節は本当にお世話になって」

「いやぁ、よかったよ。本当に。ちょうどあの事故のちょっと前くらいに、お前の代の奴らの話になってな。ほら、上村がコーチで戻ってきただろ。それで、あいつの代に誰がいたっけって話をしてて、上澤の話も出てたもんだからさ。そうじゃなかったら、すぐに名前を思い出せたかどうか。毎年何百人もいるからな」

「本当に助かりました。ありがとうございました」

「もうすっかりいいのか」

「鎖骨のところにプレートは入れてますけど、それ以外は。脳震盪ももう全然心配ないですし」

「そうか。よかったよかった」


 先生はニコニコと笑ってから、不意に「あ」と言った。


「それよりお前あれだ、弟」

「はい」

「上澤晃平って、弟だろ」

「はい、そうです」

「いま俺、生徒指導担当なんだよ。お前の弟、常連だぞ」

「え?」


 生徒指導の常連ということは、何かやらかしたということだ。


「晃平が……ですか?」


 正直、かなり意外だった。

 焼きおにぎりは素直な性格だし、大好きな野球をできなくなるような愚行はおかさないと思っていた。


「ねぇちゃんからも『ちゃんとしろ』って言っといてくれよ」

「晃平、何したんですか?」

「匂いがキツくてなぁ。ありゃあれだよ、罪と書いてザイと読む方の『芳香罪』」


 その答えを聞いて、息を呑んだ。



***


 彼のレストランの近くのバス停からバスに乗り、家に向かう。いつもと変わりないはずのスピードが、今日はひどくもどかしかった。

 車窓から外を眺め、目を瞑って先生との会話を反芻する。


『どういう……意味ですか?』

『香水だよ』

『香水……?』

『そう。注意してもやめないんだよ。落としてくるように気をつけてる、とは言ってたけど。校則で禁止してるわけじゃないし、お年頃だから色気出したくなるってのもわかる。でも、教室中が甘ったるーい匂いになるもんでな。さすがにこれはって言うんで、何回か注意したんだよ。あいつ返事はいいし、毎回素直に謝るんだけどな』


 ――つまり、晃平の香りは香水ってこと。それならお父さんのは? お母さんは? 涼子は? 彼は?


 バスがガタンと揺れた。

 残り香や、物についた香り。

 たぶんヒントはたくさんあったのだ。

 ただ、思ってもみなかっただけで。

 振動で軋む肩をぎゅっと押さえた。


***


 バスで向かった先は彼のレストランだ。

 目の前には彼。

 テーブルを挟んで座っているのではなく、向き合って立っている。

 ランチとディナーの間の時間帯で一旦閉店しているから、店内にはスタッフさん達と彼と私しかいない。


「麻衣、どうした?」

「突然来てごめんね。一分でいいから、時間をくれる?」


 私は呼吸を落ち着けるのに必死で、それ以外のことに構っている余裕はほとんどなかった。


「わかった。ちょっとそこの個室で待ってて」


 そう言った彼の手が上着の内ポケットに向かう。そこに何が入っているのか、今の私には確信があった。だから黙って彼に歩み寄った。


「ううん、今」

「麻衣、どうした」

「確かめたいことがあって」


 背伸びをし、彼の頬にキスをする。


「ま……」

「今日はオレンジの香りがしないんだね」


 彼の顔色が変わった。


「まい」

「お邪魔しました」

「まいっ」


 左腕を掴まれた。


「離して、カズくん」

「言っただろ。俺は、あの日麻衣を引き留めなかったことを死ぬほど後悔してる。この状態で麻衣を行かせるわけにはいかない」

「ううん、カズくん。私は冷静だよ」


 彼の瞳がまっすぐに私を見る。

 そしてたぶん、私の目に嘘がないことがわかったのだろう。

 左腕を掴む力がゆるくなる。


「本当に冷静なの。ただ、本当のことが知りたいだけ。そして、それを家族の口からちゃんと聞きたいだけ」


 今度こそ間違えない。

 ワイングラスを共に連れて車に飛び乗ったりしない。

 家から逃げ出したりせずに、向き合うために家に帰るのだ。


「終わったらちゃんと全部話すから。あの事故の日のことも。だから今は一度家に帰る。家族のところに帰る」


 彼はまだ心配そうな顔をしている。


「カズくん。家族と向き合おうって思えるの、カズくんのおかげだよ。だから、『俺がいるから大丈夫だよ』って言って、送り出してほしい」

 

 彼は私の目をじっと見つめた。


「……わかった。夜、電話して」

「うん」

「絶対だぞ」

「うん」

「麻衣、俺がいるから大丈夫だ。絶対に大丈夫」

「ありがとう。行ってくる」


 レストランを後にした私は、ひとつ大きな深呼吸をした。 



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