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事故から一ヶ月ほどで私は無事仕事に復帰した。無事、というよりも、年度末を前にした忙しさで戻らざるを得なくなったというのが正しい。
骨はようやくくっつき始め、無理をしなければ内勤をこなせるまでに回復した。
週に数度病院に通ってリハビリを受け、使わないうちにすっかり固まってしまった筋肉をほぐして肘の可動域を広げる。リハビリは痛くてキツくて、付き添ってくれるお医者さんや理学療法士の人に理不尽な怒りを抱きそうになるほどだけど、泣き言を口にしても仕方ないからと何とか耐えている。
仕事、リハビリ、仕事、仕事、リハビリ、仕事、リハビリ、仕事……
バレンタインはレストランもホテルも大盛況だ。別れと旅立ちの季節である三月も、送別会に卒業パーティーにと大忙し。つまるところ一年中忙しい彼と過ごせる時間は元々ごくわずかだというのに、そこにリハビリなんていう余計な予定まで食い込んできたものだから、彼にほとんど会えないまま季節はすでに春を迎えようとしている。
運転を控えるようにというお医者さんの指導の下、朝は父の車で仕事に向かう。
私よりも職場の遠い父に合わせ、家を出る時刻は以前より三十分も早くなった。そして肩が満足に動かないせいで何をするにも時間がかかるので、起床時刻は一時間繰り上げ。おかげで車の中で化粧をする習慣がつき、ひどい時にはトースト片手に車に乗り込むこともあるほどだ。
「ねぇちゃん、この揺れの中でよく化粧なんかできるな」
便乗して朝練に向かう弟に感心されながらマスカラを塗る。
「晃平、ちょっと、この鏡を持ってこっちに向けててくれる?」
「はいはい」
渋々ながらも鏡係になってくれる弟は、すぐに呆れた声を上げた。
「ねぇちゃん、気付いてるか」
「何が」
「マスカラ塗ってるとき、鼻の下めちゃくちゃ伸びてるぞ」
「伸ばしてるの」
「ああ……俺はこうして女子という生き物への夢を失っていくんだ」
「幻想を後から打ち砕かれるよりいいかもよ」
「よくねぇよ。彼女できなかったらどうしてくれんだ」
「聞いた? お父さん。ついに晃平が彼女ができないのを私のせいにし始めたよ」
「彼女もいいけど、それよりまず晃平は成績を何とかしろ。何だあれは。もうすぐ高三なのに。大学どうするんだ」
「えー……話そっちに進むのかよ……」
弟はがっくりと肩を落とした。
車内の香りはいつも通り、ブルーベリーとコケモモ。
元々妙だった能力はどういうわけだか更に妙な進化を遂げ、日によって微妙に変化する匂いの濃度まで感じ取れるようになった。それこそ息が詰まるほどの濃さの日もあれば、紙ペラみたいに薄い日もある。
それでも、私の気持ちはほとんど匂いに左右されなくなっていた。
彼らは私を大切に想ってくれているし、私も彼らを大切に想っている。涼子が玲那ちゃんを思うみたいに、そこに戸惑いや遠慮が混じることがあったとしても、それは「好き」を食いつぶすことはない。
「麻衣、着いたぞ」
車を降り、ドアを開けたまま父と会話をする。
「ありがとう、お父さん。行ってきます」
「あ、今日の帰りはどうする?」
「リハビリの予定だよ」
「帰りに病院まで迎えに行く。また夜に連絡する」
「あ、リハビリの後、もし時間があったら支店の飲み会に合流することになってるの。だからタクシーで帰るよ」
「じゃあ、とりあえず飲み会に行くかどうか決まったら連絡くれ。飲み会に行くにしろ行かないにしろ、迎えに行けたら行くから」
「わかった。ありがとう」
車を降り、ぶぉぉおん、と音を立てて走り去るのを見送ってから職場に入る。
最近は仕事からリハビリ、そしてまた仕事へと戻ることも少なくない。
そんな慌ただしい毎日だったから、ひさしぶりに友人たちとゆっくりと過ごせるこの日を、私は待ちわびていた。
「涼子、何色のドレスかな」
「顔立ち的に、紺とか臙脂とか、濃い色が似合うよね」
「あー、超似合いそう」
「たしかにあんまりパステルカラーのイメージじゃないもんね」
同期たちの会話を聞きながら、私は子どもみたいにそわそわしていた。
今日は涼子のウエディング。式は家族だけで済ませ、二次会を彼のレストランで開くことになっている。披露宴を終えてこの会場に移動してくる新郎新婦を今か今かと待っているのだ。
「麻衣は? 涼子からドレスの色聞いてないの?」
「あ、うん。聞いてないよ」
「そっか。仲良しの麻衣ですら知らないってことは、誰にも言ってないのかな」
「うん。たぶん」
でも、何となく予想はついていた。涼子のドレスはきっと、玲那ちゃんの意向を反映したものになるはずだ。「入籍だけでいい」と言った涼子に結婚式をするよう強く勧めた張本人だから。
司会の宣言につづいて定番のウエディングソングが流れ、玲那ちゃんを真ん中に三人が入場してきた。花嫁の姿を見るなり、レストランが「ほぅっ」というため息に包まれる。新郎側の友人たちの席からは歓声のようなものまで漏れたほどだ。そんな会場の様子を誇らしく思いながら、入場曲に合わせて手拍子をする。あまり思いっきり叩くと骨に響きそうだったので抑え気味にしたけど、心の中では祝福の銅鑼を打ち鳴らした。
「涼子綺麗だね」
「うん、本当に」
「涼子が髪巻いてるの初めて見たけど、似合うね」
「美人は何でも似合うよね」
「たしかに」
隣の同期と小声で会話をしながら涼子を見守る。
もともと美人な涼子が普段の五割増しくらいに美しく、オレンジ系統の照明も手伝って柔らかな雰囲気に包まれている。話題だったドレスは淡いピンク色で、玲那ちゃんも同じような色合いのドレスを着て破顔している。
皆がスマホを構えて写真を撮る中、私はただただ三人を見つめていた。
きっとこれからも、迷ったり悩んだりするのだろうけど、そうやって少しずつ、彼らなりの「家族」という形を見つけていくのだろう。
――よかった。玲那ちゃんが幸せそうで。
そのことが、涙が出そうになるくらい嬉しかった。




