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「それで、会って話をすることにしたんだね」
「うん。その玲那ちゃんって子が怯えないように、偶然会った感じにするのがいいかなっていう話になって」
遠足の準備でショッピングモールにいる涼子たちと合流するため、久しぶりに彼の運転する車の助手席にいた。車があの事故の現場近くに差し掛かると少しだけ鼓動が早くなった。でも、あまり覚えていないおかげなのか、それほど恐怖は感じない。あの日運転していた車は後部がグシャグシャになったので廃車にしたけど、鎖骨が治って車を手に入れれば運転を再開できそうだった。
「話してうまくいくといいな」
「うん、本当に」
「麻衣ならきっとうまくやれるよ」
「そう……だといいんだけど」
自信なんて全然なかった。むしろ、私が首を突っ込むことで事態が悪化してしまったらどうしようと、怯えてもいた。
目を閉じて深呼吸をすると、オレンジが余計に強く香る。
「ん……いい匂い」
「匂い? ああ、そうだよな。香りが戻ったって言ってたもんな」
「うん。それに、すごく不思議なことに前よりも匂いが強くなったの。昔は面と向かってるときにしか感じなかったのに、今は何ていうか……残り香みたいなのも感じるようになった」
「手術のあとって言ってたよな? 麻酔のせいかな?」
「どうだろう。わかんないけど」
「気まぐれな能力だなぁ」
彼が笑って肩を揺らすと、それに合わせたようにふわふわと香りが流れてくる。
「そうだね。本当に気まぐれ」
「でも、それで麻衣が安心できるなら、よかったのかもな」
「うん。匂いがあれこれ混じるとちょっとキツイけどね」
その日一番キツかったのは、コスメのお店の前を通りかかった時だった。シアバターの独特な香りに人工的な花の香り。そこに彼のオレンジが混ざって、目がチカチカした。
「麻衣、大丈夫か?」
私が人にぶつからないようにと気遣って先導してくれる彼に向かって頷きながら、極力息を止めてそこを通り過ぎる。人混みは少し怖い。今人とぶつかったら肋骨がどんなふうに痛むのか、想像するだけで恐ろしかった。
「麻衣。ここを降りたところだったよな? 待ち合わせ場所」
「うん」
二人でエスカレーターに乗り、一階に下りる。
椅子が並べられた小さな広場のようなスペースに、涼子とその彼と玲那ちゃんと思しき女の子が並んで座っていた。
「あ、涼子」
まるで偶然って感じに声を掛けてみたけど、隣にいる彼が声を殺して笑っていたから、たぶん演技はかなり下手くそだったのだろう。
「あ、麻衣、デート?」
「うん。涼子は?」
「玲那ちゃんの遠足用のリュックを買ってきたところだよ」
そう言ってから涼子は玲那ちゃんの前にしゃがみ込んで目線を合わせ、私を指さした。
「玲那ちゃん。こちら、私の友達の麻衣ちゃん」
それを受けて、涼子の彼が玲那ちゃんの背中にそっと触れる。
「玲那、麻衣ちゃんにご挨拶は?」
「こんにちは」
「こんにちは。はじめまして、玲那ちゃん」
涼子の彼はとても優しそうな人だった。玲那ちゃんを見る目も、涼子と交わす視線も、慈愛に満ちている。
「歩き回ってちょっと疲れたから休憩してアイスでも食べようかって言ってたんだけど、麻衣たちも一緒にどう?」
「あ、アイス食べたい」
「じゃあ買ってくるから怪我人はここに座ってて」
「混んでるから玲那もここで待ってなさい。荷物の番を頼むよ」
「あ、俺も行きます。麻衣はチョコミントでいいよな?」
「えっ」
「嘘だよ。クッキーアンドクリームな」
「うん」
チョコミントのくだり以外は打ち合わせ通り、私と玲那ちゃんがその場に残された。
離れすぎると玲那ちゃんが不安になるからと、振り向けばすぐに涼子たちの姿を確認できる位置のベンチに並んで腰かける。
「玲那ちゃんの髪型、素敵だね」
ツインテールに苺の飾りのついたヘアゴムをつけている。子どもらしくてかわいい。
「涼子ちゃんがやってくれたの」
そう言ってツインテールに手をやった玲那ちゃんは、はにかんだように笑う。
嬉しそうな表情だ。
「苺、好きなの?」
「うん、好き。アイスもね、ストロベリー味にしたんだよ」
「そうなんだ、おいしいもんね」
「このヘアゴムね、涼子ちゃんが作ってくれたの」
「可愛いね」
「うん」
「涼子は器用だから、そういうの作るの上手だもんね」
「お料理もすごく上手だよ」
「そっか。玲那ちゃんは涼子の料理の中で何が一番好き?」
「んー……ロールキャベツかな。キャベツで巻くのをね、お手伝いしたの」
「そっか」
並んで料理をする姿を想像して胸が温かくなった。さっきの待ち合わせの場面からずっと、私の目には涼子と玲那ちゃんの仲はうまくいっているように見えていた。涼子はしっかりと玲那ちゃんと目を合わせているし、玲那ちゃんも怯えている様子はない。思っていたよりもずっと仲が良さそうだ。
もう少し踏み込んでも平気だろうかと、聞いてみることにした。
「玲那ちゃんは涼子のこと、好き?」
その瞬間、空気がピタリと止まった。
さっきまでニコニコしていた玲那ちゃんの表情が凍る。
それから玲那ちゃんは顔をくしゃくしゃにして、首を大きく横に振った。ツインテールが揺れてパサパサと乾いた音を立てる。
でも、これは否定ではない。
不思議なことに、私には確信があった。
「玲那ちゃん」
小さな手がスカートのすそを握りしめている。
ぎゅっと皺の寄ったスカートにポトリポトリと斑点模様ができる。
玲那ちゃんは私の右側に座っていて、残念ながら私の右手は自由に動かせないから、私はベンチから立ち上がって玲那ちゃんの前にしゃがみこんだ。そして左手を伸ばし、玲那ちゃんの背中をそっと撫でる。
「ママのこと、好きだった」
ぐっと、声が詰まった。
「そしたら、ママはいなくなっちゃった」
好きだったのに、いなくなったのか。
好きだったから、いなくなったのか。
幼い子にはわからない。
幼い私にもわからなかった。
そこにあるのはただ、「好きだった」と「いなくなった」という二つの事実だけ。
――ああ、そうか。
整理しきれていないらしい子どもの生の感情は、私が時間をかけて押し込めた奥の奥をいとも簡単に掘り当てた。
玲那ちゃんの姿が徐々にぼやけていく。
こらえきれなくなった涙の粒がふつりと弾けて頬を伝った。
「……玲那ちゃんは、好きになるのが怖いんだね?」
玲那ちゃんの場合には、死によって。
私の場合には、拒絶によって。
私たちのお母さんは「いなくなった」。
形は違えど、私の「好き」も玲那ちゃんの「好き」も、片想いになった。
幼い心には、それはきっと、あまりにも大きな喪失だった。
「片想いが、嫌なんだよね」
私も、玲那ちゃんも。
好きになったらまた傷つくからと、心がセーブを掛けたのだ。
玲那ちゃんの瞳からぶわりと溢れた涙を、私はただ見つめていた。
抱きしめてあげたい。だけどきっと、それは私の役目ではない。
玲那ちゃんの小さな肩越しに、アイスを持った涼子が見えた。心配そうに玲那ちゃんの背中を見つめる彼女に向かって私は小さくうなずいた。涼子はきっと、いいお母さんになるだろう。
「私も玲那ちゃんと同じだったんだ。小さいときにお母さんがいなくなって、お父さんと暮らすことになったの。それからずっと、みんなを好きになるのが怖かった。だけど、怖いってことはたぶんもう、とっくに大好きってことなんだよ」
自分の言葉なのに、なのか、それとも自分の言葉だから、なのか。すんなりと心に染み込んだ言葉を、私は静かに受け止めていた。
「玲那ちゃん、振り向いてごらん。玲那ちゃんのことを大好きな人が見えるから」
玲那ちゃんは振り返った。
たぶん反射的に、涼子が玲那ちゃんに向かって両腕を大きく広げた。涼子の彼が黙って手を伸ばし、涼子の手からアイスを奪い取った。それは、とても優しい光景だった。
玲那ちゃんがベンチを飛び越えて涼子に向かって駆け出すのを、私は眩しい気持ちで見つめていた。
「ごめんね、涼子ちゃん、ごめんね。こないだ、ごめんね。ごめんなさい」
涼子にしがみついて泣く玲那ちゃんを見つめていたら、肩に温かい手が置かれた。
「麻衣。よかったな」
穏やかな声。
大きな手に自分の手を重ね、頷く。
彼は後ろから私の顔を覗き込んで言った。
「あれ、麻衣も泣いてる?」
「つられちゃったの」
「拭いてあげたいとこだけど、ハンカチ持ってない」
私はくるりと体を反転させて、彼にしがみついた。
「私のハンカチは、ここにちゃんとあるよ」
彼の服のお腹の辺りに私の涙が染み込んでいく。
彼が着ていたジャケットはハンカチと呼ぶにはイマイチな給水性能だったけど、その代わりに私のことを安心させてくれる性能を持っていた。
「お、人前で。珍しい」
からかうように言った彼の手が、優しく背中に触れる。
「こういうの何て言うんだろう……俺、麻衣のこと、誇りに思うよ」
「何が?」と問おうとして顔を上げたら、彼の視線は緩やかに逸らされた。
「敬遠せずに、ちゃんと勝負した。だからほら、ちゃんとストライクとれただろ?」
言ってから急に照れくさくなったらしく、背中に触れていた手が離れる。
「うし、帰るか。家まで送るよ」
「うん」
ありがとう、大きな人。ありがとう。
そんな気持ちを込めて、私の方から手をつないだ。
彼はぎゅっと握り返してくれた。
**********
帰りはやたらと道路が渋滞していた。
車の中では映画のサントラが流れていて、彼はそれに合わせて鼻歌を歌う。
「カズくん」
「ん? どうした」
「相手の気持ちがわからなくて不安だったのはね」
「うん」
「好かれないことを恐れたからじゃないんだと思う。たぶん私は、好かれる以上に好きになっちゃうのが怖かった」
家族のことも、友達のことも、彼氏のことも。
片想いを恐れた私は、いつもいつも知りたがった。ちゃんと愛されているか、どれだけ愛されているか。相手の気持ちを測り、自分がそれ以上に愛してしまわないように常に気を付けていた。
そうして自分の気持ちを差し出すことを恐れたから、私はいつも孤独だった。
「でも、もうとっくに大好きだったんだ。家族のことも、友達のことも、カズくんのことも」
「うん。それに、家族も友達も俺も、麻衣のことが大好きだよ」
私は今度こそ、素直に頷くことができた。
事故に遭ってから目を覚ました時、私を覗き込んでいた家族の顔。深い隈の出来た彼の目。彼らから漂う甘い匂い。
「今よりもっと大好きになっても大丈夫かな?」
「大丈夫だよ麻衣。俺が保証する」
「それはすごく心強いよ」
「だろ?」
そう言ってカズくんはニヤリと笑った。
「だからほら、手始めに言ってみたら?」
「何を?」
「彼氏に向かって『大好き』って」
「へ?」
思わず、間抜けな声をあげてしまった。
「何だその反応、傷つくな」
私はカズくんの横顔を見つめた。切れ長の目の縁に、優しい笑い皺。
そうだ、私は確かにこの人を。
きっと、愛している。
認めようと認めまいと、とっくに私は愛していた。
「……泣いちゃったら視界が曇って危ないから、運転中は言わないでおくね」
そう言うと、彼は穏やかに笑った。
「たしかに、また事故ったら笑えないからな」
「うん」
――ちゃんと伝えるから、もう少しだけ待っていてね。
オレンジの香りに包まれて深呼吸をした。息をするのがこんなに楽に感じられるのは、本当に久しぶりだった。




