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――あれ?
最初はほんの小さな違和感だった。
鎖骨手術の全身麻酔から覚めてほんの数時間後、ベッドに横たわっている私の傍にやって来る家族たちから甘い匂いがした。顔の近くに来た瞬間にしか感じない、ほのかな香りだった。
麻酔後のひどい吐き気のせいでなかなか眠れず、痛み止めの点滴で頭がぼんやりしていた。そんな状態だったから、最初は気のせいだと思っていた。
だけど頭がはっきりするにつれ、匂いは消えるどころか強くなっていく。母からは苺、父からはブルーベリー、真ん中の弟はラズベリーで、一番下の弟はコケモモ。涼子からは薔薇、彼からはオレンジ。
さすがに気のせいではないと納得してからも、麻酔のせいで鼻がおかしくなったのかもしれないとか、事故のせいで脳に異変が起きているんだろうかとか、色んな可能性を考えてみた。でも手術前に受けた説明をどんなに一生懸命思い出しても、嗅覚がおかしくなるという話はなかった。
手術から五日後に無事退院し、父の運転する車で実家に帰っている途中でそれは確信に変わった。
――やっぱり、匂いが戻ってる。
苺とブルーベリーの香りが混じって、車内は果てしなく甘酸っぱかった。
「すっかり元どおりなの?」
退院して四日目。涼子がお見舞いに来てくれた。私の部屋で二人向き合って座り、カルシウム補給用にと差し入れてくれた煮干しをかじりながらお茶をすする。鎖骨の痛みはかなりよくなり、家の中を普通に歩き回れるし、お風呂以外の日常の生活にそれほど不便は感じていなかった。
ただ、まだキーボードを打つのは無理そうだったし、寝返りを打てないせいでかなり睡眠不足だった。その上車の運転ができないとあって、職場に行っても却って足手まといになるのは目に見えていた。そこで上司から「有休消化の意味でも少しゆっくりしてはどうか」というありがたい提案をいただき、しばらく自宅で療養することにしたのだ。
「元どおりって? 骨のこと? 骨なら、くっつき始めるまでに一か月くらいかかるって言われたよ」
「ちがうよ、『匂いが戻った』ってメールで言ってたでしょ」
涼子は呆れ顔だった。
「ああ……うん」
「それで? 上村先輩の匂いはどう? 強すぎない?」
「手術の翌日に顔見に来てくれて以来、会えてないからわからないんだ。電話では話してるけど」
「そっか。家族は?」
「いい匂いだよ」
「私は? いい匂い?」
そう言って涼子はわざとらしく髪の毛をファサリと振って見せた。
途端に、ふわりと薔薇が香る。
「相変わらず、薔薇の匂い」
「それで……どんな気分?」
「変な感じ」
「匂いが消えた時と同じこと言ってる」
「ほかに言葉が見つからなくて。嬉しいような気もするし、『またか』って気もするし。結局、ただのワガママだよね」
「そうかもね」
ボリボリ、奥歯で噛むと鎖骨に響いて鈍痛がする。
思わず顔をしかめながら涼子を見たら、涼子も私と同じくらいのしかめっ面だった。
「煮干し?」
「何が?」
「その顔、煮干しのせいかなって」
「ああ……」
煮干しが原因ではないらしかった。
そうすると、心当たりはもうひとつ。
「あの……もしかして……彼の娘さんのこと、うまくいってない?」
涼子はふう、とため息をついた。
「昨日まではうまくいってるつもりだった」
涼子を見つめ、話を促す意味で首を傾げる。
「玲那ちゃんって言うんだけど、すごくいい子でね。普通に話してくれるし、ちょくちょくご飯を一緒に食べたりして、仲良くなれてるつもりだったんだ。でも、昨日彼に学校から連絡が入ってね」
涼子はまた、深い深いため息を吐いた。
娘さんが数か月前から通っている小学校では、いまどき珍しく親子遠足があるらしく、そのお知らせと参加の可否を問うプリントが少し前に配られていた。けれど、娘さんはそれを涼子の彼に見せていなかったという。だから当然涼子の彼は参加・不参加の返事をしておらず、その確認のための電話がかかってきたのだそうだ。
「少し前に連絡網も回ってたみたいなんだけど、彼が仕事で遅くて電話取れてなかったらしくて」
「そっか」
「どうしてプリントを見せなかったのって聞いたら、『パパは忙しいから』って。一緒に暮らし始めてから二人分の家事だとか手続きだとかでバタバタしてる姿を見て、たぶんあの子なりに気を使ったんだと思うんだ。だけど、それが完全に裏目に出ちゃって。もう少し早く知ってたら彼が仕事休めたかもしれないけど、ちょうどその日に高松に出張の予定があって、彼はどうしても抜けられないって言うの」
「うん」
「転校したばっかりだから他のお母さんたちに頼めるほど仲良くもないし、心細いだろうし、彼のお母さんは足が悪くて遠足は無理だし……だから『私が行こうか?』って言ったら……泣き出しちゃって」
「……何て?」
「『どうして? ママじゃないのに』って」
涼子は頭を両手で抱えた。
長い指、キレイな爪、艶のある髪。
「うぬぼれてたんだよね。喜んでくれるんじゃないか、なんて図々しいこと思っちゃってた。だから結構ダメージ大きくてね。これが彼女の本音なんだろうなって。優しい子だから今まで私にも気を使ってくれてたんだと思う」
「……彼は何て?」
「私に対しては『嫌な思いさせてごめん』って。遠足のことは何とかもう少し考えてみるからって」
ぽつりとそう言った涼子が下唇を噛む。
「そっか。涼子、悲しかったね」
他に掛ける言葉が見つからなくてそう言ったら、涼子は首を横に振った。
「自分が情けないの。あんな小さい子に気を遣わせてたことも、それに気づかずうまくいってるつもりになってたことも、嫌なことを言わせちゃったことも、全部。まだほんの子どもで、大事に大事に守られなくちゃいけない存在で、そのうえ、今はきっと人生で一番つらい時期を必死に生きてるのに、それなのに……私たぶんあのとき、ショックを受けたのが顔に出ちゃってたと思う。クールだとか、わかりづらいとか、これまでに散々言われてきたくせに、一番大切な、一番平気な顔をしてなくちゃいけないときに、馬鹿正直に顔に出しちゃったんだよ私は。私の反応に更に傷ついたみたいに泣いてた。そりゃそうだよね。自分で自分が許せないよ」
誰が悪いわけでもなく、誰もそんなことを望んでいないのに、たぶん誰もが傷ついている。
ポトリ、小さなテーブルに滴が落ちた。
初めて見る涼子の涙は、私に腹をくくらせるだけの力を持っていた。この間話を聞いたときは、誰にでも言えることしか言わなかった。でも今は、私にしか言えないこと、私にしかできないことを。
「涼子。先輩のアドバイス、ほしい?」
涼子は顔を上げた。長い指が目の下をぬぐい、水を弾き飛ばす。
「自分の子じゃないけど、実子と分け隔てなく育てた知り合いがいるって言ったでしょう? その人の話、聞いてみたい?」
涼子は少しも迷うことなく頷いた。
「聞きたい」
力強い目が私を見据えている。
私は骨に響かないようにゆっくりと立ち上がった。
「わかった。ちょっと待っててね。呼んでくる」
「え? 呼んでくるって……今?」
「うん。母、今階下にいるから」
涼子は眉を寄せた。
私の言葉の意味がすぐにはわからなかったのだろう。
私の顔をじっと見つめたあと、何かに気づいたようにハッとした顔をして、ガタンと音を立てて立ち上がった。
「麻衣、待って。どういうこと?」
「私の母なの。そして、実子じゃないのは――引き取られたのは私」
スラリとした涼子に見下ろされている。
「麻衣、それって……」
「今まで話してなくてごめんね」
「そんなのいいけど、麻衣……。ごめん、どんな気持ちで私の話を……」
「謝らないで。これは私にとっても、いいきっかけになると思う。だからここでちょっと待ってて。話してくる」
忌み続けてきた自分の過去が、もしかしたら誰かの役に立つかもしれない。そんな風に思ったのは初めてだった。
階段を下る私の足取りは、不思議なほど軽かった。
***
一階へ降りると、母は鼻歌をお供に夕飯の準備をしているところだった。
「あ、麻衣、どうしたの? お茶とか足りてる?」
振り返った母が木べらを片手に問うてくる。
炒めている途中らしいタマネギの匂いに交じって、苺がふわり。
「あの……」
「なぁに?」
「今ちょっと、平気?」
そんな尋ね方をすることはあまりないから、何かを察したのだろう。母はコンロの火を止め、木べらを置いてタオルで手をぬぐった。
「どうしたの?」
「涼子がね、その……悩んでて」
「うん」
「涼子、結婚を前提に付き合ってる人がいるんだけどね。彼はバツイチで、娘さんがひとりいるの。色々あって、娘さんを彼が引き取ることになって。涼子は、その娘さんとの接し方とか関係に悩んでて……その……」
キツいブラジャーをつけた時みたいに息苦しくなって、大きく深呼吸をする。
何度か肩で息を繰り返すと少し楽になった。その間、母は黙っていた。
「その……私がここに来たときと少し似てる気がするから……お母さんなら、涼子にいいアドバイスができるんじゃないかなって」
母はエプロンを脱ぎ、静かに言った。
「涼子ちゃんは知ってるの? 麻衣の話」
体の横にだらりと垂らした左手が、小刻みに震えていた。その震えを何とか止めたくて、ワンピースを握りしめる。
「ほとんど何も。さっき、ほんの少し話しただけ」
「そう。麻衣はいいの?」
「うん、あ……うん」
うん、の後に「もちろん」と付け足そうとして失敗した。
もちろん、と言えるほどではなかった。
「涼子がそんなに悩むって珍しいの。だから、私で何か力になれるなら何でもしたいなって思ってる」
「わかった」
母はあっさりと頷き、私の次の言葉を待っている。
「あの……私、ここにいるから」
「私が一人で行って、涼子ちゃんと話す方がいいの?」
「その方が話しやすいかなって」
「私はいいけど、涼子ちゃんはそれで大丈夫かしら?」
「涼子は大丈夫なタイプだと思う」
「そう。じゃあ、麻衣の好きな方でいいよ」
「ここにいる」
「肩が冷えないように居間の方にいなさい。寒いから」
「うん」
エプロンを手近な椅子の背にかけ、母は台所を出て行った。
後には私と、苺の香りが残された。
コチコチと秒針の動く音が響く静けさが嫌で、ふぅっと音を立てて大きく息を吐く。
この歳になってもまだ音のない孤独が怖いくらいだから、まだ幼いその子――たしか涼子が「玲那ちゃん」と言っていたか――が感じている恐怖や孤独は、きっと私の比ではない。
――麻衣は痛みを知ってると思う。
彼がいつかそう言っていた。母が涼子の気持ちをわかるように、私は玲那ちゃんの気持ちを理解してあげられるのではないか。
静かに生まれた思いつきは、心の中で少しずつ膨らんでいく。
向き合うべき時がきたのだと、誰かが私に告げている気がする。
パーカーのポケットに手を入れ、お守りを取り出した。手術の日に彼から手渡されたボソボソの白いフェルト。握りしめると、カサリと乾いた音がした。袋状になっているお守りを開いて中を覗くと、小さく折り畳まれた紙が入っていた。
『敬遠も戦略のうちだけど、いつかはキャッチャーを座らせて勝負しないとアウトは取れないよ』
野球用語になぞらえたそれは、きっと彼の精一杯の気持ちだ。
丁寧に綴られた文字からは彼の強い想いが透けて見えた。私を勇気づけようとしてくれて、けれど追い詰めないようにと、言葉を選んで選んで書いたのだろう。
ふわり、紙からオレンジが漂った。
その香りに背を押され、私はひとつ、心を決めた。




