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静かな病室、彼の背後にあるテレビで鏡開きのニュース映像が流れていた。
酒樽に巻かれた太い縄が、昼間に見せられた写真の記憶を呼び覚ます。
「あの……傷が残るって」
「え?」
「鎖骨の上のところに、縄目みたいな傷跡が残るみたい」
「そうか」
「ごめんね」
「『ごめん』って、何が?」
「それでも……いい?」
勇気を振り絞っての問いかけは彼を随分と驚かせたらしかった。
「『いい』って、何が?」
「傷跡があってもいい? その、何ていうか……」
「俺の彼女の条件に、『傷ひとつないこと』っていう項目があると思ってた?」
「だってその……ちょっと襟ぐりの開いた服を着たりしたら、たぶん見えちゃうし」
「麻衣。俺の彼女の条件はひとつだけだよ。何だと思う?」
「そんなの、わかんないよ」
「『上澤麻衣であること』」
返事の代わりに、彼の首に左腕を回してそっと抱きついた。彼も、私の右肩に触れないように慎重に抱きしめ返してくれる。事故以来お風呂に入れていないことなんて、もうすっかり頭から抜け落ちていた。
「どうしてそんなに……」
「どうしてだろうな。俺にもわからん。初めての彼女だからなのか……それとも、親の庇護下から少しずつ抜け出して価値観が形成される時期を一緒に過ごしたからなのか。『理想の女性』とか『彼女』っていうのが、もう麻衣ベースになってる」
「ありがとう」
「もちろん、好きなところを挙げろって言われたらいくらでも挙げられるよ。そうだな……たとえば、『ごめんね』と『ありがとう』がすらすら出てくるところとか、人の悪口を絶対に言わないところとか。辛い時でも笑ってる……のは、見てて辛くなることもあるけど……周りの人を不快にさせないようにっていう気遣いなんだってわかってるし。あとはまぁ、ちっこくて可愛いし、動きがちょこちょこしてるし、ちょっとからかうとムキになるし……」
指を折りながら、つらつらと続ける。
一番最初に容姿のことを出さなかったのはきっと彼の優しさだ。傷があってもいいよっていう意味の。
それがわかって、なおさらこの大きな人が愛しくなった。
――あ。
つきりと頭が痛くなった。ダメだ、そんな風に思ってはダメだと、警告を発しているみたいに。
「麻衣」
「……なに?」
「彼女の条件は今のところ『上澤麻衣であること』だけど」
「うん」
「苗字に関しては、変わってもいいかなって思ってる」
体を離そうとしたけど、彼は離れなかった。
「このまま聞いて」
きっとこの瞬間、緊張で彼の鼻が動いているに違いなかった。それにたぶん、視線はどこかをさまよっている。
「麻衣の気持ちの準備がまだ整ってないのはわかってる。ただ、俺の心の準備は整ってますよってことをお伝えしときたくてな。絶対に麻衣を手離したりしない家族に、いつでもなれる」
いつか家族に捨てられるのではと怯えている私だから。
彼の優しさが私の心をかき混ぜる。
――早く返事をしないと。
また「ありがとう」はきっとずるい。
でも、私が彼の奥さんに?
私は実母に似てはいないだろうか。実母のような母親にならないだろうか。もしそうなったときに、彼を失いはしないだろうか。失ったとして、実家に私の居場所はあるだろうか。
鎖骨よりももう少し下の方、心がじくじくと痛んでいる。
「ごめん、焦らせたな。俺がただ伝えときたかっただけなんだ。答えは全然急がないから、心が決まったらいつか教えて」
ポン、ポン。
背中を、鼓動と同じリズムで柔らかく叩かれる。
どうやって気持ちを伝えたらいいか、よくわからなかった。うまい言葉が見つからない。しばらく迷って迷って、やっと一言つぶやいた。
「……ひとつお願いしてもいい?」
「何?」
「あのね、もちろん、何もないに決まってるんだけど」
「うん」
「明日、もしも何かあったら、父に伝えてくれる?」
「……何て?」
「『ありがとう』って」
声が詰まった。
「母にも、弟たちにも」
「『ありがとう』だけでいいの?」
少し考えて、それから頷いた。
「うん」
「わかった、引き受ける」
「ありがとう。こんなことを頼めるのは、カズくんだけだよ。私はカズくんのこと、本当に信頼してる。カズくんの気持ちも。それは、カズくんのおかげだと思ってる」
それが今の私の精一杯だった。
「了解。まぁ、万が一にもそんなことはないけどな。麻衣が麻酔のせいで眠りこけてたら、俺がたたき起こしてやるし」
「お願いします」
彼が笑顔で帰って行ったあと、私は翌朝に備えて下剤と軽い睡眠薬を飲み、眠りについた。
睡眠薬のおかげか、肩の痛みも気にせずにぐっすりと眠り、夢は見なかった。




