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ベッドの縁に腰かけ、お見舞いに来てくれた彼を見上げる。
入院三日目。鎖骨に鋼線を入れる手術を翌日に控えた夜のこと。目を覚ました直後に散らかりがちだった意識はすでにすっかり元通り。バンドで固定してもらったおかげか肩の痛みも少なく、右手があまり使えないという以外にはほとんど不自由もなかった。
さきほどまで集合していた家族は気を利かせたらしく、姿を消している。
「カズくん、何か……彫り深くなった?」
醤油顔だったはずの彼の顔に影が増えているのが気になって問いかけたら、彼は疲れた様子で目の下の隈をこすった。スーツ姿で少しネクタイを緩めた彼は、くしゃくしゃの髪の毛と気怠い感じが相俟ってどことなく色っぽかった。
「あー……ここ数日ちょっと寝付けなくて」
「どうしたの? 仕事、忙しいの?」
筋張った手が伸びてきて、鼻をむぎゅっとつままれる。
「どの口が言うか」
「え?」
「どっかの誰かさんが事故に遭って入院なんかしてるから、心配だったんだよ」
「あ、ええと、ごめんなさい」
「罰としてその口を塞いでやろう」
彼が次にどんな行動に出るかわかったから、目を閉じた。
すぐに唇に柔らかな感触があった。
一瞬だけ。
あれ? って思うほどすぐに、彼が離れて行ってしまう。
残念に思いながら目を開いたら、彼はそんな私を笑う。
「さすがにここ、病院だからな」
彼の右手が私の左の頬に添えられた。
手が大きいのと、私が小さいのと。
包み込むような安心感はきっと、大きさのせいだけではない。
「ほんとうに無事でよかった」
疲れた顔の目尻に柔らかな皺が刻まれる。眩しそうな表情の原因はよくわからなかったけど、怒っているわけではないらしかった。
私が事故に遭った日。彼の家を出たのがすでに夕刻で、病院で目を覚ましたのは真夜中すぎ。眠りに落ちる直前に弟に彼への連絡を頼んだはずが、「そもそもコーチの連絡先知らないし、誰かに聞こうにも夜中だし」という理由で彼への連絡は翌日に持ち越された。その後も仕事中で連絡がつかなかったりと不幸な偶然が重なって、結局彼が事態を知ったのは翌日の夜だったという。すでに病院の面会時間が終わっていたから、彼は朝までまんじりともせずに過ごして、朝一番でお見舞いに来てくれたのだ。
「心配で心配で。一晩で禿げるかと思った」
「禿げたら晃平とお揃いになるね」
「あれは禿げじゃなくて坊主だけどな」
「でも晃平の坊主は三厘だから、ほとんど変わらないよ」
「いや、悲壮感が全然違う」
「そうなの?」
「そうなんだよ。麻衣も俺の毛も無事でよかったよ」
彼は口角を上げてにやりと笑ってから、急に真剣な表情になって私の目をじっと覗きこんだ。
「明日、手術、朝からだっけ?」
「うん」
「怖い?」
「ちょっとだけね」
全く怖くないと言ったら嘘になる。身体を切って骨を繋いで金具で留めて縫うなんて説明を聞くだけで痛そうだったし、夕方受けた麻酔についての説明には「重篤な合併症の危険性」みたいな結構恐ろしいことも含まれていて、同意書にサインする手が震えた。
「じゃあ、これを」
彼がごそごそとポケットを探り、何かを取り出した。
「ん、何?」
「手出して」
手の平を上にして差し出すと、彼がそれをポトリと私の手の上に落とした。
「あっこれ……」
「十年くらい前に可愛い同級生がくれたやつ」
白いフェルトと赤い刺繍糸で作った、野球ボールの形のお守り。少し汚れてクリーム色に変わり、フェルトはすっかりボソボソになっている。
「このお守り、結構効き目あるから」
「必勝」という文字を刺繍しながら、込めた想いはそれだけではなかった。
ストライクをとれますように。
試合で怪我をしませんように。
できれば私のことを好きになってくれますように。
邪な願いも、本当はちょっと含まれていた。
「麻衣は勝たなくちゃだろ」
「手術に?」
彼は瞬きした。
「手術も。それともう一つ、麻衣がひとりで戦ってる何かにも」
また彼は私の瞳を覗き込む。
「事故のことを聞いてから麻衣に会うまでの間、ずっと思ってた。あの日どうしてもっと強く引き留めなかったんだろうって」
「でも、あれは……」
「わかってるよ。麻衣は巻き込まれただけだ。でも、俺が引き留めてれば麻衣は事故に遭わなくて済んだ。麻衣の様子がおかしいってわかってたのに」
私は視線を落として、お守りから飛び出したフェルトの繊維の先っぽをねじった。
「話したくないなら聞かないよ」
ごくりと唾を飲む。
話さないというのは、相手を信頼していないと受け取られるだろうか。これは信頼の問題ではなく、私自身の問題なのに。
向き合う勇気をまだ持てずにいる。
事実とも、自分とも。
大きな手はまだ頬に添えられたまま。
「麻衣、忘れるな。俺は何があっても麻衣の味方だし、麻衣のことを誰よりも大切に想ってる。もしかしたら麻衣自身よりも。知ってるだろ? 俺は麻衣が吐いちゃうくらい、麻衣のことが好きなんだから」
――言えたらいいのに。この優しくて大きな人に。
あまりにも重いことを彼に背負わせる勇気がない。それ以上に、その事実を言葉にするのが怖い。だいいち、こんなことをなんて言って伝えればいいのかもわからない。
――「私は父の子じゃなかったの」? 「父とは血が繋がってないんだって」? 「実母が父を裏切ってたみたい」?
喉の奥で言葉が引っかかって出てこない。
頭がキンと痛んだ。




