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二時間くらい経ったろうか。ようやく病室が静かになって、両親が席を外したタイミングで弟に尋ねてみた。
「……わたしが事故の原因になっちゃったの?」
少し前から気になっていた。
たしか最後に視界に入ったのが前の車の赤だったから。
「いや。姉ちゃんの前の車が道路に飛び出してきた猫を避けようとして急ブレーキ踏んで、姉ちゃんも踏んだんだけど、姉ちゃんの後ろを走ってたでっかいトラックが間に合わなくて姉ちゃんの車にぶつかった。で、後ろから押された姉ちゃんの車が前の車にぶつかったんだってさ。事故を見てた人もそう言ってたし、前の車に残ってた衝突痕の位置が高くて一か所だったから、姉ちゃんの急ブレーキはちゃんと間に合ってただろうって警察の人が」
弟の説明はものすごくわかりにくかった。
頭のもやもやのせいだけではないような気がした。
「わかった?」
「ぜんぜん」
「ええと、だから、これが姉ちゃんの車だとして」
弟は両手で握りこぶしを作り、それを車に見立てて説明してくれようとしているらしい。
だけど、
「車が三台なのに手が二つしかないって致命的だな」
案外すぐに諦めた。
その後、弟は財布から取り出した小銭で説明をしてくれた。
前の車が百円玉、私の車が十円玉、後ろのトラックが五百円玉。
三台が連なって走っていたところ、百円玉が急に止まった。十円玉も慌てて止まった。五百円玉が止まり損なって十円玉にぶつかった。十円玉は五百円玉に押されて百円玉にぶつかった。結局わかりにくかったけど、つまり、どうやら私は玉突き事故の真ん中になったらしい。
「だから、姉ちゃんは後ろのトラックの追突の影響で前の車にぶつかっただけで、姉ちゃんが原因で追突したわけではないんだよ」
「そっか。よかった。他の人は、怪我は?」
「姉ちゃんが一番ひどいよ。前の車なんてコツン程度で、後ろのトラックの運ちゃんはめちゃくちゃガタイよくて丈夫そうだった」
「そうなんだ」
「覚えてないの? 事故の直後は姉ちゃん意識あったらしいのに」
「うん、あんまり」
「……ほかの記憶はちゃんとある?」
病室の小さなソファに腰かけた弟が心配そうに問いかけてくる。
頷こうとして後悔した。
肩が痛い。
「たぶんね」
「俺の名前は?」
「翔平」
「えっ?」
「嘘だよ」
はははーと笑おうとしたのに、ピリ、と空気が変わった。
「ふざけんな」
弟の声はものすごく不機嫌だった。
「あれ、どうしたの? 晃平」
「ふざけんなよ。こっちはまじで心配してんのに」
「あ、えっと」
ごめん、と言おうとしたのに、何だかうまく言葉が出てこなかった。
「何だよ、心配して損した」
「……ごめん」
私はあおむけに寝っころがっていて、少し離れた位置のソファに座っている弟の顔は全く見えない。
弟も今は顔を見られたくないと思っていそうな気がしたから、私はおとなしく天井を見つめていた。
「大体姉ちゃん、免許証も持たずにどこ行ってたんだよ」
「ええと、友達に会いに」
「ワイングラス持って?」
「あー、あれは……」
旅の友がどうなったのか、気になった。
「割れたよ」
「ん?」
「ワイングラスは割れてたって。粉々だとさ」
「そっか」
粉々、という言葉に何となくひっかかるものがあった。
「ったく。ワイングラスなんて洒落たもん持って行くくらいなら免許証ちゃんと持てよな。事故の時ちょうど近くをシモセンが通りかかってなかったら、姉ちゃんの身元の確認にもっと時間かかるところだったぞ」
「え、シモセンって?」
「シモセンが姉ちゃん見て『教え子だ』って気づいて、学校に問い合わせて連絡先とか調べてくれたんだよ」
「そうだったんだ」
シモセンと言えば、「月がきれいですね」を教えてくれた高校時代の現代文の先生だ。
「事故って聞いて母さんはカーブスから飛んで戻ってきてパニック起こしてるし、父さんは足ガクガク震わしてるし、俺は運転できないし。本当、どうしようかと思った。お向かいの宮崎さんちのおじさんがここまで乗っけて来てくれたんで助かったけど」
「あの、いろいろ、ごめんね」
「いや。姉ちゃんのせいじゃないんだよな。ごめん、俺こそ。よかった、目ぇ覚まして」
「私どれくらい寝てたの?」
「寝てたんじゃなくて意識失ってたんだよ。事故から五時間くらい。事故直後は意識あって自分で車から降りてきたんだって。そんでしきりに前の車の人に謝ってたらしい。でもフラついてすぐに地面に倒れこんだって」
「ふぅん」
変な気分だった。
別に記憶喪失になったわけでもないのに、どうしてそのことだけ忘れているのか。自分のことを他の人から教えられて、それでも思い出せないなんて妙な気分だ。
「さっき医者が言ってた、外傷後なんちゃらってやつなのかな。たぶん追突の衝撃で脳震盪起こしたって。鎖骨の方はシートベルトの圧迫で折れてたのが、地面に倒れたときに悪化したんだろうって説明だったろ」
「そうだっけ」
「やっぱり、まだぼんやりしてんだな」
「そうかな。よくわかんないけど」
「ちゃんと医者に言ってくまなく検査してもらわないと」
「うん?」
「心配だろ。後から『実は思ってたよりひどかった』なんて言われたくねぇし」
「ああ、うん、そうだね。ありがとう」
「何に対する礼?」
「心配してくれたことに」
「は?」
「え?」
「家族なんだから、心配するに決まってんだろ」
うっかりまた「ありがとう」と言いそうになった。
でも言わなかった。
代わりに天井をまっすぐに見つめていた。
白い白い天井は、ぼやけてもやっぱり白い。
「……姉ちゃん、どうした」
「なんで?」
「泣いてるから」
「あれ?」
左手で頬に触れると、たしかに頬は濡れていた。
「痛い?」
「あ、うん、痛いのかも」
姉ちゃん。
そう呼んでくれる「弟」。
――「家族」なんだから、心配するに決まってんだろ。
家族じゃないのだと知っても心配してくれるのだろうか。
もやもや、もやもや。
どうせ記憶が曖昧になるんだったら、いっそのことあの封筒の記憶が消えてしまえばよかったのに。
「ティッシュとか、ねぇぞ。ちょっと待ってて」
弟が立ち上がって歩き出す気配がした。
「行かないで」
「え?」
「一人になるの、心細い」
真っ白くて消毒くさい空間に一人きり。
そんなの嫌だ。
暗闇にひとりぼっちと同じくらい嫌だ。
足元の辺りで、弟が変な声を上げた。
「まじでどうした、姉ちゃん。脳震盪の症状に『人格変化』なんてねぇよな」
「……さぁ、どうだろ」
あればいい。
もっと強くなって、人の気持ちを信じられるようになって、そして怯えることなく、誰かを愛することができるなら。
愛する?
私が、誰かを?
ひとりでクスリと笑った。
弟が何か話していたけど、すごく遠かった。
眠い。
瞼が重い。
上の瞼と下の瞼がくっついてしまう。その前に、何か大切なことを言っておかなくちゃいけない気がした。
「あ、カズくんに……」
「は? カズくんって誰?」
「カズくんは……カズくん」
「こら、寝ぼけるな。おい、姉ちゃん」
「……カズくんに……ええと、カズくんの名前は……」
弟の声はますます遠くなって、口を開くのが億劫になってくる。
早く眠りたいのに要領を得ない弟との会話にイライラしてもいた。
「もしかして……上村コーチのこと?」
「コーチ……そうそう、焼きおにぎりの……」
「は?」
弟の返事を聞いたのを最後に、ずるりと、私はまた眠りの世界に落ち込んだ。




