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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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 雲をつかむようにふわふわとしていた感覚が徐々に鮮明になってくる。

 体のあちこちに疼くような痛みがある。左足首とわき腹、それに、右手の指、あとは頭、それに――肩?


「いた……」


 思わず漏れてしまった不満に、高い声が答えた。


「麻衣!」


 聞きなれた声だった。

 ものすごく近い。

 目を開けて返事をしないと。ああ、でももう少し眠っていたいような気もする。


「麻衣。目を開けて」


 その声が悲壮な響きを伴っていなかったら、私はたぶん二度寝を決め込んだに違いない。

 重い瞼をなんとかこじ開け、飛び込んできた光の眩しさにすぐまた閉じる。


「麻衣っ」

「姉ちゃん」


 低い声が二つ重なった。

 細く目を開けると、まつ毛の向こう側に三つの顔が見えた。光に慣れた目が、ようやくそれぞれの顔の造形をとらえはじめる。その前から声でわかっていたけれど。

 父と、母と、下の弟の顔を確認してまた目を閉じる。


「麻衣」

「兄ちゃんに電話してやらないと。心配してっから」

「晃平、病院で電話はダメ」

「個室だから平気だろ」

「せめてロビーに行きなさい」

「じゃあメッセージにしとく」

「二人ともちょっと静かにしろ」

「とりあえず看護師さんを呼ぼう」

「ナースコールこれか」

「父さん、それ違う。ナースコールはこっち」


 何だか騒々しくてクスクスと笑ってしまった。

 しまった、笑うと肩が痛い。頭も痛い。


「姉ちゃん、痛い?」

「気分はどう?」

「いたい。きぶんはまぁまぁ。頭がふわふわする」


 普通に答えたつもりだったけど、声がザラついていた。

 どうやら事故にあったらしいことは理解できた。

 痛みを誤魔化そうと深呼吸をしたら、嗅ぎ慣れない匂いが鼻に飛び込んできた。こういうのを何と言うのだったか。ツンとする、というほどでもなくて、でも思わず眉間に皺が寄るような、いわゆる病院のそれ。ピッタリの言葉を見つけようと脳内の辞書をめくってみるけれど、靄がかかっているようでうまく言葉を引き出せない。


「のうしんとうを起こしたみたいだよ、姉ちゃん」

「のうしんとう」


 聞いたことがある。

 それは何だったか。

 結露した窓の向こう側を見ようと目をこらしているみたいな気分だった。

 見えそうで見えない。

 知っているはずなのに、答えにたどりつけない。

 少ししてやって来たお医者さんから、しきりに「お名前は?」とか「ここがどこかわかりますか?」とか「今日は何月何日ですか?」といった質問をされ、ひとつひとつ答えていく。自分の名前はわかったし、ここが病院だということもちゃんと言えた。今日の日付はわからなかったけど、それはたぶん年始ボケのせいだと思う。


「痛むところはありますか?」

「肩と、頭と、あちこちが」

「肩の痛みは鎖骨のこっせつのせいでしょうね」

「こっせつ?」

「骨が折れているんです」


 ああ、その「骨折」。

 あれ?


「頭の痛みはどんな感じですか?」

「もやもやしています」

「意識を失っていたのはおそらくのうしんとうのせいだと思います」


 あ、また、「のうしんとう」


「のうしんとう?」

「頭に強い衝撃を受けたときに起こるものですよ」

「ああ」


 そうか、「脳震盪」。たしか、スポーツの選手がぶつかったときになる、あの。


「脳震盪の場合は急性の硬膜下血腫が一番恐ろしいのですが、CT画像を見る限り大丈夫だろうとは思います。事故のことは覚えていますか?」

「赤い車が前を走っていて、ドンって」


 語彙が足りない。全然足りない。

 お医者さんは優しい声で、でも次から次へと質問してくる。


「今日の朝食は何でしたか?」

「ええと……いつも通り、ごはんとお味噌汁と……ああ、あとはもらい物のてんぷらを」


 東京の方では「さつま揚げ」というらしいそれを、ここらでは「てんぷら」と呼ぶ。私の一番のお気に入りはごぼう天だ。イカもおいしい。


「事故までのこともちゃんと覚えていますか。どこに出かけていたか、とか」

「……ええと……はい、おぼえています」


 私が一瞬答えに詰まったので、お医者さんが怪訝な顔をした。


「ちゃんと覚えています」

「事故のあとのことは?」

「……ずっと寝ていたんじゃないんですか?」


 お医者さんは答えず、数度軽くうなずいた。


「外傷後健忘ですかね。脳震盪の場合にはそれほど珍しいことではありません。記憶が少し途切れたり、頭痛だとか吐き気……あとは集中力や認知力が下がったりすることがあります。短期間に脳震盪を繰り返すと危険なのと、CTで見えていない箇所での出血の可能性も否定はできないので、しばらくは安静が必要ですが……上澤さんの場合は鎖骨の状態からもう少し入院が必要になると聞いているので、否が応でもここで安静にしていることになると思います」


 話の途中からぼーっとしていた。

 一度に難しいことをたくさん言われても、よくわからない。

 ずきずき、もやもや。

 そのあとも別のお医者さんがやって来て、鎖骨のことを説明してくれた。

 骨折がひどければ手術が必要になることもあって、手術をする場合には全身麻酔だから入院しないといけなくて、その後もしばらく三角筋で腕を吊った状態で生活するとのことだった。不幸にも折れた鎖骨は右だったので、しばらくは利き手が不自由になるらしい。

 それを理解するのに少し時間がかかった。

 お医者さんが出て行った後に何度か両親や弟に質問をして、丁寧に説明し直してもらって、ようやくきちんと理解できた。

 頭痛のせいか、頭のもやもやがひどい。


 お医者さんに看護師さんに、どこかへ連絡をしているらしい両親に弟。人の入れ替わりが激しくて、それを見ているだけでどっと疲れた。

 しばらくするとレントゲン室に連れて行かれて、レントゲンを撮って、またお医者さんの話。

 骨の折れ方がよくなかったらしく、手術で針金を通して固定するというようなことを言われた。考えるだけで痛そうだったから考えないことにした。

 そしてまた、入れ替わり立ち替わり。

 窓の外は真っ黒いからきっと夜なのに、病院は明るくてたくさん人がいる。

 その間、私はうとうとしたり目を覚ましたりを繰り返した。結露した窓のようなぼんやりした感じは鮮明になってきたような気もするし、全然変わらないような気もする。


 ――疲れたなぁ。疲れた。


「姉ちゃん、大丈夫か」


 ほんとはね、晃平の「姉ちゃん」なんかじゃないんだ。

 もやのかかった世界のなかで、そのことだけは鮮明だった。



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