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――ああ、しまった。
どうしてそんなことを言ってしまったのか、私にはわかっている。引き取られたばかりの幼い頃に繰り返したのと同じ、確認行動だ。相手を困らせ、そうすることで愛情を試そうとする。見捨てられないか不安なくせに、相手のことを好いているくせに、自ら見捨てられるような行動に出てしまうのだ。
「ごめ……」
謝ろうとした私の言葉を彼の声が遮った。
「ヤバイな。その誘惑、マジで乗りたい」
「え?」
迷惑がられると思ったのに。
「俺も仕事なんか行かないでここで麻衣と一緒にいたいよ。どうにかして仕事をサボる方法はないもんか。熱出したとか……いや、さっきまでピンピンしてたのを母親に見られてるからな。あとは……」
たぶん彼は本気ではない。でも、その言葉だけで私は満ち足りた気持ちになる。
「うそ、ごめん。お仕事はちゃんと行かなきゃ」
「行きたくねぇなぁ」
「でも、行かないと」
彼の首にすり寄る。
「ごめんね、うそだから。ワガママ言ってごめん」
「ワガママは大歓迎。何がダメって、そのワガママに乗りたくなる俺の意志の弱さだよな」
朗らかに言った彼の肩が揺れ、低い笑い声と振動が伝わってくる。
「麻衣? 珍しいワガママの原因は?」
声色が真剣味を帯びていた。
「何でもないの、ただ、会いたくて。久しぶりだったから。突然押しかけてごめんね」
涙をこらえながらだったせいで、普段よりもイカツい声が出た。
「そっか。俺も会いたかった。ごめんな、クリスマスも正月も会えなくて」
「ううん、そんなの、全然」
ポンポン、ポンポン。
彼の手は優しい。
「仕事落ち着いたらちゃんと埋め合わせするから、もうちょい待っててくれる?」
「うん」
早く後継者として認められたいと、彼は必死に努力を重ねている。このところ仕事が忙しくて部活の方にも全然顔を出していないと、弟が言っていた。それほど大切な仕事を、嘘でも私のためにサボりたいと言ってくれた。
彼は本当に優しい。
そして、不思議なほど私のことをわかっている。
この腕の中にいる限り、安全な気がする。
温かくて、包まれていて、何より、一人じゃない。
「茶、冷めちゃうな。まぁ、いいけど。茶飲むよりこうしてる方がいいし」
彼が首を動かして、わたしの側頭部の辺りにそっとキスをした。
安全な腕の中は、いっそこのまま眠ってしまいたいくらいの心地よさだった。
でもしばらくすると、安全地帯は申し訳なさそうな声を上げた。
「ごめん、麻衣。そろそろ行かないと。あー行きたくねぇ」
私は一度深呼吸をして体を離す。
彼の目を見ることができずに俯いて、乗り上げていたソファーから下りる。
「また連絡する。なるべく早く会えるように時間作るよ」
彼は明るい声でそう言った。
「うん」
顔を上げて、にっこり。
「ピンチのときこそ笑え」と頭の中で唱えながら。
でも、偽物の笑顔はやはりどこか不自然だったのかもしれない。彼の顔色が変わった。
「なぁ……麻衣。俺が帰ってくるまでここにいる? たぶん夜遅くなるけど、麻衣さえよければ泊まって行けばいい」
首を横に振るのに、かなりの意志の力を要した。
「……ううん。顔見たかっただけだから。もう帰るよ。ありがとう」
今日ここに泊まったら、私はたぶん二度とこの安全な場所から出られなくなる。二度と家に帰れなくなる。そんな不安がまとわりついたからだ。
「本当に何かあったわけじゃないんだな?」
彼はそう言ってこちらの顔を覗き込む。
「うん、ただ会いたかっただけ」
「そうか」
「連絡、待ってるね」
彼と一緒に部屋を出た。
エレベーターに乗っている間も彼は手をつないでいてくれた。
マンションの前で別れる前に、一度抱き寄せられた。
「お母さんに、びっくりさせてごめんなさいって伝えてね。ちゃんとご挨拶できなくてっていうのも」
「全然気にしてないと思うけど、まぁ伝えとく。あと、母親も言ってたけど、俺の家族にちゃんと紹介したいから、今度実家に来てもらいたいな」
「……うん。ありがとう」
「こちらこそ、来てくれてありがとう。元気もらったから仕事頑張れそうだ」
「行ってらっしゃい」
「おう」
彼は去り際、何度も何度もこちらを振り返った。私はそんな彼に手を振って車に乗り込んだ。
車の中はすっかり冷え切っていた。
エンジンをかけ、暖房の温度を上げてサイドブレーキを解除する。
かじかむ両手に息を吹きかけて温め、ハンドルを握ってアクセルを踏み、車を発進させた。年始の街を往来する車には正月飾りがついている。交通安全を願う飾りといくつもすれ違いながら、通り慣れた電車道に出た。ガタン、という小さな揺れに、助手席のワイングラスがコトリと音を立てる。短い逃亡劇の旅の友はワイングラスだけ。
そこで初めて、財布すら家に置いてきたことに気付いた。
財布がなければ何もできないし、免許証不携帯でどこかへ行くわけにもいかない。今だって本当は、車を降りてバスに乗らなくてはいけないのだろう。ただ、バス代を持っていないから、頭の中で誰かに「ごめんなさい」と謝りながらアクセルを踏む。
――どのみち一度は家に帰らないと。
そう思った瞬間、追いかけてきた現実がドアの隙間をくぐり抜け、私の背中に忍び寄った。
あの場所は本当に私の家なのだろうか。
浮かんでしまった疑問が、心の奥から次々と色んな思いを引きずり出してくる。
メモには「婚姻中に懐胎した」と書いてあった。
つまり、実母は父との結婚生活の間に父の子ではない私を妊娠した。
父はどれほど苦しんだのだろう。もしかしたら、そのせいで離婚したのかもしれない。
それでも父は私を実母のもとから救い出してくれた。
新しい母も新しい生活も、父が与えてくれたものだ。
サイズの合う上履きも、かわいい体操着入れも。
父が買い揃え、母が『かみさわ まい』と名前を書いてくれた。
――上澤ではないはずの私のために。
涼子の苦悩が頭をよぎった。
両親の苦悩はあれを上回ったに違いない。
私の存在は父にどれだけのものを背負わせたのか。
元凶になった実母が憎くて仕方なかった。少し前に職場に現れて以来音沙汰がないが、「どの面下げて」という怒りが湧いてくる。
『家族にちゃんと紹介したい』
彼はそう言った。
涼子の彼と同じように将来のことを考えてくれているのだろうか。
将来――もしかしたら、結婚。
――わたしが? あの人の娘である、わたしが?
あの人の娘でしかない、わたしが?
胸がひどく痛かった。
実母のことを思い出すたび、私はいつも自分に言い聞かせてきた。半分はあの人だけど半分は優しい父だから、きっと私はあの人よりはマシな人間になれるはずだと。それはただの幻想だった。
グッと噛んだ下唇が乾燥のせいでピリリと縦に裂け、血の味がゆっくりと口の中に広がる。
「血は水よりも濃い」
憎くて仕方のない人が私の唯一。濃いつながりをもつ、唯一の人がアレ。生物学上の父のことなんか知りたくもない。既婚者と不倫するような人間というだけで、嫌うには十分だ。
ラジオからは何か陽気な声が聞こえていた。
前を走る車は赤色だった。
細い道を、車はスムーズに流れていた。
突然のことだった。
前を走っていた赤が一気に近づいた。
反射的にブレーキを踏んだと思う。
お尻が浮き、続いてドンという鈍い衝撃とともにシートに体が押し付けられた。
覚えているのはそこまでだった。




