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頭と体が切り離されたような、不思議な感覚だった。
頭からの指令ではなく、体に刻み込まれた習慣が私に赤信号でブレーキを踏ませ交差点でウインカーを出させる。
高速道路を作るとかで切り崩された山の脇を通って大通りに抜け、市街地を走り、住宅街へ。ハンドルを握る手が導いた先は彼の住むマンションだった。
路肩に停め、車を下りる。その段になって初めて、自分がつっかけサンダルを履いていることに気付いた。それも、男物だった。サイズの合わないサンダルでペッタンペッタンと音を立てながらエントランスへ向かうと、ちょうど中から人が出てくるところで、運よくオートロックを通り抜けることができた。
エレベーターで五階に上がり、彼の部屋の前へ。震える指でインターホンを押す。脳がつけもの石に置き換わったと言われても納得できそうなくらい、頭が重い。何も考えられない。だけど聴覚だけは、インターホンの小さな穴から聞こえてくる音を拾い上げようと研ぎ澄まされていた。
一秒、二秒。
いや、数えたのは秒ではなく、頭の中で響く鼓動の数だ。
ドクン、ドクン。
心の中で「七」と唱えたとき、ドアの向こうから音がした。
こちらに近づいてくる足音に次いで「はい」という低い声が聞こえ、鍵を開ける音とともにドアが開く。
扉から覗く彼の顔を見た瞬間、言葉もなく彼に抱きついた。というよりも、飛びかかったと言ったほうがよかったかもしれない。私の急襲に押された彼はよろけて数歩下がり、ふたりで彼の家の玄関の中に吸い込まれた。
彼が息を呑んだのが、抱きついた胸の動きで伝わってきた。
驚いている。
とても。
だけど、大きな手はすぐに私の背を撫でてくれた。
「麻衣?」
優しい声だった。
「どうした?」
どうした、のだろう。
わからないことばかりだった。
どうしてつっかけサンダルを履いたのか。
どうしてここへ来たのか。
私はどうして父の子ではなくて、それなのにどうして父に引き取られたのか。
「麻衣?」
気遣うような声がする。少し困っている気配も。
『私はお父さんの子じゃなかった。弟は、私の弟じゃなかった。家族はひとりも家族じゃなかった』
声に出したはずのそれは、喉元に引っかかったまま出てこなかった。
たぶん、体が認めることを拒んだのだ。口にしてしまったが最後、それは消えない事実となって私の前に立ちはだかるだろう。でも、今ならまだ間に合う。見なかったことにしてしまえば、父は父で、弟は弟で、私は上澤麻衣でいられる。
「一成」
彼の向こう側から声がした。驚いて彼から離れ、そちらを見やると、中年の女性が立っていた。
「温かいお茶を淹れたから、中でゆっくりしていただいたら? 私は下で待ってるから」
彼とよく似ていたから、その人が誰なのかはすぐに分かった。
はじめまして、とか、お見苦しいところを、とか、口にしなければならない言葉は山ほどあったけど、私の口から出たのはどうしてか「あっ、ごめんなさい」だった。
「こちらこそごめんなさいね。気づかれないようにドロンしたかったんだけど、ほかに出口がないものだから」
私が玄関で彼にしがみ付いているせいで、出るに出られなかったのだろう。
彼のお母さんは目尻を下げて微笑んだ。
「一成の母です。いつも息子がお世話になって」
「あの、こちらこそ。あの、私は……」
「上澤麻衣さん。会って欲しいって言ってた人」
慌てている私に、彼が助け船を出してくれる。
「そうだと思った。上澤さん、また今度ぜひ実家の方にも遊びにいらしてね」
「あっ、ありがとうございます」
私は深々と頭を下げ、彼のお母さんは部屋を出て行った。
「あの」
彼を見上げる。彼は何も言わず、いつものように私を抱き上げた。横抱きではなく、子どもを抱っこするみたいに背中とお尻の下に腕を入れる抱き方だ。私はバランスを崩さないように慌てて彼の首にしがみつき、つっかけサンダルがパタンボトンと足から落ちた。
「あ」
「いいよ、サンダルはほっといて」
「あの、でも」
「それに母親のことも気にしなくていい」
「でも、下で待ってるって」
「下にコンビニあるだろ。あそこ、店舗の隅に座ってのんびりできるスペースあるんだよ。たぶんコーヒー買ってそこにいるから大丈夫。コンビニのコーヒー美味いとか言って最近ハマってるから」
「あの、この後、用事じゃ」
「ホテルでやってる得意先の新年会に顔出さないといけないけど、あと三十分くらいは時間あるよ。着替えに戻るついでに別の会合で出かけてた母親をピックアップしてきたところなんだ。着替えも終わったし、あとは母親を実家で降ろしてホテルにいくだけだから」
彼は私を抱いたまま居間に移動し、ソファに腰を下ろした。私は彼にしがみついたまま離れなかった。蝉みたいに彼にくっついて、ぎゅっと目を閉じる。
「なぁ麻衣、どうした?」
彼が私の背中に回していた手を離し、肩に手を置いた。たぶん私の顔を覗き込もうとしたのだろう、体を離そうとする。私は途端に不安になって、なおさら強くしがみつく。
「やだ」
「ん?」
「抱っこ」
再び背に回った手は幸いにも私をぎゅっと抱きしめてくれた。
くすりと笑う声が近い。
「甘えん坊か」
私は答えなかった。
そしてまたぎゅっと、彼にしがみつく腕に力をこめる。
彼は子供をあやすみたいに体をほんの少し揺すりながら、規則的なテンポで背中を叩いてくれる。
赤ん坊にミルクを飲ませたあと、ゲップをさせるために背中をトントンしているような優しい動きに、涙が溢れた。彼に気づかれないように手で拭って、震える息を殺した。
「お仕事、行かないで」
気づいたら、そう口に出していた。




