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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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「涼子は……娘さんに会いたくないの?」


 一向に口を開かない涼子に痺れを切らして問うと、彼女は首を横に振りながら力強く言った。


「会いたくないわけじゃないよ」


 自分のことでもないのに、その答えにホッとした。


「でも正直、尻込みしてる」


 そう言って涼子はふうっと細く息を吐いた。


「……娘さん、いま何歳なの?」

「七歳。小学一年生」

「尻込みの原因を聞いてもいい?」

「色々だよ」

「色々って?」

「本当に色々。私は一人っ子で麻衣みたいに弟の世話とかしたことないでしょ? だから子どもにどう接していいかわかんない。それに、性格的に子どもに懐かれるタイプじゃないんだよね。先のことを考えても、私は突然母親になるのかな、とか。そうなったときにちゃんと良い母親になれるか、とか。血のつながってない子を育てるのってやっぱり大変だろうな、とか。プロポーズされたわけでもないのにそんなこと考えるなんてバカバカしい気もするけど、覚悟がないのに会っちゃいけないんじゃないかって。もともと彼とは結婚を前提にした付き合いだったし、後から怖気づいて逃げ出したら余計に娘さんを傷つけることになるだろうし」


 私の話を聞いてくれるとき、涼子はほとんど動かない。笑ってるときも、腹を立てているときも、大抵ぴんと背筋を伸ばして座っている。

 それなのに今は、背中を丸めて顔を両手で覆ったり、その手を外して「お手上げ」って感じに広げてみたり。落ち着かなくて、忙しない。


「彼とはテニスを通じて知り合ってさ。離れて暮らす娘さんのことを話すときの目が本当に優しくて。何となく亡くなった父とかぶることがあって」


 涼子のお父さんは一昨年の冬に病で亡くなった。よくある「思春期の女の子がお父さんを嫌う病」みたいなのも経験することもなく、週末に二人で映画を見に行ったりするような仲の良い父娘だったと聞いていた。


「そういうところに惹かれたから、私も彼の大切な人をちゃんと大切にしたいと思ってる。でも、彼がどれだけ娘さんを大事にしてるかわかってるからこそ」

「うん」

「娘さんが私に落第点をつけたら、彼は迷わず私を切り捨てる」


 涼子は窓の外を見つめていた。駐車場を照らす街灯の光に羽虫が集まっている。夏でもないのにこんなにたくさんいるものかと不思議に思うくらいぶんぶんと飛び回る虫たちが、なんとなく必死に見えた。


「だから、会うのがすごく怖い」


 コーヒーカップに触れるきれいな手が、ぶるぶると震えていた。


「かといって、『会わない』なんて言えるはずもない。彼との将来を考えるならいつかは必ず会うことになるんだから、『喜んで』って言えばいいってわかってるんだよ。でも、キレイごとばっかりじゃ済まないでしょ?」


 唐突に耳鳴りがした。

 ピーという高い音が頭を貫く。

 そう、涼子の言う通り、きれいごとなんかじゃすまない。

 私を引き取った父も母も、きっと想像以上の苦労をしたはずだ。弟をつねったあのときも、障子をやぶったあのときも。キレイなことよりも、大変なことの方が多かったかもしれない。

 普段はすぐに終わる耳鳴りが今日はやけに長い。それを何とか意識の外に置きながらゆっくりと言った。


「じゃあ涼子は、彼との関係を迷ってるわけではないんだね?」

「うん、違う」


 言葉を選ぶのに随分と時間がかかった。


「あのね、涼子の不安は当然だと思う。ただ、不安なのは涼子だけじゃないかもしれない」

「え?」

「娘さん自身も不安なんじゃないかなって。突然お母さんが亡くなっただけでもショックなのに、住む家も学校も変わったわけでしょう」


 お腹の底の方で、昔抱えていた不安が蠢いていた。

 私はその子ではなく、その子の気持ちが全部わかるわけではない。だから「代弁者になる」というような大それた思いはなかった。ただ、掘り返された記憶が身体の中で暴れていた。

 誰かのおさがりらしき首の伸びたTシャツの代わりに可愛いブラウスを買ってもらった。とっくにきつくなっていた上履きも真新しい大きいサイズになった。体操服を入れる袋は女の子らしいプリント柄の布地で手作りされたものだった。

 すべてが新しくなった私の世界は繊細なガラス細工みたいに思えた。キレイすぎて、脆くて、すぐに壊れてしまうんじゃないかと、いつも怖かった。


「それにもちろん、涼子の彼もきっと不安だと思う。だけど、そういう状況で彼が涼子と娘さんを会わせるって決めたってことは、彼はそれだけ涼子を頼ってるし、信じてるんだと思うよ。だから涼子が不安に思ってることを正直に彼に伝えても大丈夫だと思う」

「そう……かな」


 涼子はそれでも決心がつきかねる様子だった。

 ズキズキと頭が痛い。

 これは涼子のことで、私ではない。

 切り離して考えようとしたけど、それはどうやら難しいようだった。


「……知り合いにね、すごく良いお母さんがいるよ。旦那さんの前の奥さんとの間の子どもと自分の子どもとを分け隔てなく育ててる人」


 涼子は私の家族のことを知らない。

 両親と弟が二人。そんなごく普通の五人家族だと思っている。


「実の親でも子どもを愛せない人もいる。その逆も然りだよ。血のつながりなんて関係ない」


 膝の上で組み合わせた指の関節が白く浮き出ていた。

 私の口から飛び出しているのは一般論だ。あるいは理想論か。いずれにしろ、私でなくても言えるようなことばかり。本当はあの幼少期を経験した私にしか言えないことがたくさんあるはずなのに。

 涼子は頑なにコーヒーカップを見つめていた。

 自分がどんな顔をしているかわからなかったから、こっちを見ないでいてくれるのは有難かった。

 正体不明の震えが一度に背を駆け上がり、私は深呼吸をして言葉を続ける。


「涼子がさっき自分で言ったでしょう? お父さんと重なるって。涼子はお父さん……ううん、お父さんだけじゃなくて……ご両親とかお祖母さんとか、周囲の人にたくさん愛されて育ったでしょう? だからちゃんと愛し方を知ってると思う」

「そう……かな?」

「うん」


 涼子の手の震えは少し落ち着いていた。


「あとね」


 言葉を切り、薄いアセロラジュースをストローで吸い上げる。甘酸っぱい液体が口の中に広がって、のどを潤して落ちていく。


「また迷ったときは、夜中でも私が駆けつけるよ」

「麻衣……ありがとう」


 涼子の瞳には薄い水の膜があった。

 父も母も、こんな風に悩んだのだろうか。不安だったのは私だけではなくて。


「どういたしまして。こちらこそ、ありがとう」


 お礼の意味がわからなかったらしく、涼子が首を傾げたから、笑って付け加えた。


「涼子のためならエンヤコラだよ」


 ふっと、涼子が笑う。


「彼とちゃんと話してみる」

「うん。それがいいよ」


 グラスの底に残っていたわずかなジュースをストローで吸い上げた。

 溶けた氷で薄まったそれは、もうほとんど水だった。でも、水よりは少し濃い。喉に引っかかるような酸味が残る。

 赤い色と、薄い酸味。

 それはまるで、血のような。


 『血は水よりも濃い』


 さっき自分で正反対の言葉を口にしたくせにそんなことわざが頭に浮かぶのだから、私は嘘つきなのかもしれない。水よりも濃いつながりを持つ実母に似て。



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