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年の瀬が近づくと、仕事はいつも以上に慌ただしくなる。
中でも今年は入行以来最も忙しい年末になりそうだった。十月一日付の異動先は社内で「法人支店」と呼ばれる法人への融資を中心とする支店で、企業の支払いが立て込む年末は超繁忙期なのだ。
『麻衣、生きてる?』
涼子からそんな電話があったのは、支店の忘年会の手配を終えて一息ついた十二月二十二日の夜のこと。お風呂上がりに部屋でホットミルクを飲みながら、むくんだ足のマッサージをしていたときだった。
「生きてるよ。久しぶり。電話なんて珍しいね」
私の異動のせいもあって色々と慌ただしく、最近ちっとも会えていなかった。
電話をスピーカーにして枕元に置き、ベッドにあおむけに寝転がって足を引き寄せ、ふくらはぎを揉んだ。ぎゅ、ぎゅ、と力を入れる。ちょっと痛いくらいが気持ちいい。
『麻衣、最近忙しいの?』
「仕事はね」
『プライベートは?』
「季節もののイベント時期は彼がものすごく忙しいから、今月の頭に会って以降メールしかしてないよ。とくに年末は帰省客をターゲットにした書き入れ時みたいだから、次に会えるのは年明けかも。涼子は? 例の彼と順調?」
『……うん、まぁ』
変な間があった。
マッサージしていた手を止め、携帯を耳に宛てる。
「涼子?」
『あ、いや、彼とはうまくいってるけど』
「けど?」
『家族に会ってほしいって言われて』
涼子にしては珍しく言いよどんでいて、その声はちっとも嬉しそうではなかった。
『色々どうするか迷ってて、全然答えが出ない』
私はゆっくりと身を起こした。
「涼子、いまどこ?」
『家だけど』
「近くまで会いに行ってもいい?」
『え?』
「ちゃんと顔を見て話したいの」
大学時代から涼子にはずっと甘えてきた。
しっかり者で自分の考えを貫くことに躊躇がない。そんな涼子が迷っていて私を頼ってくれたのだから、全力で応えたかった。
短い沈黙の後、涼子は静かに言った。
『ありがと、麻衣』
母に「友達と大事な話が」と事情を話し家を出て、車で涼子の家の近くのファミレスに向かった。
途中、彼のレストランの前を通った。もう閉店時刻は過ぎているけど、窓からは明かりが洩れていた。彼はあの中にいるのだろうかとぼんやりと考えながら、暗い道を走る。
交通量の少ない夜道は寂しい。時折すれ違う車がなければ、世界の中に一人だけぽつんと存在しているような錯覚に陥るくらいだ。
広い駐車場の隅っこに車を停め、レストランのドアを開ける。電子音で来客を知った店員が奥から出てきて、「おひとり様ですか?」と尋ねられる。
「待ち合わせですが……」
そう言ってきょろきょろと首を動かすと、店員さんのちょうどすぐ後ろの席に涼子の横顔が見えた。ぼんやりと一点を見つめていて、こちらに気づく気配はない。
「あ」
私が声を出すと、店員さんは振り向いて涼子の姿を確認し、心得たように頷いた。
「お待ち合わせはあちらのお客様ですか」
「はい」
「すぐにお水をお持ちしますね」
「ありがとうございます。注文はドリンクバーひとつで」
「かしこまりました」
店員さんが立ち去り、私は涼子に近づいて声を掛けた。
「涼子」
こちらを向くなり、涼子は驚いた顔をした。
「麻衣。あんた、すっぴん」
「あ、たしかに。お風呂入った後だったんだ。慌ててたから化粧のことなんて頭から吹き飛んでた。ごめん、この歳ですっぴんで外出るのはナシだね」
言いながら改めて自分の恰好を確認すると、かなり酷かった。
さすがにスウェットの上下ではまずかろうと下だけジーパンに履き替えてきたけど、上はパジャマ替わりの着古したスウェットだ。その上にシンプルな濃紺のピーコートを羽織り、マフラーをぐるぐる巻きにしている。それに足元は防寒重視のムートンブーツという出で立ちは、たしかに夜のファミレスで完全に浮いている。
「ナシじゃないよ。ただびっくりしただけ。大学時代ですら麻衣のすっぴん見たことなかったから。その……私のためにそんなに急いで来てくれてありがと」
「あら? 涼子が妙に素直」
ニヤニヤしていると、涼子は仏頂面になった。
「私の話聞いてくれる気あるの、ないの?」
「あるある。茶化してごめん。ちゃんと聞きたい」
ドリンクバーでとってきた薄いジュースを飲みながら涼子の言葉を待った。
涼子はコーヒーカップを持ち上げて、置いて、という動作を五回ほど繰り返してからようやくひとつ深呼吸をした。
「彼、バツイチで子持ちだって話はしたよね?」
「うん」
「離婚したのは四年前で、娘さんは元奥さんが引き取ったんだって。彼には隔週末と長期休暇の半分を一緒に過ごす権利があって、結構頻繁に会いに行ってた。だけど……もう一か月半くらいになるかな……元奥さんが急に亡くなって」
「そうだったんだ」
「うん。それから奥さんのご両親とかと話し合って、娘さんは彼が引き取ることになったの」
「じゃあ、会ってほしい家族っていうのは……」
「そう、娘さん」
どくん、と心臓が跳ねた。
「最近ずっと、娘さんと彼が一緒に暮らせるような家を探したり引越ししたりで色々走り回ってたの。私も一応できる範囲で手伝ったりもして」
「そっか。全然知らなかった」
「ごめんね。連絡する暇もないくらいバタバタで」
「いやいや、そんなのは全然。大変だったんだな、と思って」
「うん。それで、ようやく役所とか学校関係のあれこれが落ち着いたから近いうちに娘さんに会ってほしいって」
「そっか」
涼子はコーヒーを飲まない。
ただ、カップを揺らして中のコーヒーを見つめているだけ。
夕飯時もとうに過ぎたファミレスには私たちのほかに二組しかいない。受験生なのか、大量の本をテーブルの上に積んで勉強をしている若者が一人と、親子連れが一組。母親はスーツ姿で、仕事を終えたあと慌てて子供を連れてやって来たという様子だ。小学生くらいの男の子がデザートを前に上機嫌で母親に話しかけていて、母親も熱心に相槌を打っている。
そんな光景にホッとする。
ファミレスの食事は塩分が多くて体に悪いとか、栄養が偏るとか、夜遅くに子どもを連れ回すべきじゃないとか、いろんな考えはあるだろう。それでも、仕事と家事に追われて子供に向き合う時間を取れないくらいなら、ほんの少し家事をさぼって外食をする方がいいときだってあるんじゃないかと思う。
――幸せでいてね。愛されて、お腹いっぱいで。どうかずっと。
幸せそうな子どもの笑顔を見ながらそんなことを思う。




