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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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「ありきたりだけど、人生の半分はいいこと、半分は悪いことで出来てるって言うからさ。麻衣はこれまでいっぱい辛い思いをした分、これから楽しいことがたくさんあるよ」


 初めて彼の家を訪れた日、彼は私を腕の中に閉じ込めてそう言った。

 そんな自分の言葉を証明するかのように、彼はいつも私を楽しませてくれる。

 休日の予定を合わせて隣県にある大きな美術館を訪れたり、少し足をのばして近県のうどんやスパイシーな骨付き肉を食べに行ったり。高校時代には行けなかったような場所に出かけた。

 そんな風に行動範囲が大きく広がったのはとても嬉しい変化だったけど、一番好きなのはやっぱり、彼とふたりきりで過ごす静かな時間だ。


「麻衣」


 頬に添えられる大きな手は、私の顔を全部包み込んでしまえそうなくらい。

 彼の家で一緒に夕飯を作り、食事を終えてお皿洗いを済ませたところだ。最後の一枚のお皿を拭いて食器棚にしまった彼の手が、当たり前のように私の頬に伸びた。この大きな手が私のものになってから、もう少しで三か月。師走を迎え、クリスマスの近づく街は明るく浮き足立っている。

 マンションの五階の角に位置する彼の家は、一人暮らしをするには少し贅沢な広さだ。転勤で県外に引っ越した親戚の人から借りていると言っていたから、そのせいなのだろう。玄関を入ってすぐ左手に寝室、右手にトイレと洗面所、お風呂が並び、廊下の突き当たりのドアを開けるとリビング、ダイニング、キッチンという間取り。置物や雑貨などの類の物は少なく、生活に必要なものが整然と並んでいる。

 その中にひとつだけ異質なものがある。キッチンのカウンターに置かれた写真立てだ。高校時代の彼と私が体操服にハチマキ姿で満面の笑みを向ける写真が飾られている。


「捨てられずにずっと持ってた」


 彼はそう言って笑った。


「飾れるようになってよかった」


 しみじみとそう話す声が近い。


「麻衣、キスしてもいい?」


 背後から問われて振り向いた。答えるよりも先に、彼の体とキッチンの調理台の間に挟まれてほとんど身動きができなくなった。こんな風にすぐ近くで向かい合っていると、私は彼の顔を見上げるために首を大きく反らさなくちゃならないし、彼はぐんと下を向かなくちゃならない。


「首が疲れるな」


 彼は少し身を引き、私のウエストのあたりに腕を回した。ふわりという浮遊感とともに足が床から離れる。とすん、と調理台の上に座らされて、彼の顔が近づいてきた。キスの勢いに押されて後ろに下がりそうになった上半身を彼の腕が囲い込んで支える。軽くついばむような動きから、徐々に深く。

 後ろについた手が水切り籠に当たり、ガシャンと音がした。その音が合図だったみたいに彼は私を抱き上げ、歩き出した。まるで重さを感じていないんじゃないかってくらい易々と私を抱き上げてスタスタと歩くのが、いつも不思議でたまらない。そしてこちらもいつもどおり、私は彼の首に腕をまわしてしがみついたまま、迷わず寝室に向かう彼に戸惑っているフリをする。


「あの、ちょっと、カズくん」


 フリだということを彼も心得ている。だからこれは云わば儀式のようなものだ。


「カズくん、待っ……」

「結構待った。二週間ぶりだ」


 私は誰かから求められることに飢えているから。そして彼もそれをわかっているから。「彼が私を求めている」という形を崩さないための「強引さ」という儀式を、彼は飽きることなく繰り返してくれる。


「まい」


 私を呼ぶ声に熱がこもる。

 彼は私を抱いたままベッドのふちに腰かけ、私を床に下ろした。彼の膝の間に立った私は、座っている彼とほとんど視線の高さが変わらない。

 ショート丈のニットの裾から入り込んだ手が背中を撫でた。その手が与える感覚は、再会したあの日とはまるで違っている。戸惑いもためらいもなく、するすると這いまわる。触れられるだけで体温が上がり、呼吸が乱れる。触れている彼にはそんなことはきっとお見通しだけど、私は何とかしてそれを誤魔化そうと彼の首にしがみついて顔を隠した。


「まい」


 かえって近くなった彼の声が、耳元で私の名前を囁く。

 また、体温が上がる。


 ――心臓が痛い。


 彼が私を腕に抱いたままごろん、と後ろに倒れた。つられて彼の上に倒れ込んだ私は、彼の上に乗り上げるような体勢になった。


 ――わ、重いかな。恥ずかしい。


 私は彼の上から退こうと慌てて体をよじった。


「お、逃げようとしてる?」


 彼が涼やかに笑う。


「別に、逃げようとは……」


 最後まで聞かずに彼は私の両手首を掴み、ごろりと体を反転させた。彼が上に、私が下に。電灯の明かりを背にした彼の顔には影が落ち、表情が見えにくい。


「試してみて」

「え?」

「逃げ出せるかどうか、試してみてもいいよ」


 腕に力を入れ、彼の手を振りほどこうと動きながら、同時に胴を捻って体勢を変えようとした。

 ところが、びくともしない。

 腕はシーツから離れることなく、圧し掛かられた体は微動だにしない。唯一わずかな自由を得ていた足も、ずりずりとシーツの上を滑るだけで、何の役にも立たなかった。


「麻衣、本気出してる?」

「出し……てるよ!」


 全身に力を入れているというのに、彼は余裕な声で問うてくる。

 動こうとしても、動けない。

 体の自由を奪われたその状況が、たぶん記憶のどこかに働きかけた。

 頭ではわかっている。彼は絶対に、わたしに危害を加えたりはしない。

 ごくん、と喉を鳴らすと彼はすぐに体を離し、私を安心させるように柔らかく笑った。


「わかった?」

「なにが?」

「逃げられないって」


 ぞくりとした。


「簡単には逃がさないよ」


 状況が違えば、おそろしい台詞にもなり得るそれ。だけど、穏やかな笑顔で紡がれる彼の言葉の意味は。


「俺はいつも麻衣を求めてる。簡単には手放さない。だから麻衣、安心して」


 この人は。

 いつだってこんな風に不意打ちで、私が欲しい言葉をくれるのだ。本当はそういう台詞を吐くのが大の苦手なくせに。その証拠にほら、視線がゆるやかに逸らされた。でも、すぐに戻ってきてわたしの顔を覗き込む。切れ長の目は鋭く見えるはずなのに、どうしてこんなにも優しげなのだろう。

 涙をこらえようと顔をくしゃくしゃにしたら、彼が私の眉間をなぞった。


「あれ? ここでしかめっ面? その反応は予想外だったな」

「ちがっ……」


 わかっているくせに、という言葉が続かなかった。


「まぁ、わかってるけど」


 優しい声と、優しいキスが落ちてきた。

 髪の毛と、額と、頬に。


「麻衣。いい?」


 返事の代わりに黙って手を伸ばし、彼の髪の毛をくしゃくしゃにした。



**********



 気持ちを確かめあった後、急に離れた体温が恋しくて、ベッドの上に座る彼の背中に貼りついた。彼はくすりと笑って後ろに手を回し、張り付いた私の肩を撫でてくれる。


「カズくん、ありがとう」

「こちらこそ」


 互いに、何に対する礼なのか。

 求めてくれたことへの。

 渇望を満たしてくれたことへの。


「人の体温って、気持ちい……」


 噛み殺しきれなかった欠伸に邪魔をされて、最後まで言えなかった。


「麻衣、眠い?」


 体温の高い彼にくっついていると、瞼が重くなってきた。心地よい疲れに身を任せてしまいたくなる。


「時間まだ大丈夫だから、ちょっと寝ていいよ。ちゃんと起こすから」


 その言葉に甘えて横になって丸まると、彼が毛布を掛けてくれる。

 お礼を言わなくちゃ。

 お礼を。

 眠くて眠くて、脳からの指令が口に届く前に途切れてしまう。甘い怠さが、全身を包んでいる。


「麻衣」


 髪を撫でる優しい手の感触に身を委ねていた私は幸せだった。

 匂いのこと、家族のことを話せる人ができたこと。

 彼がいつもわかりやすく愛情を示してくれること。

 県外に転勤にならずに済んだこと。

 どれも幸せなことばかり。


 ――人生の半分はいいこと、半分は悪いことで出来ている。


 そう遠くない未来にその言葉を実感することになろうとは、このときはまだ思ってもみなかった。


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