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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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 カーナビがポーン、と軽い音を上げた。

 『目的地周辺です』


「あ、そこを左に入ったところで停めてもらえれば」

「オッケー」


 見慣れたわが家の塀に、車のライトがオレンジ色を添える。


「カズくん。本当にありがとう。その、色々と」

「どういたしまして。明日、楽しみにしてる。色々と」


 笑いながらシートベルトを外し、ドアを開けた。


「麻衣、見送りはいいから早く家に入って。心配だから」

「うん、ありがとう」


 門を開けて中に入った。玄関の引き戸をガラガラと開け、最後に口パクでサインを送った。


「またあした」


 結局、その約束が果たされることはなかった。翌朝から38℃の熱を出して寝込んだのだ。風邪気味だったのに夜まで出歩いた揚句、ベッドの中で一日の出来事を反芻していて碌に眠れなかったせいだろう。

 〈見舞いに行ってもいい?〉という彼の提案は、うつったら大変だからと丁重にお断りした。

 彼に連絡を入れてから風邪薬の力を借りてコットリと眠り、目を覚ましたのは土曜の夕方だった。

 目覚める直前に見たのは、暗闇でひとり膝を抱えるあの夢。

 でもこれまでと違って、目が覚めてから夢を引きずることはなかった。

 あれはもう、過去のことだ。

 汗ばんだパジャマを着替えようかと悩みながらベッドの上でゴロゴロしていると、階下から母の声がした。


「麻衣、お友達が来てくれたよ」

「え?」


 ガバリと身を起こした。

 お友達、と聞いてすぐに彼の顔が浮かんだのだ。

 ずっと寝ていたせいでひどい恰好をしている。

 階下で母の高い声が何か言うのが聞こえ、それに応じる低い声がする。それからトントン、と階段をのぼる足音が近づいてきて、私は慌てて髪を手で梳いて目頭をこすった。それでも、服装はよれたTシャツにジャージだ。こんな姿を見られるわけにはいかないと焦っていたら、部屋の戸が開いた。


「よ」


 手を挙げたのは涼子だった。


「近くに用事があったから顔を見に寄ってみたら、まさか寝込んでるとは」


 そう言ってから片眉を吊り上げる。


「麻衣、いま若干残念な顔したでしょ。せっかく来たのに、失礼な」

「あっあの」

「お友達って言われて別の人を想像した? ってことは、うまくいったのかな?」


 涼子はにやりと笑った。


「さて、吐いてもらおうか」


 その迫力に思わず身体を引きながらも、秘密兵器で反撃に出た。


「私だって涼子にまだ聞いてない話があるよ。彼氏できたんでしょ?」

「あれ、どうしてそれを」


 涼子は本当に驚いているらしかった。


「風の噂でね。できれば涼子の口から一番に聞きたかったな」

「ちゃんと一番に言うつもりで、今日ここに来たんだけどね。風の噂って恐ろしいね」


 涼子は苦笑いしながらベッドの縁に座った。

 そして私は昨日の出来事を話し、涼子は彼氏のことを話してくれた。

 涼子の言葉を借りると「バツイチ子持ちの三十三歳」なその人とは、涼子が趣味で参加しているテニスのサークルで知り合ったのだという。


「その彼のこと、好きなの?」

「こないだまで麻衣に向けてた質問が、まさか自分に返って来るとはね」

「それで? どうなの?」

「容赦ないね」

「そりゃあ、お返しですから」

「顔にべっとり枕の痕つけて偉そうに言われてもね」

「あっ」


 顔を手で押さえると、涼子は明るく笑った。

 なんだかいつもより、笑顔が柔らかかった。


「パリコレが東京ガールズコレクションになった」

「麻衣、喩えが下手すぎ。人を能面みたいに言うのやめてくれる? 私だって笑うことくらいあるし」

「能面とは言ってないけど」

「意味するところは同じでしょ」

「それで? 好きなの?」


 涼子はゆっくりと頷いた。


「たぶん」

「たぶんって」


 スローモーションみたいにゆっくり、涼子の口から言葉がこぼれる。


「……生まれて初めて、自分から言った」

「『好きです』って?」

「まぁ、そんな感じの」


 肩をすくめてみせる彼女は、どうやら照れているらしかった。


「生まれて初めて自分から告白するくらい好きな人がいたなんて、初耳なんですけど」


 唇を尖らせたら涼子はふいと顔を背けた。


「私だって知らなかったよ」

「へ?」

「口に出した瞬間、自分でびっくりした」

「それまで自覚してなかったってこと?」


 答えは返ってこなかったけど、どうやらそういうことだったらしい。

 照れて帰ろうとする涼子を引き留めて、根掘り葉掘り話を聞き出した。お返しにと、涼子からもあれこれと質問を浴びせられた。風邪がうつるからそれくらいにしなさい、という母の声が割って入らなければ朝までかかったのではないかというほど。結局涼子は二時間半ほど話をして帰って行った。

 聞きながらキャーキャー大騒ぎをしたせいか、次の日には熱が39℃まで上がり、翌週まで尾を引いた。

 ようやく熱が下がって出社できたのは水曜のことだった。

 何とか平和に過ごしたその日の終業後に、支店長に呼ばれて面接室に入る。

 異動の話だろうとわかったから緊張はしていたけど、何度か深呼吸をして気持ちを整えた。


「ちょうど配偶者の転勤で例の支店への異動を希望している人がいるらしくてね。上澤さんは異動があるとしても、県内になりそうだ」


 ホッとして、深く深く息をついた。

 面談を終えて支店の外に出ると、駐車場の隅っこの草むらからリリリ……という虫の声がした。

 夏が終わる。

 私のも涼子のも、どうやら「ひと夏の恋」よりは長く続きそうだった。




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