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フロントガラスの向こう側に広がる暗闇。
「さっきの二択は、どっちが優勢なの?」
「後者……かな」
「そっか」
ほんの少しだけ残念に思ったのに、気付かれただろうか。
軽い女だと軽蔑されたくはないけど、彼に包み込んで欲しい気持ちもあった。
「俺の気持ちだけで言えば、前者がぶっちぎりだよ、もちろん」
やはり声に滲んでいたらしく、私の不安を気取った彼がちゃんと説明してくれる。
「でも、再会の仕方はお世辞にも最高とは言えなかったから、同じ失敗を繰り返したくない。それに、しょっぱなから麻衣のご両親の心証を害するのもまずい。あとは、最大の理由がひとつ」
「なに?」
「家が、人を呼べるような状態じゃない」
思わず笑ってしまった。
「だから今日はちゃんと麻衣の家に送るよ。ただ……ちょっとキスしてもいい?」
私は首を傾げてみせた。
「ちょっと、なの?」
「お、いまの言葉、忘れるなよ」
「今度は吐かないように気をつけるね」
彼が笑ったのとほとんど同時に、大きな手が頬に伸びてきた。目を閉じ、鼻からすーっと深く息を吸った。すぐに唇が重なるかと思ったけど、彼の顔が近づいてくる気配はなかった。代わりに頬を包む手がゆっくりと動いて瞼を撫でる。その優しい動作に、なぜか目頭が熱くなる。閉じた瞼の隙間から、ほんの少し涙がにじみ出た。静かな衣擦れの音がして、目尻に、額に、頬に、柔らかいものが押し付けられる。その柔らかな感触は少しずつ移動して唇にたどりつき、私の下唇を軽く食んだ。ふるりと、解放された唇が揺れる感触が心地いい。それから、角度を変えて何度も啄ばまれた。
静かで、とても甘い。
頭の芯がしびれていく。
頬にあった手が髪の中に差し入れられて、首の後ろをがっちりと固定した。唇の動きはこんなにも優しいのに、手だけは私を離すまいとするように力強い。その力強さに不思議な安堵を覚え、体の力を抜いて身をゆだねる。
合間に吸おうとした息は震えていて、うまく息継ぎができなかった。
最後にもう一度下唇を甘噛みして、唇が離れた。
ゆっくりと目を開けると、彼の目がこちらを覗き込んでいた。顔立ちは高校時代と変わっていないのに、その瞬間の表情はぞくりとするほど男らしかった。
「……今は、何を考えてるの?」
私と同じだったらいいな、と思いながら囁き声で問いかけた。
辺りには車もない。人の気配もない。それでもつい声を潜めてしまうのは、この出来事を決して誰にも知られたくないから。
不思議だ。ひとりぼっちはあんなに寂しいのに、ふたりぼっちはこんなにも心地よい。
「キスってこんなに気持ちよかったっけっていうのが三割」
「あ、わたしと同じ」
「それから、心の狭い男の嫉妬が一割と、体のとある箇所でやかましく鳴ってる『血液集合』のホイッスルに必死に抵抗してるのが二割」
「抵抗は奏効してる?」
「まったく」
彼が大まじめな顔をして言うから、思わずくすりと笑った。
「あとの四割は?」
「もう一回キスしたい」
今度は私から顔を近づけた。運転席と助手席を隔てるわずかな隙間が、今は憎らしくて仕方なかった。
さっきよりも、ほんの少し激しく。
酸素が足りないせいなのか、頭の中でどくどくと血液の流れる音がする。
『経験を重ねると感動が減っていく』なんていう自分の言葉を、今なら真っ向から否定する。感動は減るどころか、増えることもある。
またゆっくりと名残惜しそうに離れた唇が、最後に一度、額に寄せられた。
はぁ、とふたり息をつき、どちらからともなくゆっくりと目を逸らした。
そして、ふたりしてシートベルトを握り、カション、と金具をはめる。
「血液循環の状況は?」
「運転に支障を来たすほどではないよ」
「それならよかった」
「さて、行きますか」
彼がキーをひねって、さきほどまでの静寂にエンジンの音が加わった。
「明日……予定ないって言ってたよな? 朝、迎えに行ってもいい?」
「うん。どこに行くの?」
「全然考えてなかったけど……水族館とか?」
先ほどまで居た砂浜のすぐ近くにある、小さな小さな水族館。
私は大好きな場所だけど、東京で暮らしていた彼からすると退屈かもしれないと思った。向こうには大きくて近代的な水族館がたくさんあるはずだから。
「それか、うちでゆっくりするのは? 大学時代に一人暮らしで鍛えた手料理を披露しようか」
「え、いいの? 嬉しい」
「男の料理だから大ざっぱだけど」
「それでも、十分すぎるくらい嬉しいよ」
「じゃあ、朝起きたら連絡する」
「うん」
この時刻だから、すでに道路の信号は点滅に切り替わっていた。
黄色の点滅信号の下を軽やかに走り抜ける。
「あ、そういえば……異動の話があるの」
夕方の出来事が遠い昔に感じられた。
「異動?」
「うん。県外かもしれないって」
「そっか」
「四国の中だけど」
「そうか」
「ごめんね、先に話しとくべきだったかな」
「先にって、何の?」
「その、遠距離とまではいかないにせよ、離れちゃうから」
フロントガラスから入ってきた灯りが、彼の顔の前半分だけを照らしている。
「距離が離れるくらいで俺は揺らがないよ。週末には会いに行けるし。麻衣だってときどき帰ってきてくれるだろ?」
「うん」
踏切を渡り、大きな交差点に出た。
スルスルと、彼の手の中でハンドルが滑る音がする。
『帰って来てくれる』
その何気ない一言がどれだけ私の心を楽にしてくれるか、彼は知っているのだろうか。帰りを待っていてくれる人がいると思えることが、どれだけ嬉しいか。
「ほんとはね、ずっと、家族と離れるのが怖かったの」
「……怖い?」
「自分の居場所がなくなっちゃうんじゃないかなって」
運転中の彼は、まっすぐ前を向いている。
でもチラリと一度、こちらに視線を向けた。
「麻衣、もしかして……だから地元の大学にこだわった? 指定校推薦ならほかにも選択肢いっぱいあったのに」
「……うん」
「そうか」
「だけど……少なくとも、カズくんは待っててくれる」
「うん。ちゃんと麻衣の居場所はここにあるよ。だから大丈夫だ」
夜の道は空いていて、みるみる間に辺りは日常の風景に変わっていく。暗くて、道の脇に大きな側溝のある、私の町。
虫歯だらけだった小さな私を受け入れてくれた、私のよりどころだ。




