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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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30

 フロントガラスの向こう側に広がる暗闇。


「さっきの二択は、どっちが優勢なの?」

「後者……かな」

「そっか」


 ほんの少しだけ残念に思ったのに、気付かれただろうか。

 軽い女だと軽蔑されたくはないけど、彼に包み込んで欲しい気持ちもあった。


「俺の気持ちだけで言えば、前者がぶっちぎりだよ、もちろん」


 やはり声に滲んでいたらしく、私の不安を気取った彼がちゃんと説明してくれる。


「でも、再会の仕方はお世辞にも最高とは言えなかったから、同じ失敗を繰り返したくない。それに、しょっぱなから麻衣のご両親の心証を害するのもまずい。あとは、最大の理由がひとつ」

「なに?」

「家が、人を呼べるような状態じゃない」


 思わず笑ってしまった。


「だから今日はちゃんと麻衣の家に送るよ。ただ……ちょっとキスしてもいい?」


 私は首を傾げてみせた。


「ちょっと、なの?」

「お、いまの言葉、忘れるなよ」

「今度は吐かないように気をつけるね」


 彼が笑ったのとほとんど同時に、大きな手が頬に伸びてきた。目を閉じ、鼻からすーっと深く息を吸った。すぐに唇が重なるかと思ったけど、彼の顔が近づいてくる気配はなかった。代わりに頬を包む手がゆっくりと動いて瞼を撫でる。その優しい動作に、なぜか目頭が熱くなる。閉じた瞼の隙間から、ほんの少し涙がにじみ出た。静かな衣擦れの音がして、目尻に、額に、頬に、柔らかいものが押し付けられる。その柔らかな感触は少しずつ移動して唇にたどりつき、私の下唇を軽く食んだ。ふるりと、解放された唇が揺れる感触が心地いい。それから、角度を変えて何度も啄ばまれた。

 静かで、とても甘い。

 頭の芯がしびれていく。

 頬にあった手が髪の中に差し入れられて、首の後ろをがっちりと固定した。唇の動きはこんなにも優しいのに、手だけは私を離すまいとするように力強い。その力強さに不思議な安堵を覚え、体の力を抜いて身をゆだねる。

 合間に吸おうとした息は震えていて、うまく息継ぎができなかった。

 最後にもう一度下唇を甘噛みして、唇が離れた。

 ゆっくりと目を開けると、彼の目がこちらを覗き込んでいた。顔立ちは高校時代と変わっていないのに、その瞬間の表情はぞくりとするほど男らしかった。


「……今は、何を考えてるの?」


 私と同じだったらいいな、と思いながら囁き声で問いかけた。

 辺りには車もない。人の気配もない。それでもつい声を潜めてしまうのは、この出来事を決して誰にも知られたくないから。

 不思議だ。ひとりぼっちはあんなに寂しいのに、ふたりぼっちはこんなにも心地よい。


「キスってこんなに気持ちよかったっけっていうのが三割」

「あ、わたしと同じ」

「それから、心の狭い男の嫉妬が一割と、体のとある箇所でやかましく鳴ってる『血液集合』のホイッスルに必死に抵抗してるのが二割」

「抵抗は奏効してる?」

「まったく」


 彼が大まじめな顔をして言うから、思わずくすりと笑った。


「あとの四割は?」

「もう一回キスしたい」


 今度は私から顔を近づけた。運転席と助手席を隔てるわずかな隙間が、今は憎らしくて仕方なかった。

 さっきよりも、ほんの少し激しく。

 酸素が足りないせいなのか、頭の中でどくどくと血液の流れる音がする。

 『経験を重ねると感動が減っていく』なんていう自分の言葉を、今なら真っ向から否定する。感動は減るどころか、増えることもある。

 またゆっくりと名残惜しそうに離れた唇が、最後に一度、額に寄せられた。

 はぁ、とふたり息をつき、どちらからともなくゆっくりと目を逸らした。

 そして、ふたりしてシートベルトを握り、カション、と金具をはめる。


「血液循環の状況は?」

「運転に支障を来たすほどではないよ」

「それならよかった」

「さて、行きますか」


 彼がキーをひねって、さきほどまでの静寂にエンジンの音が加わった。


「明日……予定ないって言ってたよな? 朝、迎えに行ってもいい?」

「うん。どこに行くの?」

「全然考えてなかったけど……水族館とか?」


 先ほどまで居た砂浜のすぐ近くにある、小さな小さな水族館。

 私は大好きな場所だけど、東京で暮らしていた彼からすると退屈かもしれないと思った。向こうには大きくて近代的な水族館がたくさんあるはずだから。


「それか、うちでゆっくりするのは? 大学時代に一人暮らしで鍛えた手料理を披露しようか」

「え、いいの? 嬉しい」

「男の料理だから大ざっぱだけど」

「それでも、十分すぎるくらい嬉しいよ」

「じゃあ、朝起きたら連絡する」

「うん」


 この時刻だから、すでに道路の信号は点滅に切り替わっていた。

 黄色の点滅信号の下を軽やかに走り抜ける。


「あ、そういえば……異動の話があるの」


 夕方の出来事が遠い昔に感じられた。


「異動?」

「うん。県外かもしれないって」

「そっか」

「四国の中だけど」

「そうか」

「ごめんね、先に話しとくべきだったかな」

「先にって、何の?」

「その、遠距離とまではいかないにせよ、離れちゃうから」


 フロントガラスから入ってきた灯りが、彼の顔の前半分だけを照らしている。


「距離が離れるくらいで俺は揺らがないよ。週末には会いに行けるし。麻衣だってときどき帰ってきてくれるだろ?」

「うん」


 踏切を渡り、大きな交差点に出た。

 スルスルと、彼の手の中でハンドルが滑る音がする。

 『帰って来てくれる』

 その何気ない一言がどれだけ私の心を楽にしてくれるか、彼は知っているのだろうか。帰りを待っていてくれる人がいると思えることが、どれだけ嬉しいか。


「ほんとはね、ずっと、家族と離れるのが怖かったの」

「……怖い?」

「自分の居場所がなくなっちゃうんじゃないかなって」


 運転中の彼は、まっすぐ前を向いている。

 でもチラリと一度、こちらに視線を向けた。


「麻衣、もしかして……だから地元の大学にこだわった? 指定校推薦ならほかにも選択肢いっぱいあったのに」

「……うん」

「そうか」

「だけど……少なくとも、カズくんは待っててくれる」

「うん。ちゃんと麻衣の居場所はここにあるよ。だから大丈夫だ」


 夜の道は空いていて、みるみる間に辺りは日常の風景に変わっていく。暗くて、道の脇に大きな側溝のある、私の町。

 虫歯だらけだった小さな私を受け入れてくれた、私のよりどころだ。



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