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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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 ポンポン、と宥めるように背を叩かれる。


「ずっとこうしてたいけど、もういい時間だな」


 頭上から落ちてきた声に、彼の胴に回していた腕を外して時計を見ると、二十二時半を回ったところだった。

 ゆっくりと体を離すと、先ほどまで彼に触れていた箇所にひんやりとした感触があった。汗ばんだ体を初秋の風が撫でたせいだ。


「ごめんね、遅くまで付き合わせちゃって」


 立ち上がってお尻の砂を払いながら言うと、彼は首を横に振った。


「そんなこと、全然気にしなくていいよ。高校時代に麻衣が唯一門限を破った日を俺はまだ覚えてるんだから」


 田舎の夜は真っ暗くなるからと、高校時代には門限があった。予備校がある日は二十二時半、予備校が無い日は二十一時。事前に遅くなるとわかっている日以外でその門限を破ったのはたった一度。彼が高校最後の試合を終え、私たち以外に誰もいない夜のグラウンドで泣き崩れた日だった。


「あの日あそこで泣けてなかったら、俺はたぶん今でも引きずってたと思う」


 最後の試合は味方のエラーで幕を閉じた。だからこそ、彼は人前で絶対に涙を見せなかったのだ。落球した場所に立ち尽くして悔し涙を流すチームメイトの肩を支えてベンチまで連れ帰り、笑顔でその背を叩いてみせた。県営球場のバックネット裏から彼の口が「ドンマイ」と動くのを見た時、誇らしさとともに切なさがこみ上げた。


『誰のせいでもない。ただ、悔しい』


 その夜、最後のミーティングを終えてから学校のグラウンドに立ち寄った彼はそう言って、うずくまって泣いた。

 いつもは私より大きかった彼が私よりも小さく丸まっている横で、私はただ座っていた。

 隣の彼が立ち上がって、あの日と同じように屈伸をする。


「麻衣が黙って隣にいてくれたおかげで泣けたんだ」

「あれは……言葉が見つからなかっただけだよ」

「でも、労いの気持ちはちゃんと伝わって来てた。泣いてもいいよって言われてる気がした」


 彼は腕をぐんと上に伸ばした。

 ただでさえ大きな体が余計に大きくなる。


「だから、俺も麻衣の役に立てたならよかったよ」

「……ありがとう」


 思い出はまだ、ちゃんとキレイなままだった。

 差し出された大きな手に自分の手を滑り込ませると、彼の手は少し汗ばんでいた。


「車に戻るか」


 常夜灯のオレンジの光がぽつぽつと浮かぶ夜の浜辺をゆっくりと歩く。

 パンプスのヒールが砂に沈むせいで歩きづらくてよろめいた私を、彼の手が力強く引いてくれる。


「麻衣。焦んなくていいよ。一歩ずつ」

「うん」


 歩きながら、彼は空を見上げた。


「星が多いな」

「多い?」


 不思議な言い回しだな、と思った。


「東京は空気が汚いせいで、星が少ししか見えないんだ」

「そっか」

「俺の婆ちゃんは、これでも随分見えなくなったって嘆いてるけどな。昔は天の川もきれいに見えたらしい」


 彼の横顔を見つめる。


「カズくん」

「ん?」


 相変わらず、彼の視線は上を向いたまま。

 さしてロマンチストというわけでもない彼が道端の花や空に視線を向けるのは、他に言いたいことがあるときだ。たとえば、照れくさくて目を合わせては言えないような。はじめて「好きだ」と言ってくれた時も、彼の視線は傍に落ちていた石ころに向いていた。


「本当に言いたいことは何?」

「バレバレか」


 彼は空を見上げたまま苦笑して、小さな声で言った。


「麻衣は……辛い思いとか理不尽な思いをしてきた分、痛みを知ってると思うんだよ」

「痛み?」

「経験した人にしかわからない気持ちっていうのか。麻衣はちゃんと身を以て知ってる。だからあの日、俺の気持ちに気付いてくれたんじゃないかって思うんだ。やりきれない悔しさみたいな」


 そうかもしれない。

 そう思うだけで、パンの耳をかじっていた幼い私が少し浮かばれる気がした。

 彼の目が、ようやく私をとらえる。


「それにほら、俺に何か言いたいことがあるって、麻衣はちゃんとわかっただろ」

「そう……だね」


 今の彼を見てその気持ちを察したのとは少し違うから、なんとなく反則技のような気もするけど。


「俺だって麻衣の気持ちがわからないことはあるよ。思いがけず誰かを怒らせることもある。人の気持ちがわからないって悩むのは誠実だからだろ。人の気持ちに無関心で平気で傷つける奴より、よっぽどいい」


 もう何度も繰り返した「ありがとう」の代わりに、ぎゅっと手を握った。握り返してきた彼の手が、「どういたしまして」と言っているのがわかった。

 言葉無く、木々の間を抜けて車に戻る。

 車に乗り込んでドアを閉めてシートベルトを引っ張っていたら、彼が盛大なため息と共にハンドルに身を伏せた。


「どうしたの?」

「せめぎあってる」


 彼はすぐに顔を上げて私の方を向いた。

 運転席の窓から差し込む常夜灯の光が彼の顔の反対側を照らしていたけど、私の方からはやはり表情はよく見えなかった。ただ彼の白い歯が見えたから、笑っているのだとわかった。


「二択で迷ってるんだ。麻衣を俺の家に連れて帰るか、麻衣の家まで送り届けるか」

「え? カズくんの家って……」


 自分が実家暮らしなものだからてっきり彼も実家に戻ったのだとばかり思っていたけど、違ったのだろうか。


「最近一人暮らしを始めたんだ。親戚が住んでた家がちょうど空いてるからって安く借りてる。親父と仕事でも家でも顔合わせてると、逃げ場がなくてお互いにキツくて」

「お父さんと……仲悪いの?」

「いや、仲はいい方だと思うよ」


 キツい、というのと仲がいい、というのが繋がらなかった。

 彼は言葉をつづけた。


「親父の仕事ぶりは本気で尊敬してるし、頑固な仕事人間ってところもひっくるめて親父だと思ってる。ただ、四六時中顔を突き合わせてると冷却時間がなくなるからな。家でもつい仕事の話になって、気持ちが休まらない。で、母親も俺と親父が家で仕事の話ばっかりするのを嫌がって、ついに追い出されたんだ」

「そっか」


 腑に落ちない表情をしていたせいか、彼が穏やかに言った。


「『仲が良い』と『ムカつく』は、ちゃんと両立するんだよ」


 私には、その辺りの感覚がうまく理解できていないのかもしれない。そう思って小さなため息をつくと、彼が言った。


「麻衣。焦んなくていい。一歩ずつ、だろ?」


 さっき砂浜を歩いていたときと同じ言葉。

 頷いて前を見た。



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