28
「麻衣」
「……気付いちゃったの」
声がかすれ、途中でひっくり返った。
初恋の失敗が残した爪痕は恥ずかしさだけではなかった。あれだけの好意を私は今まで誰からも受け取ったことがなかったと、気付いてしまったのだ。
「『家族は?』って」
突然吐いた私の体調を心配した彼に家まで送ってもらう道すがら、目の前が真っ黒くなった。
父は私を引き取ってくれた。
母はとても優しかった。
弟は私に懐いてくれた。
生まれたばかりの小さな手が私の小指に巻きついた瞬間の感動は、きっと一生忘れないだろう。
でも彼らの匂いは心地よい甘さだった。突き抜けたことはなかった。
それが何を意味するのか、考えるのが怖かった。
――お父さんもお母さんも翔平も晃平も、わたしのことをそんなには好きじゃない? いつかまた捨てられる?
芽生えた恐怖はその後、彼の姿を見るたびに蘇った。だから逃げ回った。目を合わせることはおろか、視界に入れることさえ拒んだ。
「麻衣」
とめどなく流れる涙の正体は何だろう。
哀しいとも苦しいともつかない。
「家族にもいつか捨てられるかもしれないと思ったら、傍にいてくれる人がほしかった」
ただ、傍にいて欲しい。
ひとりぼっちになりたくない。
そんな思いで繰り返した恋愛は、きっとどれも本気ではなかったのだろう。
新井さんの言ったことは、もっともだ。
彼の大きな手が私の肩をさする。強すぎるくらいの力が、今の私には心地いい。
「匂いがしなくなったのは、あの夜――」
さっきと同じ「あの夜」という言葉を使ったのに、どの夜のことを意味するのか、やはり彼には伝わったらしい。
「あの夜ってもしかして……再会した日?」
今思えば、新井さんの車に乗った時点ですでに匂いは感じなくなっていたのではないかと思う。
「俺の……せい?」
彼の腕の中で、首を大きく横に振った。
「ううん、ちがう」
「でも、俺との……あの出来事を境に匂わなくなったんだったら……」
もう一度、首を横に振る。
「たぶんもう潮時だったんだと思う。どうして匂いを感じるようになったのか、はっきりとはわからないけど、私にとって鎧みたいなものだったんじゃないかって思ってるの。母の機嫌や母が連れてくる男の人の感情が、当時の私にとっては文字通り死活問題だったから」
かといって、顔色を窺うわけにもいかなかった。「その表情が腹立つんだ」と叩かれるから。だから、顔色以外に彼らの感情を知る方法が、私には必要だったのだ。
「父に引き取られて安全な生活が始まって。本当はどこかの時点で鎧を脱がなくちゃいけなかった。でも脱ぐ勇気がなかったんだと思う。たしかに愛されているっていう実感が欲しくて」
彼が深呼吸をした。
胸が一度大きく膨らんで、また元に戻る。
「あの日……匂いはしてたのに、カズくんが何を考えてるか全然わからなかった。混乱して、ぐちゃぐちゃになって。それで、私が纏ってる鎧はとっくに綻びだらけだったことにようやく気付いたの」
「だから匂いがしなくなったってこと?」
「匂いがするようになった理由もわたしの推測にすぎないし、本当の理由はきっと一生分からないけど、私はそうかなって思ってる」
人間の感情は複雑だ。正か負かのどちらかで語れるものではない。だから、匂いが拾い上げることのできない感情を、私は今まで取りこぼしてきたのだろう。
ゆっくりと目を瞑ると、潮の匂いと砂の匂いがした。数か月間の堂々巡りが今は遠いことのように思えた。
「突然丸腰になって、怖くてたまらなかった。でも、いいきっかけだった。綻びた鎧なんてただの重荷だから」
これから先も匂いを頼りに生き続けるのはどのみち難しかったのだろう。不確かなものにすがりついて判断を誤るくらいなら、そんなものは捨てて、自分の足で歩くべきだったのだ。
そんな思いが彼にうまく伝わっているか、わからなかった。
自分にしか起こらない現象を人に伝えるのは難しい。
でも、彼はちゃんと受け止めてくれているようだった。体の触れている部分から、そのことが伝わってきた。
「ほかの人が当たり前にそうしてるのと同じように、私も丸腰で戦えるようにならないといけないんだよね」
彼に向かって話しているというよりは、自分で自分に言い聞かせた。
「赤ん坊だってまっさらな状態から少しずつ人の感情を学ぶんだから、私も時間をかけて学べば大丈夫だと思う。きっと、すごく時間はかかるけど」
双六で「振り出しに戻る」マスを踏んでしまったようなものだ。また一から始めなければならないことに落胆もするし、嫌になる。だけど、サイコロを振らなければゴールはできない。
突然お父さんの跡を継ぐことになってもまっすぐに前を向く彼のように、私もひとマスひとマス、進んでいくのだ。
「だからね。カズくんのせいじゃなくて、カズくんのおかげだと思ってる」
言い終えると、胸がすっと楽になった。
彼の顔を覗き込む。
真剣な顔をしている。
嫌悪みたいなものは感じられなかったから、きっと私に対して悪感情を抱いてはいないだろう。
「俺のせいでも、俺のおかげでもいい。俺の存在が麻衣の中で何か意味を持ってるなら、それだけで十分だ」
静かな言葉だった。
嬉しくて、同時に少し胸が痛い。
「……カズくんは本当に今の私でいいの? 高校時代の私とは全然違うよ。ウジウジしたり、悩んだり、あの頃よりずっと湿度の高い人間だよ」
「麻衣でいいんじゃない、麻衣がいい」
彼を思いやって出た言葉ではなかった。高校時代とは違う今のわたしを知って彼の心が離れたら。それを恐れて予防線を張った。
頬に残っていた涙を彼の指が拭う。
もう新たな涙はこぼれなかった。
「大学以降何人かと付き合ったけど、俺の友達はみんな笑ってた。『お前が付き合う相手には全然共通点がない』って」
「うん?」
「俺もどうしてそんな風にバラバラのタイプに惹かれるのかわかんなかったけど、あるとき唐突に気付いたんだ。共通点は麻衣だって」
「共通点……?」
「皆どこかしらが麻衣に似てた。顔とか、仕草とか、髪型とか、チアだったとか」
体を離して彼を見る。
「忘れられなかったって言っただろ」
「でも、そんな……」
それほどとは、思ってもみなかった。
「それに、印象はそんなに変わってないよ。高校時代の麻衣はいつもニコニコしてたけど、ふとしたときに表情が翳ることがあった。今思えばたぶん、周囲の匂いとかで傷ついてたんだな。人の頼みを断れない上に誰かに頼るのも下手くそで、あれこれ抱え込んでるのも、見ててハラハラした。俺はそういう麻衣を好きになったし、力になりたいと思った。そして今も思ってる」
穏やかな声が心に沁み込んでくる。
ずっと喉元に引っかかっていた言葉が、恐る恐る口から這い出した。
「私も……カズくんが好きだと思う」
穏やかな目が私を見つめている。
「でも、自分でもよくわからないの。もしかしたら、また甘えてるだけなのかもしれない。自分を好きだって言ってくれる人を、そばに置きたいだけなのかもしれない」
「それでも、俺にこの話をしようと思ってくれたってことだろう? ほかの誰かに話したことは?」
「大学からの友人に匂いのことは打ち明けてる。でも、実母のことは今まで誰にも話したことはなかった」
どうして彼だったのか。
もちろん、昔馴染みの彼を信頼しているのもあるだろう。彼自身がその事実をどう受け止めるかはさておき、不用意に広めたりする人ではないという確信はあった。
でも、新井さんに「ほどけ」と言われていなかったら。
バス停の前を彼の車が通りかからなかったら。
そして、彼のお姉さんの話を聞かなければ。
この話をすることはなかっただろう。
結局のところ、理由をつきつめれば「偶然」でしかない。
だけどきっと、人生はそういう偶然でできている。
健康診断の歯医者さんが別の人だったなら、私は今でも父の存在を知らずに実母の下にいたかもしれない。そうだったなら彼と出会うこともなかったのだ。
「運命」という言葉は、そんな「偶然」に意味を与えたかった私みたいな誰かが作り出したのかもしれない。
「少しずつ前に進むから……そばにいてくれる? 匂いがなくなったせいで気持ちがわからなくて、迷惑をかけることもあると思うけど」
声が震えた。
誰かに気持ちを伝えるのはこんなに怖いものだったろうか。
不安な気持ちを見透かしたみたいに、答えはすぐに返ってきた。
痛いくらい、強く抱きしめられた。
「ずっとそばにいるよ。気持ちがわからないなら、全部口に出して伝える」
彼の肩越しに、月が見えた。
暗闇にぽっかりと浮かんでいる。
「月がきれい」
「それは……夏目漱石的な意味で?」
くすくすと、小さく笑いながらうなずいた。
「あの頃、どうして月なんだろうって不思議に思ってた。でも、月が見える時刻を共に過ごして、月を眺めて『きれいだ』って思えるのは、特別な人だっていう証なんだろうなって。あのマユツバの小話を作った人は、そんな風に思ったんじゃないかな」
「たしかに……そうだな」
こめかみにそっと、彼の唇が寄せられた。
「月がきれいだ」




