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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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「これは後から父に聞いたんだけど、私の家庭環境に最初に気付いたのは歯医者さんだったんだって」

「歯医者?」

「小学校の健康診断で虫歯がたくさん見つかったの。普通は子どもがちゃんと歯を磨いたか親がチェックするから、虫歯だらけになることは稀だって」


 それから大人たちの間でどんなやり取りがあったのかは、私にはわからない。

 優しそうなおばさんと二人きりで話をして母との暮らしのことをあれこれと質問されたことはおぼろげに覚えているけれど、あれが誰だったのかは知らない。自分が何と答えたのかも、あまりよく覚えていない。

 ただ、母から「死んだ」と教えられていた父が突然目の前に現れたときのことはよく覚えている。

 そして何度か顔を合わせた後に、これからは父と一緒に暮らすことや、父はすでに再婚して子供がいることなどを説明された。


「そのとき、私は何て答えたと思う?」


 日はすでにとっぷりと暮れ、浜辺の常夜灯が私たちの影を作っている。

 ふたつの影は並んでいて、ちっとも動かない。


「見当もつかないよ」

「『嫌だ』って泣き叫んだの」


 予想外の答えだったらしく、彼の影が少し揺らぐ。


「母が家を出て行く姿を見送る度、『今度こそ帰ってこないかもしれない』って思ってた。『帰ってこないのは、私が悪い子だからだ』とも。あの頃の私にとっては、母の存在が世界の大半だった。母が好きだった。少なくとも、好きだと思ってた。母の傍を離れるなんて考えられなかった」


 自分は愛されていないわけじゃない、悪い子だから叱られるだけだと、信じたかったのかもしれない。


「父は、『お母さんとはもう一緒に暮らせない』って必死に私を納得させようとしてた」


 離婚後、調停の内容にしたがって私との面会交流を求めていた父に対して、母は「麻衣が会いたくないと言っている。突然現れたら動揺する。今はそっとしておいてほしい」と繰り返したと言う。私が虐待されているかもしれないという報せを受け取ったのは、そんな母に業を煮やした父が家裁への訴え提起を検討しはじめた折のことだった。

 「死んだ」と知らされていたくらいだから、父に会いたいかどうかなんて母から問われたことは一度もなかったけど、母の言葉の半分は当たっていた。

 父の突然の登場に、私は激しく動揺した。

 そして母と引き離されるのを嫌がった。


「あれがどこだったのか……小さな部屋の中にね、私と、たぶん父と、誰かスーツを着た女の人がいた。部屋のドアが薄く開いてて、そこから母の声が聞こえたの。とっさにドアに駆け寄った。少し離れたところに母が立ってた。それで、こっちを振り返って、母が言ったの」


『邪魔者がいなくなってくれて、せいせいするよ。あんたのことなんて、大っ嫌いだったんだからさ。養育費がもらえるからって引き取ったけど、バカなことしたと思ってたんだ』


「後半の意味はよくわからなかった。ただ、ついに母に嫌われたってことだけははっきりとわかった」


 彼の影が、再び動いた。

 そう思った次の瞬間、私の体がぐらりと傾いだ。

 座ったまま抱き寄せられたのだと、一瞬の後に気付いた。

 すぐそばで彼の静かな息遣いが聞こえる。

 服を隔てた抱擁には欲望めいたものはひとつもなかった。それなのに、体を繋げた時よりも今の方がずっと、彼に近い気がする。

 服越しの体温が心地よくて、私は彼の腕に囲われたまま続けた。


「それから後のことは結構鮮明に覚えてる。父に引き取られてこの土地に来てから、ずっと今の家で暮らしてる。父も今の母もすごく優しくて、最初の頃は戸惑ってばかりだった。そして少し経つと、私は手の付けられない悪ガキになった。悪いことをしても捨てられないか、彼らの愛情を試していたんだって」


 弟をつねって泣かせたこともあったし、家の障子をひとつ残らず破いたこともある。母が大切にしていたガラスの花瓶を粉々にしたこともあった。

 悪さをすれば叱られた。感情に任せて怒鳴るような形ではなく、向かい合って座って目を見ながら静かにお説教をされた。

 父と母は根気強く私に言い聞かせた。叱るのは愛情があるからで、私がどんなことをしても二人は私を心の底から愛していると。

 そして私は少しずつそのことを理解した。信じられたのは匂いのおかげだった。彼らから漂う匂いは、決してブレることなく優しく私を包んでくれていたから。


「……そうだ。匂いの話をまだ、してなかったね」

「匂い?」


 彼の顎が私の頭の上にある。そこから直に伝わる音は普通の声よりも少し低く感じられた。


「頭がおかしいと思うかも」


 低い声が笑う。


「思わないよ」

「本当に?」

「疑うなら試してみて」


 疑っていた。だから、試してみることにした。


「好きとか嫌いとか、自分に向けられる感情が匂いでわかるの」


 彼の腕がぴくりと動いた。

 でも、緩まなかった。

 次の言葉を待っているのがわかる。


「意味が分からないでしょう? でも、本当のことなの。私に対する好意的な感情はいい匂いで、反対は嫌な臭いになるの。正確には、『なったの』だけど」

「……過去形?」

「うん。今は匂いを感じないから」

「風邪で鼻が詰まってるから?」

「そうじゃないよ。感じなくなったの」

「そうか」


 彼が私の両肩を掴んで、少し体を引いた。

 彼の背後にある常夜灯のせいで、表情は見えない。逆に彼の位置からは私の表情が丸見えだろう。


「頭がおかしいと思う?」

「俺、そんな顔してるか?」

「逆光で顔が見えないから」


 彼が体の角度を変えた。


「全く思ってない」


 彼の目は真剣だった。信じてくれたらしかった。

 というよりも、信じてくれたと信じたかった。


「それならよかった」


 そう言うと、またそっと彼の胸元に体を引き寄せられた。

 優しい、優しい体温。


「中学に入る頃には私の気持ちも安定してた。匂いのおかげで人間関係もそれなりに平和に乗り越えられたし」


 そして――


「高校に入学して、カズくんに出会った」


 押し付けられた胸の奥の方でどくどくと響く命の証が、少し速くなった気がする。


「カズくんはいい匂いだった」

「そりゃそうだ。好きだったから」

「うん。すごく、いい匂いだった。あの日――」


 言ってから、『あの日』では伝わらないかもしれないと思った。

 でも彼の腕が一瞬堅くなったから、伝わっているのだと分かった。


「吐いたのは、匂いが強すぎたからなの」


 頭の上で彼が深く深く息をつく。息が私の髪を揺らす。

 さわさわと、彼の息に答えるみたいに風が吹く。


「……吐くほど嫌だったのかと思った」

「そう思って当然だよね。そうじゃないってちゃんと伝えればよかったんだけど……好きな人の前で吐くなんて恥ずかしいって思いが先に立って、顔を合わせられなかった」


 そう言って、ごくりと唾を飲んだ。


 ――違う。


 頭のどこかで声がする。


「麻衣?」


 一瞬体がこわばったのが伝わってしまったのだろう。彼が気遣わしげな声を上げた。


 ――違う、それだけじゃない。


 すべて吐き出してしまえという思いと、これ以上話してはいけないという思いが、苛烈なせめぎ合いをしていた。心の中で台風みたいに吹き荒れる二つの思いが、私の心の栓を抜く。

 ぶわりと、涙が溢れた。

 背に回された大きな手が、なだめるようにそこを撫でた。


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