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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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 思い出すのは優しい笑顔だ。


 幼い頃実母と暮らしていたアパートの近くに、中年のご夫婦が営む小さなパン屋さんがあった。いつ前を通ってもお店からは焼き立てパンのいい香りがしていたけど、母がそのパン屋さんでパンを買うことはなかった。だから私にとってその香りは、遠い憧れだった。


 あれはたぶん、小学校に入学したばかりの頃だったろうか。

 その頃には母の帰宅はまばらになっていた。帰ってくる日には大抵スーパーのお惣菜が差し出されたけれど、時折それすらも忘れられることがあった。たぶんあの日も、前日に母が帰ってこなかったか、お惣菜を買い忘れた日だったと思う。

 学校の行きだったか、帰りだったか、それとも休日だったのか。詳しいことは覚えていない。ともかく私は件のパン屋さんの前を通りかかった。

 ひどくお腹が空いているところにパンのいい匂いが漂ってきて、夜の街灯に吸い寄せられる虫みたいにお店に近づいた。前を歩いていた人が店に入った瞬間に、開いたドアからより一層強い香りがした。ふらりと、本当にふらりと、気付けばお店に足を踏み入れていた。小銭すら持っておらず、パンを買うことなんてできないとわかっていながら、前のお客さんに倣ってトレーを手にした。そしてトングを持ち、陳列棚のパンを見つめる。

 パンはどれもおいしそうだったけれど、特に私の目をひいたのはパンダの顔が描かれたチョコレートパンだった。かわいくて、おいしそうで、いい匂いがして。トングを持ったまま、その場に立ち尽くした。


「お嬢ちゃん、それ、おいしそうでしょう?」


 私がじっと立っていたせいだろう。背後のレジの向こう側から優しい声がした。


「おこづかい、持ってるの?」


 その問いに、反射的にトレーをかざして頭をかばった。

 叱られる、と思った。

 きっとひどく叩かれるに違いない。母が時折連れて来る男の人がするみたいに。


「怖がらなくていいのよ」


 盾みたいにかざしたトレーの向こう側から、また優しい声がした。


「お金、持ってないの?」


 恐る恐るトレーを下げると、レジには笑顔のおばさんが立っていた。

 もしかしたら、この人は叩かないかもしれない。そう思って小さくうなずいた。


「そっか。じゃあ、パンダは買えないね」


 最初からわかっていた。

 トレーとトングをレジの台の上に乗せ、頭を下げた。


「ごめんなさい」

「いいのよ。あ、そうだ。ねぇ、耳は好き?」

「耳?」


 問われたことがわからなくて自分の耳に触れると、おばさんは顔をくしゃくしゃにして笑った。


「パンの耳」


 そう言って奥に引っ込んで戻ってきたおばさんの手には、茶色くて四角いものが握られていた。


「これがパンの耳。お店で食パンを作るときにね、これが出来るの。パンの端っこ。売り物にするときにはここは切るから、耳だけ余るの。どうせ売り物じゃないから、食べてみる?」


 緊張していたはずなのに、口の中は唾液でいっぱいだった。


「あの、ありがとう」

「どういたしまして。おいしかったら今度おうちの人と一緒にパンダを買いに来てね」


 初めて食べたパンの耳は、香ばしくて、少し硬くて、でも甘くて、とてもおいしかった。

 その日から、空腹に耐えられなくなるとパン屋さんに足を運んだ。どれくらいの頻度だったのかは覚えていない。たぶん数週間に一度だったと思う。私が顔を見せると、レジにいるおばさん――ほんのたまに、おじさんのこともあった――がビニール袋に入れたパンの耳を差し出してくれる。他のお客さんがいないときにはそこで少し雑談をすることもあったし、他のお客さんがいるときにはこっそりと受け渡された。わくわくする、ほんの小さな秘密だった。

 けれどそんな習慣は、ある日突然終わりを告げた。

 ひとつには、小学校の帰りの会で先生に注意されたことがあった。近所の人から「下校途中にパンをかじっている児童がいる」との情報提供があったが、行儀の面でも衛生面でも問題があるので心当たりのある者はやめるように、とのことだった。

 そしてふたつめに、おばさんから心配そうに問われたせいだった。


「いつもお腹空いてるの? お母さんかお父さんは?」


 今思えばきっと心配してくれていたのだろう。でも、私は恐ろしくて仕方なかった。幼かった私には、大人は皆どこかでつながっているというような漠然とした感覚があって、「お母さんに知られてしまったらどうしよう」と恐怖したのだ。きっと叱られるに違いない。叩かれるに違いない。

 それに、いつもお腹が空いているなんて子ども心に恥ずかしかった。

 その一件以来、私は少し回り道をしてパン屋さんの前を通らないように学校に通うようになった。そして二度と、そのパン屋さんに足を踏み入れることはなかった。

 ただ、今でも「端っこ」を見ると、パン屋さんのドアの向こうにある温かな笑顔と、おいしいものが食べられるという喜びと、ここでは叩かれないという安心感を思い出すのだ。


 そこまで話したところで一旦言葉を切った。


「……麻衣……お母さんに虐待されてたのか」


 彼の声には怒りが滲んでいた。


「あれは虐待……だったのかな。母を怒らせると叩かれることはあったけど、そんなに頻繁ではなかったと思う。一度スイッチが入ると泣いて頼んでもやめてくれないことはあった。でも母より、母が連れて来る男の人から叩かれたり蹴られたりすることの方が多かったよ」


 目障りなガキ。

 何人の男の人から、何度言われたことか。

 そのたび私は思った。

 自分の姿が見えなくなってしまえばいいのに。透明人間になってもいいから、ここにいさせて。邪魔だって言わないで。

 普段はわたしなんて存在しないみたいに、本当に透明人間みたいに扱うくせ、虫の居所が悪い時に限って彼らは私に目を留めた。


 ――何見てんだよ。


 何も。

 何も見ていないから。

 何も言わないから。

 何もしないから。

 ごめんなさい。


「……当時はそんな言葉を知るわけもないけど、母のは育児放棄(ネグレクト)だったと思う」


 体育座りをして体を縮め、自分の肩をぎゅっと握りしめる。

 誰かに愛されていなかったことを明かすのは苦しい。自分が無価値な存在のように思えてくる。

 彼の方を見ることができず、暗い中に白く泡立つ波を見ていた。


「ごめんね、暗い話を」

「いや、謝らなくていいよ。話せるなら全部聞きたい」


 彼は静かにそう言った。

 月は相変わらずきれいだ。

 水面に反射して波と一緒に揺れている。




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