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夜の街をなめらかに走る車の中、隣に座る彼に話しかける。
「カズくん、支配人だったんだね。びっくりした」
「うん。行く行くは母体のホテルの経営を担うことになると思う」
「そうなんだ、すごいね」
「全然すごくはないよ。経営のことなんてまだ何一つわかってない。役員の末席に名前だけ貼り付けてもらって、会議に出て、揉まれてる。レストランにしたって、支配人なんか名ばかりで、実際はお目付け役の古参の役員に張り付いて色々見学させてもらってるくらいのもんだよ。父親からは『地位が人を作る面もあるから、分不相応を自覚してせいぜい足掻け。調子に乗ったら切り捨てる』って言われてる。人生の急カーブで振り落とされないように必死だよ」
「急カーブ? もともと継ぐ予定ではなかったの?」
「本当は五つ上の姉が継ぐはずだったんだ。大学卒業してからすぐ入社して、バリバリ働いてて。結婚しても仕事は続けるって言ってた。あそこのレストランは姉が立ち上げからずっと進めてきたプロジェクトで、やっと形になった。だけど、姉が突然恋に落ちてね」
「え」
「相手が裁判官で、二、三年に一度の全国転勤があるから仕事やめてついて行きたいって。うちは業種的に土日に仕事ってことも多くて、週末婚ってのも難しいし」
「そうなんだ」
「びっくりしたよ。姉から突然電話かかってきてさ。親父は会社を人に譲ってもいいって言ってたんだ。姉や俺の人生を縛るために頑張ってきたわけじゃないからって。でも、ひい爺さんが苦労して始めた小さな旅館を爺さんと親父が苦労して少しずつ大きくしてきたっていうのを知ってるから。やっぱり心の底では残念に思ってるんだろうなってわかってた。で、気付いたら『それなら俺が継ぐよ』って言ってた」
「カズくんは……それで、よかったの?」
高校時代に進路の話をしたとき、彼は目を輝かせながら将来の展望を語っていた。野球部の厳しい練習の傍ら学校の成績もキープして、指定校推薦でその業界に強いと言われる私大への入学を決めた。
「家族のためになるなら苦じゃなかったよ。向こうでの仕事はやり甲斐あったし仲間も好きだったから、家族のことがなければ今もあのまま働いてたと思う。でも犠牲だとは思ってない。姉が幸せになるのは嬉しいし、家族が俺を必要としてた。それに、俺はここの空が好きだし。あと、こっちに帰ってきたおかげで野球のコーチもできるし。俺にとってはいいことばっかりだ」
まっすぐで、何てかっこいいんだろうと思った。
きっと葛藤がなかったわけではないのだろうに。
住むところも、仕事も、周囲の環境も、全部変わったけど、誰のせいにもせずに、その運命を楽しんでいる。
ゆっくりとハンドルを切る彼の隣で、わたしはじっと前を見つめていた。
「まぁ、社会人になって三年働いて、ようやく仕事を少し掴めてきたと思ってたのが振り出しに戻って四苦八苦してるけどな。人の下で働く能力と人の上に立つ能力ってのは全くの別物だっていうのを日々思い知らされてる。でも楽しいよ」
きっと、私には想像もつかないような大変さなのだろう。それでも彼は前向きな言葉で締めくくる。
そんな彼の話を聞いていたら、自分が恥ずかしくなった。
怯えて、落ち込んで、泣いて、グズグズして。何度も何度も同じ場所に立ち返って、嘆いてばかりだ。
「カズくんは本当に強いね」
彼はそれを否定せず、頷いた。
車が停まり、カション、と音を立てて彼がシートベルトを外す。
私もそれに倣い、二人で車の外に出た。
数年前に大河ドラマの舞台になったときは、この辺りは随分と混雑していたけど、ブームの去った今はとても静かだ。そして、月の名所でもある。
「月がきれい」
暗い空を見上げてそう呟いた。
「それは夏目漱石的な意味で?」
「あ……」
カズくんは笑っていた。
現代文の科目で夏目漱石の『こころ』を教わっていたとき、先生が「月がきれいですね」のエピソードを教えてくれたのだ。I love youの訳を問われた生徒が「愛しています」と答えたら、漱石が「日本人はそんなことは言わない、月がきれいですね、とでもしておきなさい」と言ったという有名な逸話。のちにそれが出典不明のマユツバものだと明かされたけど、しばらくクラスで「月がきれい」が流行った。
「シモ先、懐かしいな」
「うん。カズくん大嫌いだったよね」
「そうだったなぁ」
現代文を担当していた下井先生のことを、彼ははやけに嫌っていた。
部活の朝練を終えて授業を受け、お昼ご飯を食べた後の授業は眠くて、彼はいつも睡魔との戦いに敗北していた。そのせいで下井先生からしょっちゅう怒鳴られていたから、そのせいかもしれない。
「あの、新井さんのことだけど」
並んで歩きながら唐突に口にした名前に、彼は驚いた様子は見せなかった。
「うん」
「カズくんがこっちに戻ってくる少し前まで付き合ってたの」
「そっか」
「今日は仕事の話をしてた」
静かにうなずいてから、彼は付け足した。
「俺は麻衣と付き合ってるわけでもないし、とやかく言うような立場にないから」
――あ。
今のは、突き放されたのだろうか。
『あんたのことなんて、大っ嫌いだったんだからさ』
蘇った声が頭のどこかをチラついた。
目を強くつぶって、それを何とか振り払った。
ちがう、あれはもう過去のことだ。近所のスーパーの試食コーナーを巡ったのも、公園で水を飲んで空腹を紛らしたのも、痣を隠すためにいつも長袖を着ていたのも。もう全部、はるか昔のことだ。繰り返し傷つくような意味も、価値もない出来事だ。いつまでもあの場所にとらわれていたら、私はきっと変われない。
「それでも、ちゃんと言っておきたかったんだ。同時並行で何人もの人と食事に行ったりはしないよ」
彼を見上げた。
彼は黙って私を見つめ、頷いた。
「そっか」
こんもりした木々の間を抜け、海岸に出た。万年遊泳禁止の浜辺近くに腰をおろし、波を見つめる。
「さっきの話だけど」
彼がぽつりと言った。
「さっき?」
新井さんの話だろうか。
「俺を『強い』って言ってくれたやつ」
「ああ、うん」
「麻衣が言った通り俺は強いから、麻衣一人くらいなら支えられるよ」
力強い声だった。
海から吹いた風が、ざわざわと木々を揺らし、髪を吹き上げる。
――絡まってるなら、ほどくしかないな。
ほどきたい。ほどかなくては。ちょん切るのではなく。
波が白く泡立っているのが闇の中にうっすらと見える。
膝を抱えて縮こまると、大きな海とちっぽけな自分を、より一層思い知る。
ちっぽけな私の、ちっぽけな絡まりだ。
「……長い話をしてもいい?」
私の隣に腰を下ろした彼は、足を伸ばして体の後ろに手をついた姿勢で頷いた。
「うん」
「ちっとも楽しくないけど」
「いいよ。俺、人の話を聞くのは得意なんだ」
どこから話そうか。
どこから、ほどけばいいのだろうか。
口をついたのは、パウンドケーキだった。
「私がパウンドケーキの端っこを好きなのはね」




