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「じゃ、また」
「はい。おやすみなさい」
後ろ手を軽く振りながら新井さんは去って行った。
その背を見送り、私も歩き出す。
レストランのある通りを直進し、左に曲がると坂道に出る。そこをゆっくりと下って道なりに少し歩くと、小さなバス停がある。ベンチもなく、屋根もなく、バス停の印の丸っこい看板が立っているだけのその場所で、時刻表と時計と睨めっこだ。
バスは幸いにも十五分ほどで来るようだった。最近はめっきり涼しくなって過ごしやすい。スマホをいじっていればすぐに時間は過ぎるだろうと、カバンからスマホを取り出した。
――ヤケになるなよ。俺はちょん切れって言ったんじゃない。ほどけって言ったんだ。
新井さんの言葉が脳裏に浮かんだ。
取り出したスマホの真っ黒な画面をぼんやりと見つめながら、その言葉を何度も反芻する。
そんなふうに考えたことはなかったけど、たしかに新井さんの言うとおり、私はこれまで手に負えないことが起きるたびに「手に負えないから」とちょん切ってきたのかもしれない。
――でも、ちょん切らずにほどくって、どうやって?
匂いのこと、人の気持ちがわからなくなったこと、終わってしまうかもしれない関係のこと、実母のこと。
――実母のことは、ちょん切るのが正解な気がするけど。お父さんに話すかどうか迷うな。突然会いに来たなんて言ったら驚くだろうし、不愉快なんじゃないかな。
心配をかけたくもないし、嫌な思いをさせたくもない。でも、実母がまた来る可能性もある。そうなったときのために、父には話しておいた方がよいようにも思う。
――家に帰りづらいな。どんな顔をしてお父さんに会えばいいのか。
そんなことを思いながら、車が行き交う道路の反対側を見た。
少し離れた場所にバス停の丸っこい看板がもう一つ立っている。
家と反対方向に向かうあちら側のバスに乗れば、海へ行ける。お気に入りの小さな水族館がある浜だ。
「この後行くところがある」と新井さんに言ったのは車で送ってくれるという申し出を断る口実だったけど、どこかへ出かけるのはいい考えのように思えてきた。
道路の先の交差点の赤信号で車の往来が途切れたタイミングを見計らって道路を渡り、反対側のバス停に向かう。時刻表を確認すると、こちらは二十分待ちだった。海岸までの乗車時間は三十分ほど。でも、浜から家まではバスと路面電車、汽車を乗り継いで一時間以上かかるはずだ。最終バスの時刻はたぶん二十一時過ぎ。と考えると、今から海岸へ向かうのは現実的ではない。
どうしたものかと十分ほど迷って、結局小さな旅は断念した。そして、おとなしく実家へ向かう方のバス停に戻ろうと顔を上げたときだった。
目の前の車道を軽やかに通り過ぎた車が、バス停の少し先で停まった。
視界の端にとらえて認識はしていたけど、さほど気にせずに道路を渡ろうと左右の安全確認をしていたら、手の中のスマホがブルブルと震える。
目をやると、画面には「上村一成」の文字が躍っていた。
あわてて通話アイコンをタップし、耳に宛てる。
『麻衣、左、左』
「え?」
『俺の車』
さきほどの車がプッと軽やかなクラクションを鳴らす。
「停まってるの、カズくんの車?」
『そう』
話しながら少し歩き、車のウインドウを覗き込んだ。
助手席側の窓がするすると下り、運転席にあるカズくんの姿が見える。
「カズくん。お仕事、終わったの?」
「うん。麻衣は家帰るところ?」
「うん」
「嘘だろ」
「え?」
「バス、逆向きだ」
「あ、ちょっと、間違えて」
「ふぅん」
その「ふぅん」がさっきの新井さんの「ふぅん」にそっくりで、何となく居心地が悪くなった。
「で? 本当はどこに行こうとしてたの?」
やっぱり、全然信じてなかったみたい。
「本当にバス停を間違えただけだよ」
「乗って」
「え?」
「送ってくよ」
「あ、大丈夫。バス、もう少しで来るから」
「バスより車の方が早いし、遠回りしたいなら付き合うから」
私が窓を覗き込んだままの姿勢で目を泳がせていると、彼はひとつ小さなため息をついた。
「麻衣、体調悪いだろ。声がおかしい」
ブロロロ……と聞きなれた重い音がして顔を上げると、反対側の車線を私が乗るはずだったバスが走り抜けていくところだった。私の他にバスを待っている人はいなかったから、停車せずに通過してしまったらしい。
「あ」
「バスも行っちゃったことだし」
「あのでも、これから帰るところだったんじゃないの?」
「明日は仕事休みだから、遅くなっても全く問題ない。ほら乗って、風邪ひきさん」
助手席のドアが内側から開き、私は短い逡巡の末に乗り込んだ。すぐに彼がジャケットを貸してくれる。
「膝掛け代わりにどうぞ」
「ごめんね」
「いや、いいよ。さて、どこ行く?」
「あの、家にお願いします。えっと、ナビに住所入れた方がいいかな? ここからなら道案内できるけど」
「麻衣、明日の予定は?」
「何もないよ」
「で、体調は?」
「たぶん、ただの風邪だと思う。でも昼間よりだいぶ楽になった。おいしいもの食べたからかな」
「じゃあ、ちょっと付き合って」
交差点で、彼はハンドルを実家とは逆の方向に切った。
「どこに行くの?」
私の問いかけに、彼は浜の名前を答えた。私がまさに、バスで行こうとしていた場所だ。
どうしてわかったの、と開きかけた口をつぐむ。
理由を聞いてもきっと、私はうまい反応を返せない気がしたからだった。




