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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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「お土産用のパウンドケーキの試作が焼き上がったところなのですが、よろしければ召し上がってみて率直なご感想をいただけませんか」


 そんな彼の提案を受けることにして、私と新井さんはドアが開くのを待っていた。

 今さらになって、個室の狭さに気付かされる。

 テーブルが一卓と、椅子が二脚。

 あと二脚は置けそうな大きさのテーブルだから、おそらく予約人数を見て余分な椅子は撤去してあるのだろう。

 壁には不思議な色彩の絵が飾られていて、テーブルの上部には小さなシャンデリアがある。

 気詰まり、というほどではないにせよ、沈黙は少し居心地が悪い。


「お待たせしました」


 ホッとしながらドアのほうに目をやると、個室に入ってきた彼の両手にはシンプルな白いお皿が載っていた。


「新井さんにはこちらと、麻衣にはこれを」


 厚切りのパウンドケーキと白いクリームに、ミントの葉が緑を添えている。

 そして私のお皿のケーキは、新井さんのとは少し違っていた。そのことに気づいて顔を上げると、彼が微笑んだ。営業スマイル的な、少しかたい笑顔だ。


「端っこ、お好きだったので」

「あ、嬉しい……です」


 先輩の新井さんが敬語を使っている相手だし、彼も私に敬語を使うし。どういう言葉づかいをしていいものかと一瞬悩んで、取ってつけたような「です」を口にした。

 そんな私の考えが伝わってしまったらしく、彼はふっと笑う。


「敬語だとやりにくい?」

「あ、はい、うん。ちょっとだけ。ごめん、あの、ありがとう。端っこ、好き、です」

「どういたしまして。スタッフからは客に端っこを出すなって止められたけど」


 敬語を解いた彼はいたずらっ子みたいに笑った。

 パウンドケーキもカステラも、わたしは端っこの焼き色がついたところが好きだ。だからお取り寄せの訳ありスイーツ「端っこ詰め合わせ」なんてもう、最高。この端っこ好きはずっと昔からだから、それを覚えていてくれたらしい。

 フォークで一口大に切ってほんの少しクリームをつけ、口に入れる。


「ん、おいしい」


 鈍った味覚でも、しっとりとした食感とバターの風味はちゃんと感じた。


「香りがいいですね。ママレードですか」


 新井さんが一口食べてすぐに言った。


「ええ。文旦のママレードですが、皮だけじゃなく果肉も入れて炊いているのでマイルドな味に仕上がっていると思います。それと、味のポイントはフランス産の発酵バターです。芳醇な香りが特長で……これは全部、パティシエの受け売りですが」

「このクリームは? 普通の生クリームよりも軽い感じがする」


 そう問うと、彼は少し得意気な顔をした。


「クロテッドクリーム。それは俺の提案なんだ。お土産用だから店で出すかどうかはまだわからないけど、出すなら添えるのはこのクリームがいいと思って」

「甘すぎなくてすごくおいしい」

「それはよかった」


 彼は頷いて、それからゆっくりと頭を下げた。


「それでは、引き続きごゆっくりお過ごしください」


 彼は笑顔のまま退室した。

 ケーキを口に入れるたびにほのかに鼻にぬける柑橘系の香りが心臓を揺らす。


「上澤、支配人の上村さんと仲よかったの?」


 顔を上げると新井さんが楽しそうに笑っていた。ただニコニコしてるっていうよりも、破顔しているというような。歯を見せて、目尻をくしゃくしゃにしている、


「新井さん、どうしてそんなに笑ってらっしゃるんですか」

「わかりやすいな、と思って」

「へ?」

「昔付き合ってたとか?」

「ええっ」


 フォークを握りしめたまま驚いていると、新井さんは声を上げて笑う。


「ええと、どうして……」

「さぁね。年の功、かな」

「……高校生のときに付き合っていました」

「うん。そんな気がした」

「そんなに……わかりやすいですか?」


 新井さんは頷いた。


「上澤が、じゃなく、支配人がね」


 彼は普段通りだった気がするのに、と思うけど、私が心の機微に疎いから気づかなかっただけなのかもしれない。


「端っこが出てくる辺りね」


 くくくっと笑いをかみ殺すように発された新井さんの言葉の意味がよくわからないまま、私たちはレストランを後にした。

 食事代金は、「払わせて下さらないなら、あとで当行の新井さんの口座に振り込みます。去年の忘年会の集金のときに教えていただいた口座番号の控え、まだ手元にありますから」とねじ込んで、かろうじて私の分だけ受け取ってもらうことに成功した。


「小橋通り支店の駐車場に車置いてあるから戻ろう。家まで送るよ」

「あ、私、この後ちょっと用事があるので。ここで失礼します。今日はありがとうございました」


 そう言うと、新井さんは眉を寄せた。


「用事?」

「はい。行きたいところが」

「ふぅん?」


 新井さんは車のキーにくっついたリングに指を入れてクルクルと弄び、ニヤリと笑った。


「上澤」

「はい」

「支配人とうまくいくといいな」

「えっ。あ、違いますよ、この後、彼と会うわけでは」

「まぁ、何でもいいけどな」


 そう言って新井さんは深呼吸をした。すっと、仕事のときみたいな真剣な表情になる。


「おせっかいはこれで最後にする。本当に最後にひとつだけ」

「はい」

「ヤケになるなよ。俺はちょん切れって言ったんじゃない。ほどけって言ったんだ」


 見透かされている気がして、言葉が見つからなかった。

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