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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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 新井さんは静かに続けた。


「上澤が抱えてた問題っていうのが何なのか俺には見当もつかないけど、一つだけ言えることがある。上澤は、俺が上澤を好きだったほどは俺のことを好きじゃなかった」


 もう何も言えなかった。声が出ない。

 出したら、たぶん一緒に涙も出てしまうだろうと思った。


「言っただろう? 『今更どうこうなんて考えてない』って。俺だって、自分のことを本気で好きになってくれる人と一緒にいたいからな。安心したか」


 口の片側だけを持ち上げた笑みは、初めて見る表情だった。

 頭の中に残っていた冷静さを総動員して、何とか言葉を紡ぐ。


「……おかしいなぁ……告ってもないのに、フラれたような気が」

「七歳も上のおっさんに嘘ついた仕返しだ」


 なんと穏やかで優しい仕返しか。


「ありがとう……ございます」

「仕返ししたのに礼を言われてもな」

「『ざけんなコノヤロー』の方がよかったですか」

「それは先輩に対する態度としてナシだな」

「そうですよね」


 この人なら、本当のことを話したとしても「頭がおかしい」なんて思わずに、一緒にいられる方法を考えてくれたのかもしれない。今となっては、意味のないタラレバだけど。

 魚の上に載っていた緑色の葉っぱを身と一緒に口に入れたら、えぐみと渋みが一気に広がった。きっとハーブなのだろうけど、詳しくない私にはわからない。


「すごい顔だな」

「ちょっとこの、草が」


 表情の半分以上はハーブのせいではなかったけど、そういうことにしておいた。

 水を飲み、口の中をリセットする。


「草とか言うな。それはフェンネルだ」

「……すみません」

「それで? 最近元気がないっていうタレコミの原因も、その抱えてた問題がらみなのか」

「そう……ですね。関係はあります」


 新井さんとのことは匂いがあったせいで起こったことで、最近の悩みは匂いがなくなったせいで起こっていることだから、ほとんど真逆なんだけど。


「解決できそうか」

「……わかりません。いろんなことが絡まりすぎて」


 どうして匂いがなくなったのか。

 また、戻る日が来るのか。

 戻ったとして、どうなるのか。どうしたいのか。

 転勤になるのか。

 家族のもとを離れるのか。


「絡まってるならほどくしかない」

「ほどく……」

「そうだよ。どんなに絡まってても、頑張ればほどける。ほっとくと余計にひどくなるしな。焦らないでほどくしかない」


 新井さんはまるで簡単なことみたいにそう言って、お皿に残ったソースをパンですいと拭き取り、口に放り込む。その仕草に、幼い頃の記憶が蘇った。

 給食用のアルミの食器に入っていたのはたしかミネストローネとかいう名前のトマト味のスープだった。私は食器の底に残ったスープをコッペパンの切れ端で吸い取って食べた。


『まいちゃん、お行儀悪いんだーいけないんだー』


 あの声の主は何という名だったか。いつも髪の毛をきっちり編み込みにして、可愛い髪飾りをつけていた。鉛筆は流行りのキャラクターの絵付きのもので、筆箱には消しゴムを入れる専用の場所と、鉛筆削りまでついていた。

 同じ声に、言われたことがある。


『まいちゃん、髪の毛どうしたの? ジャキジャキしてる』


 たぶん明るくていい子だった。あの言葉には何の悪気もなかった。子ども特有の、正直な一言だった。


「……小さい頃に、髪の毛にガムがひっついたときのことを思い出しました」

「髪にガム? 何でそんなことが起こるんだ」

「ガムを噛みながら寝入ってしまって、知らない間に吐きだしたガムが髪の毛に」


 お腹が空いてどうしようもなくて、家中を探し回ってようやく見つけたミントガムだった。押入れの中の母のバッグの底に転がっていたそれは、一体いつの物かもわからなかった。口に入れると埃っぽい味がしたし、お腹は張らなかったけど、寝るまでずっと噛んでいた。静かな空間にガムを噛むクチャクチャという音が響いて、孤独が紛れるような気がした。


「で、それ、ほどけたのか」

「洗っても取れなくて、ネチャネチャになりました。幸いひっついたのは毛先だったので、髪を切りました」


 たしか夏の暑い日だった。家にあった工作用のはさみで切った。

 毛先はバラバラだったし、数日後に家に戻ってきた母からは拾いきれなかった髪が床に落ちていたのを咎められた。

 でも、切ったおかげで絡まった髪に煩わされることはなくなった。絡まりをほどく方法が見つからなければ、ちょん切ればいい。物事は案外、シンプルだ。


「俺はほどく話をしてるんだ。ちょん切る話じゃなく」


 新井さんが静かにそう言った。真剣な目をしている。


「上澤はそうやって、これまで色んなものをちょん切ってきたのか?」


 問われて、そうかもしれない、と思った。

 初恋の痛みも、その後付き合った人も。


「ヤケになるなよ」


 頷く私の表情をしばらく観察した後、新井さんはパンにバターを塗りこんだ。

 私が返事をせずにずっとその手元を見つめていたら、何度も、何度も。バターナイフがバターとパンを往復して、ようやく止まった。

 ふぅ、と小さく息を吐く。


「いや、まぁ、俺がとやかく言うことじゃないよな。仕事の悩みならいくらでも聞いてやれるけど、そうじゃなさそうだし。ただ、ちょん切られた人間としてひと言くらい物申す権利はある気がするし、好きだった相手には幸せでいてほしいから」

「ありがとうございます。もう少し、もがいてみます」


 新井さんは頷いた。


「そろそろ料理に集中しないと、今度ここの支配人に会って感想聞かれたときに困りそうだな。まさか後輩に仕返しするのに気を取られて料理は味わってませんとは言えないし」

「そうですね。バターの塗りすぎで味がわかりませんでしたとも言えませんしね」

「気付かないフリしろよ。人が心配してんのに」

「……新井さん」

「なんだ」

「ありがとうございます、本当に」


 新井さんは小さなため息のようなものをひとつ吐き出した。


「……どういたしまして」


 その後は軽い会話とともに口直しのシャーベットを食べ、肉料理を食べ、デザートに舌鼓を打った。


「新井様、お食事が終わりましたら是非ご挨拶をしたいと当店の支配人が申しております」


 コーヒーを運んできたタイミングでそう声を掛けられ、新井さんは背筋を伸ばした。纏う空気がスッと変わる。

 あぁ、そうだ。新井さんのそばで仕事をしていたときは、この切り替えにいつも感心させられた。先輩として、人として、尊敬していた。


「支配人、いらっしゃってるんですか」

「はい。ちょうど先ほど。お連れしてよろしいですか」

「もちろんです」


 お辞儀をして出て行った店員さんの背を見送ってそわそわする新井さんに、声を掛ける。


「何だかVIP待遇ですね」

「うちの銀行の取引先だからかな。俺なんかただの営業なのに、申し訳ないな」

「私、いてもいいんですか」

「こんなところで仕事の話はしないだろうし、全く問題ない。支配人はホテルの方の社長の息子さんで、まだ若いし気さくな人だよ。だから、そんなに緊張しなくていいよ」

「緊張しますよ」

「まぁ、そうだよな。俺もちょっと緊張してる」


 だけどまさか。


「新井さんと……麻衣?」


 息子さんと言うのが、まさか。


「あれ? 上澤とお知り合いですか?」

「ええ。高校の同級生で。新井さんと麻衣は、お仕事で?」

「ええ。上澤は私が前にいた支店の後輩で」

「新井さんは小橋通り支店にいらっしゃったんですか」

「そうです。今の支店には、この四月に異動になったばかりで」

「そうでしたか。世間は狭いですね」

「本当ですね」


 彼と新井さんはにこやかで、私は二人の会話をただ聞いていた。

 鼻づまりのせいか、耳がぼんやりとして声が遠い。

 レストランの個室で、二人でコース料理を食べていた。デートだと思われただろうか。思ったとして、彼はそれに対してどんな感情を抱くのだろうか。


 ――そうそう、ただの男好き。


 再会した日に自ら口にした言葉が脳裏をかすめた。


「……なぁ、上澤?」

「え、はい」

「料理、大満足だったよな」


 話を振られ、私はようやく彼を見た。

 切れ長の目と、意志の強そうな眉と。


「はい、本当に。本当においしかったです」


 パリッとスーツを着て支配人の顔をした彼――カズくんが、そこに立っていた。

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