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答えられないまま、新井さんを見上げていた。その表情は怒っているようではなく、むしろ面白がっているみたいに見えたけど、本当のところはよくわからなかった。
しばらくそうして固まっていたら、新井さんはゆっくりと向かいの席に戻った。そして布ナプキンを膝にのせ、正面から私をまっすぐに見つめた。
「気付いてないと思ってた?」
「あの……」
「気づいてたよ」
私はたぶん、ひどい顔をしているのだろう。
近頃では私の標準装備になりつつある、呆然だとか愕然と呼ぶべき顔。今日の面談でも、上司と支店長にしっかりと披露してきたところだ。
新井さんは水を一口飲み、膝のナプキンで口の端を拭った。
「俺はよっぽど凄まじい悪臭を放ってんだろうなと思った。でも、他の誰に聞いても臭くないって言うんだ。妹に聞いた時のあの恥ずかしさは一生忘れないな。『なぁ、俺、もしかしてくさい?』って。返事が返ってくるまでの沈黙がいたたまれなかった」
新井さんは楽しそうに笑っていたけど、私はちっとも笑えなかった。
「ちがいます、あれは私の問題で。新井さんが臭いなんて、全然」
焦っていた。
ちがう、新井さんじゃない。
「ごめんなさい」
頭を下げたら、新井さんが一度深呼吸をするのが聞こえた。
「つまり、息を止めてたことは認めるんだな。でも、俺が臭かったわけではない?」
こくんと頷いた。
「じゃあ、何で」
「その……ただ……ときどき息を止めるのが……趣味で」
一瞬の沈黙の後、新井さんは噴き出した。
そして、ひとしきり笑う。
「上澤、それはさすがにひどい。嘘が下手すぎる」
この状況で笑ってくれる新井さんに感謝はしていた。ただ、その優しさに申し訳なさが募る。
「本当にごめんなさい」
ひとつだけ残っていた前菜を口に押し込んで、水で流し込むようにして飲みこんだ。
ただでさえわからなかった料理の味が、もう全然わからなくなった。
「謝ってほしいわけじゃないよ。別に俺は怒ってないし」
「あんな別れ方をして、腹が立たないはずはないって、わかってます。ごめんなさい」
「いや、本当に怒ってはないんだ。上澤がもう息を止めてないってことに気づいたのは家まで送ったあの日だけど、最初から別れの理由を信じてなかったから」
「それならどうして……」
「引き留めなかったかって? 俺も限界だったからだよ」
新井さんは肩をすくめた。
「消臭グッズを買い漁ったり、デートの前に必ずシャワー浴びて着替えたり、デート中トイレ行って汗ふきシートで体拭いて。それでも上澤は相変わらず息を止めてて、それ以上どうしたらいいのかわからなくて疲弊してた。見せてやりたいくらいだよ、俺の消臭スプレーのコレクション」
「そんな苦労を…………本当に、ごめんなさい」
「お、泣くか」
本当はちょっと泣きそうだったけど、涙は何とかひっこめた。ここで泣き出しちゃダメだ。あまりにも卑怯だ。
「泣きません」
「それはよかった。俺も食事相手を泣かせる趣味はない」
店員さんがやって来て前菜のお皿を下げ、スープがサーブされる。
二人の間を流れる妙な空気を気取られるのが嫌で、「わぁいい香り」という月並みな感想を述べてみたけど、大嘘だった。お料理の説明も何ひとつ耳に入ってこなかった。
店員さんが去ると、新井さんはスープを一口飲んでから言う。
「俺と別れた原因は、息を止めてた理由と同じ?」
観念して頷くと、新井さんは念を押すように言った。
「それで、俺が臭かったわけではないんだな?」
「違います。ただ、私が少し問題を抱えていただけで」
「それを聞いて楽になったよ。全身を銀イオンでコーティングしようかと思ってたくらいだ」
『飽きちゃった』という一言で「最低な女だった」と思われて、すべてが綺麗に終わると思っていた。こんな風に苦しめたなんて、思ってもみなかった。
「ごめんなさい」
「もう謝らなくていいよ。それで? もう息を止めてないってことは、その問題とやらは解決したってことか」
「ある意味では、解決しました」
「なら、どうしてそんな顔を? 喜ばしいことじゃないのか」
「……いろんなことが重なって」
「誰かに話すだけで楽になることもあるぞ」
ぐらりぐらりと、心が大きく傾いだ。
話すか、話さないか。
もう話してしまおうか、とも思った。
でも、話したところでどうなるものでもないからと思い直し、首を横に振った。
新井さんは鼻からゆっくりと息を吐いた。
「武士の情けだ、その問題とやらの内容はこれ以上追及しないでおいてやろう。だからほら、スープ飲んで」
促されて、スプーンを握った。
舌にざらざらとした感触があったから、スープはどうやらポタージュのようだった。
ただ、何のポタージュかはわからなかった。色からしてカボチャではなさそうだった。
新井さんの手元のお皿がゆっくりとこちらに傾き、どろりとした液体がお皿の上を滑る。それを追うように銀のスプーンが液体にもぐりこんで、新井さんの口元に運ばれていく。その様子をぼんやりと見つめていたら、新井さんはまた笑う。
「そんなに見られたら穴があく」
「あ、ごめんなさい」
「付き合ってた頃にそれくらい見つめられたら舞い上がってただろうけど」
私は慌てて目を伏せ、自分の手元に集中した。
スプーンとお皿の当たる音がしないように、ゆっくりとスプーンを動かす。
ざらざら、どろり。
まるで私の気持ちみたいに、スープが体の中に流れ落ちていく。
次に運ばれて来た魚料理を口に運びながら、新井さんが言った。
「別れの理由が『飽きちゃった』じゃなくて『最初から好きじゃなかった』だったとしたら、俺はすんなり信じたと思うよ」
「え?」
「まぁ、『臭かった』の方がより信憑性が高かったのは間違いないけどな。それだと俺の心はたぶんポッキリ折れてただろうから、まだマシなチョイスで助かったともいえる」
新井さんは器用に魚の身を崩し、ソースを絡めて口に入れる。
「俺のこと、好きだった?」
「もちろんです」
「俺が好きだって言わなくても?」
「告白される前から新井さんのことが好きでした」
だって、新井さんからはいい匂いがしたから。
「本当に? 俺の好意に気づいて、ただそれが嬉しかっただけじゃなくて?」
いい匂いがしたから。
いい匂いの人は、好きだから。
「俺のことを本気で好きで別れたくなかったなら、本当の理由を言えばよかっただけだろう」
「……話してどうなるものでもないとしたら?」
「試したか?」
「何を、ですか」
「どうにかなるかどうか」
匂いはいつだって私を悩ませてきた。
強くなるとか、匂いがなくなるとか、臭くなるとか。適度な匂いのままとどまることはなかった。それは私がどうにかできるようなものではなかった。
――本当に?
いつだって私は、強くなったり弱くなったりする匂いを受け入れていただけだった。「ああ、今回も無理だった」という、残念な気持ちとともに。
「上澤が『苦労』と呼んだのは、俺にとっては、好きな人と一緒にいるための『努力』だった」
「努力……」
「結果的に俺の努力には何の意味も無かったし、その意味のなさに疲れてもいた。でも、もし俺が消臭スプレーのコレクターになることで上澤が息を止めずにすんだとしたら、俺は喜んでそうしたよ」
少し目尻の下がった柔和な顔立ちは、こんな話の最中でも穏やかだった。
「俺が消臭スプレーをしこたま買い込んだり、ネットで体臭対策のサイトを漁りまくってたのと同じくらい、上澤は俺との関係を続けるための努力をしたか?」
何も答えられなかった。
答えは、「何も」だから。
息を止めたり、マスクをしたことはあったけど、結局最後にはいつも諦めた。
「この人は違ったんだ」と残念がるばかりで。
――どうしてこんな変な力を持ってしまったんだろう。
能力を厭うばかりで、それを乗り越える方法を探したことは、たぶん一度もなかった。




