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こつん、こつん。
ヒールの堅い足音を聞きながらゆっくりと歩く。
「俺いま法人営業にいるだろう? その営業先が経営してる店なんだ。城南ホテルって知ってるか」
「あ、はい。大学の先輩が去年そこで結婚式をしたので。県内では老舗のホテルですよね」
「うん。そこが新しくオープンしたレストラン」
「そうですか。たしかあのホテルはお料理がおいしいって評判ですもんね」
「うん。この間のプレオープンに招待してもらってたけど、仕事がたてこんでてどうしても行けなくなってな。それで、正式オープンしたら行きますって約束してたんだ」
店舗の周辺は夜でもそこそこ明るい。
道を照らす街灯には小さな虫が集まってブンブンと飛んでいる。
「さすがにコース料理を一人で食べに行く勇気はないから妹を誘ってたけど、今日になってドタキャンされた。そこに荻野からのタレコミがあったから、ちょうどいい生贄を見つけたと思って」
「生贄にご飯食べさせるって、逆じゃないですか?」
「太らせてから差し出すのが定石だろう」
「たしかに」
思わずふふ、と笑ってしまった。
オリエンタルな香りが新井さんから漂ってくる。
「妹さんは……その後、お変わりなく?」
「うん、おかげさまで。ただの食中毒だし、今はピンピンしてるよ。彼氏とのデートを優先して兄貴との約束を反故にするくらいにね」
「そうでしたか」
妹さんの話題を出したのは失敗だった、とすぐに思った。あの病院の駐車場でのことを否が応でも思い出してしまうからだ。首筋の鬱血痕も見られてしまっているのだし。
会話が途切れて黙ったまま細い歩道を並んで歩いていたら、前から自転車に乗った高校生がやって来た。道を開けようと彼の後ろに回り、縦一列になる。この構図には覚えがあった。前にある後ろ姿が違っているけど。
学ランの男の子とブレザー姿の女の子の二人乗りの自転車が、そんな私たちの横をすり抜けていく。
「いまの制服上澤の後輩だったな。二人乗りOKだっけ?」
新井さんが半分くらい振り向きながら言った。
「二人乗りは、校則以前にお巡りさんに注意されるような気がしますね」
「そうだよな。いいのか、制服で」
「たぶんバレたらまずいと思います。でも、あの年齢じゃないとできないことでもありますよね。二人乗りって」
彼らの姿に何かを重ねそうになって、それを打ち消すように瞬きをする。
また新井さんの横に並び、歩く。
「たしかに、この歳でチャリの二人乗りはないな」
「自転車に乗る機会自体ほとんど無いですよね」
だから、本当はいけないとわかりつつも、瑞々しい青春のひと幕をつい見逃してあげたくなる。
「店、そこ」
そう言って新井さんが指さした先にフランス国旗が見えた。
「あ。ここ、工事してるなって思ってたら、レストランだったんですね。フレンチですか」
「うん。でも、そんなに気取ってない感じだって。ホテルのレストランよりもかなり低めの価格設定らしい。コンセプトは『ちょっと贅沢な気分を味わいたいときに普段着で入れる店』だと」
「それなら、この服装でも大丈夫でしょうか」
自分の服装を見下ろしながらそう問うと、新井さんは頷いた。
「十分だろう」
地上階に駐車場、その上に店舗という配置は、この辺りではよくあるものだ。
階段をのぼり、ドアを開ける。
「予約している新井と申します。すみません、遅くなってしまいまして」
「お待ちしておりました」
丁寧なお辞儀をした店員さん――たしかフレンチではギャルソンと呼ぶのだったか――に連れられて、奥の個室へと向かう。
「コースで予約入れてるから、それでいい?」
「はい」
「飲み物は」
「あ、私、今日はアルコール遠慮させてください」
「了解。じゃあ、水で」
「かしこまりました」
店員さんはにこやかに部屋を後にする。
それから内装やカトラリーについての話がひと段落したところで言った。
「あの、もちろんですけど、払わせてくださいね」
「さすがに生贄に払わせるつもりはないよ。妹の分もどうせ俺が出す予定だったんだから」
「私は妹さんじゃありませんから」
「そんなことは二十七年前から知ってるよ」
引き下がらない新井さんに、仕方なく例の出来事を持ち出すことにした。
「この間送っていただいたお礼もできていませんから、せめてここは払わせてください」
「礼はいらないって言ったはずだ」
「でも、私はそれに同意した覚えはありません」
新井さんはくいと口角を上げ、ホールドアップの姿勢を取った。
計ったようなタイミングで、水と前菜が運ばれてきた。
ホールドアップのまま動かない新井さんを前に、思わず苦情を申し立てる。
「ちょっと、これじゃあ私が脅してるみたいじゃないですか」
「脅されてるようなもんだろ」
お皿のセッティングを終えた店員さんはクスクスと笑いながら部屋を出て行く。
目を細めて怒っているふりをしてみせると、新井さんは笑った。私もつられて思わず笑う。
「いつもの上澤、だな」
「へ?」
「ニコニコしてる」
相変わらず目の奥の方は重いけど、たしかに少し気持ちが晴れやかになっていた。
「それがいつもの上澤だっただろう。なのに、今日店舗から出てきたときは今にも泣き出しそうな顔をしてた。何かあったのか」
新井さんの目は真剣だった。
「何か、というと?」
「荻野からのタレコミの内容は、『最近上澤さんの様子がおかしい。いつも笑顔で感じのよかった上澤さんが接客態度でクレームっていうのは意外だし心配。新井、あんたのせいじゃないの?』だった」
「えっ新井さんのせいでは、全然」
「俺と別れて少しした頃から様子がおかしくなったとかで、完全に俺のせいにされてる」
「ごめんなさい。本当に新井さんのこととは無関係で」
「だろうな。時期的に、俺には別の心当たりがあるし」
少し口調が厳しくなった。
私はうつむき、膝の上で握りしめた拳を見つめる。
小さな小さなため息とともに、新井さんは言った。
「とりあえず、食べるか」
新井さんは前菜をゆっくりと口に運んだ。私もそれに倣い、手を動かす。
「カツオってところがいいですね」
「だな。くさみがなくて美味いな。ポテトか」
きっと色々と複雑な工程があるのだろうけど、簡単に言えばマッシュポテトをカツオでくるんだような前菜だった。きっと香りもすごくいいのだろうに、鼻が片方詰まっているのが悔やまれてならない。
「で?」
新井さんはぺろりとすべて平らげ、ナイフとフォークを皿に置く。
「上澤が元気ない理由は、俺と別れた理由と関係あるのか」
ただでさえ重い頭に、ずどんと何かが乗っかったような衝撃を受けた。マッシュポテトがのどの奥に引っかかる。
新井さんは私をじっと見た。
「皆に言ってるらしいな」
「何を……ですか?」
「『飽きちゃった』って。俺の前に付き合った奴にも、その前の奴にも」
見透かされているような気がした。
だけど敢えてゆっくりと言った。
「そうです。すみません、飽きっぽくて」
新井さんは眉一つ動かさず、余裕の表情で水に口をつける。
「上澤、その通勤バッグ、いつから使ってる?」
唐突にバッグの話をされ、一瞬眉を寄せた。でも、「就活のときからです」と答えを口にしながら、その問いの意図に気付いた。
「冷房よけのレッグウォーマーも冬用の冷え対策のレッグウォーマーも毎年同じ。ペンケースも通勤バッグも財布も、皮の物をずっと使い込んでる。本当に飽きっぽいか?」
「……男性に関しては」
思わず目を逸らした。
「嘘が下手だな」
「……得意な方です」
「そうかな」
言うなり、新井さんは立ち上がった。そしてゆっくりとテーブルをこちらに回り込んでくる。椅子を少し引いたけど、個室のせまい空間ではそれ以上逃げられる場所もなくて、私は椅子の背もたれにべったりと張り付いたまま新井さんを見上げた。
新井さんの顔がゆっくりと近づいてくる。
ふわりと、香水の香りが私を包む。
「なん……ですか?」
「俺が近寄っても、もう、息止めなくていいの?」




