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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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「県外に転勤、ですか?」


 営業時間を終え、予定通り上司と支店長とのキャリア面談が始まってすぐのこと。

 私は呆然としていた。頭の中では、さっき支店長の口から飛び出した二文字――県外――が躍っていた。

 入社して最初の配属以降ずっと今の店舗だったから、この十月か次の四月に異動になるだろうとは思っていた。ただ、それが県外だというのは全くの想定外だった。


「あの、でも、たしか女性社員は県内で……」

「基本的にはね。とくに既婚で子供がいたりすると、生活への配慮から異動は自宅から通える範囲になりやすい。でも上澤さんの場合は独身だし、雇用契約上は全国転勤のある総合職採用だから県外転勤も想定の範囲内だ。それに、これからは女性の仕事の幅も広げていきたいというのが全社的な方針でね」

「それはそうですが……」


 それでも、実際の運用上、女性社員に県外転勤が命じられることは滅多にないと聞いていた。

 だからこそ就職先としてここを選んだと言っても過言ではないのに。


「ちょうど隣県の営業所で、女性スタッフが相次いで四人も産休に入ったところがあってね。中規模支店で、経験面から言っても上澤さんの次の異動先としてはちょうどいいと思う。高速道路を使えば二時間半くらいの距離だから、それほど負担も大きくないだろうし、と。まぁまだ決定ではないけれど、一応意志確認をと思って。だからオフレコで頼むよ」

「……はい」


 これはもしかして、「やめろ」ということなのだろうか。「肩たたき」とでもいうのか。このところ仕事に身が入らなくて迷惑を掛けたとはいえ、やめなければならないほどの失敗はしていないと思うのに。

 私がよほどひどい顔をしていたのか、上司が気遣うように言ってくれた。


「上澤は資格も順調に取れてるし、ステップアップのいい機会になると思うよ。とりあえず、考えといて」

「……わかりました」


 それからどんな話をしたのか、よく覚えていない。

 「県外」の二文字がぐるぐると頭を巡っていたから。

 高速道路を走っても二時間半の距離。平日の朝は渋滞するだろうし、事故のリスクもある。通えるはずがない。となれば、転勤が決まれば家を出ることになる。


 ――家を……出る?


 そんなことをしたら二度と戻って来られないかもしれない。

 かといって転勤を拒否するというのも難しいだろう。キャリアが打撃を受けるのは間違いないし、下手をすればクビ……いや、さすがにクビにはならないだろうけど、居づらくはなるだろう。


 ――仕事をやめる? 今と同じくらいの収入を得られる仕事なんて、簡単に見つかるかな。


 証券外務員やらFPやら、入行後に取った資格はたくさんあるけれど、その資格を生かせるのは金融の仕事だけだ。うちの銀行をのぞけば、県内では地元の信金と都市銀行の現地採用スタッフくらいだろうか。

 都会みたいに選択肢がたくさんあるわけじゃないから転職先を見つけるだけで一苦労だ。それに、配転拒否という後ろ向きな理由での退職者を受け入れてくれるか甚だ疑問だ。


 ――親に迷惑をかけるのだけは避けないと。


 ぐるぐる、ぐるぐる。

 体調のせいなのか気分の問題なのか、視界がゆらめく中、必死に背筋を伸ばして何とか面談を乗り切った。


「失礼します」


 お決まりの挨拶と共に面談の部屋を出て仕事に戻ってからも、頭を占めていたのは転勤のことばかりだった。

 同僚たちが「お先に」と言って帰っていくのを見送りながらパソコンと向き合っている間もずっと。

 仕事を何とか片付け、ロッカールームに向かい、ロッカーを開け、制服を脱ぎ、私服に着替える間も。

 着替えを終え、しばらくはロッカールームのベンチに座っていた。

 家に帰る気が起きなかった。

 体は昼間よりも熱っぽくなっているし、今すぐベッドに倒れ込みたい。でも、家族と顔を合わせる準備ができていないのだ。転勤のこと、今朝の実母の来訪が頭をぐるぐると巡っている。


 ――お母さんが来たなんて、お父さんにもお母さんにも話せるわけない。


 結論が出ないままふらりと店舗の通用口から出ると、スーツ姿の男性が立っていた。身長の割に肩幅が広く、がっちりとした体型には見覚えがあった。

 キイ、と門の蝶番から響く錆びた音に振り返ったのは、キンモクセイの新井さんだった。


「新井さん。あの、ほとんど皆さんもうお帰りに」

「知ってる。俺は上澤に会いに来たんだ。待ちかねたぞ」

「時代劇みたいですね」

「何がだ」

「『待ちかねたぞ』が。あのでも、どうして」

「上澤の様子がおかしいっていうタレコミを受けて」

「タレコミ、ですか?」

「そう。荻野おぎのから。同期だから」


 荻野、というのは七つ上の先輩だ。

 腐りかけのフリージアだった人。

 今になって、どうしてフリージアが腐りかけていたのか分かった気がした。

 新井さんをひどい理由でフッたから、か。


「とりあえず夕飯を食べに行くぞ」

「あの、でも」

「近くに最近できた店があるんだ」


 「はい」とも「いいえ」とも言わないうちから、新井さんはすでに歩き出していた。


「十五分くらい歩くけどいいか? キツければタクシーを呼ぶけど」


 新井さんは私の足元を一瞥してから言った。ヒールだからと、気を遣ってくれたらしい。


「いいえ、それは平気ですけど」

「そうか。じゃあ、こっち」

「あの、新井さん。いいんですか、その」

「何が?」


 どこから言えばいいのかわからなかった。

 あんなひどい別れ方をしたのに、どうして普通に話しかけてくれるんですか、とか。

 私とご飯に行ったことを知ったら傷つく人がいたりはしませんか、とか。

 ただでさえ営業で飲み会が多いだろうに、金曜の夜にこんなところにいて大丈夫なんですか、とか。


「すごく短く言えば、私なんかとご飯食べてていいんですか、と」


 新井さんは朗らかに笑った。


「上澤は元彼女である前に後輩だから。今更どうこうなんて考えてないから、心配しなくていいよ」

「そう、ですか」

「で? 後輩思いの先輩からの有難いお誘いを断る理由は?」

「……特にありません」

「よし」


 力強くうなずいた新井さんと並んで、ゆっくりと歩き出した。

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