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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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18

 その日は朝から頭が重く、関節が痛かった。でも熱を測ってみたら平熱だったので仕事には行くことにした。夕方にキャリア面談の予定があるし、先日お客様からのクレームで問題になったところなのに、これ以上職場に迷惑を掛けたくなかった。

 まだ涼しい朝の澄んだ空気の中をひとり歩き、裏側の通用口から支店に入ろうとしていたら、背後から「麻衣」と声をかけられた。

 振り向くと、中年の女性が立っていた。反射的に微笑もうとした顔がこわばるのがわかった。心臓が胸の真ん中で暴れ出す。鍵を取り出そうとカバンに差し込んでいた手を抜き、カバンの持ち手を両手でかたく握りしめる。

 女性は「若い頃の私にそっくり」と呟き、微笑んだ。

 実母だ。記憶にあるよりも随分と老けている。髪に白いものが混じっているし、首にも無数の縦じわが走っている。それでもすぐに実母だとわかったのは、彼女の言う通り、自分と顔が似ているからに違いなかった。


「……ここで何してるの?」

「麻衣に会いに来たんだよー」

「どうして職場を知ってるの?」

「家知ってればさぁ、職場突き止めるなんて簡単だよー?」


 ああそうだ、こういう話し方をする人だった。

 語尾を伸ばした口調にそんなことを思う。

 でもこれは懐かしさとは違う。断じて。


「……何の用?」

「久しぶりに会いたくなってさー。どうしてるかなーって」


 そう言って実母は口を尖らせた。


 ――この人は何を言っているんだろう。最後に会ったときに、あんなひどい言葉を吐いたくせに。


 目の前の人の考えていることが何一つ理解できない。これ以上の会話に意味があるとも思えない。

 昔のことを思い出したくないから、頭に浮かんでしまいそうな最後の言葉を必死にかき消す。そのために奥歯を食いしばったせいだろうか。こめかみの辺りがズキズキと痛み始めた。


「仕事だから、じゃあね」


 なんとかそれだけを言って、逃げるように支店に入った。


 ――「私は会いたくなんてなかった」とか「二度と来ないで」とか「自分が何をしたかわかってるのか」とか、言ってやればよかった。


 更衣室に入ってひとりになると、あれこれと思い浮かぶのに、あの瞬間は何ひとつ考えられなかった。うまく息すら吸えなかった。そんな自分が恨めしい。

 このところの失態のせいで窓口での仕事よりも事務作業が増えたのが、この日ばかりは有難かった。体調が悪いのを隠して笑顔を作るのは結構体力を使うからだ。一人で淡々とやる仕事なら、多少グロッキーな顔をしていても誰かに迷惑をかけることはない。

 営業の人から依頼された見積書の数字を打ち込みながら、ふとパソコンのディスプレイ脇に貼った細い付箋に目をやった。備忘のために「やることリスト」として付箋を張り付け、終わったらはがすようにしている。その付箋がピンク色でピラピラと何枚もはみ出しているものだから、ぼんやりと眺めていたら紅ショウガに見えてきた。

 一度そう思ってしまうと、今までどうして気付かずにいられたのかわからないくらい、付箋はひたすら紅ショウガだった。それを眺めていたら、ついつい思考がふらふらと流れていく。


 ――あの人、また来るつもりかな。一応会えたわけだし、もう来ないかな。


 それから、カズくんとの関係にもちゃんと結論を出さないと。涼子がいうところの解放か、それとも。

 そんなことが次々に心に浮かぶのに、「どうすればよいのか」ということはおろか、「自分がどうしたいのか」さえもわからなくて、何も決まらないまま時間だけが過ぎていく。

 得ていつか失うのと、得ることなく過ごすのの、どちらがいいのだろう。


 テンキーの上を小刻みに指が移動して、カチャカチャと軽い音を立てる。

 見積書の数字を間違ったら大変なことになるので、三度ほど見直してから印刷ボタンをクリック。

 すぐに、少し離れた場所にある複合機が目を覚ます。ブイーンだか、シュイーンだか。いつもと同じ、不機嫌そうな音だ。

 窓口に座って笑顔でお客様と向かい合っている同僚たちを横目に複合機に向かう。ガーッという音とともに吐き出された紙を取り、再度数字を確認する。印刷したてほやほやの紙はちょっと温かい。

 一度目は全然数字が頭に入ってこなくて、二度目でようやくちゃんと読めた。

 それからカンマの位置と宛先を確認し、先輩の元に向かう。


「見積書できました。ご確認お願いします」

「おう、さんきゅ」


 書面をざっと確認した先輩から「今日は空いてるし、ちょっと早いけど昼休憩に入ったら?」というありがたいお言葉をいただき、休憩室に向かった。

 休憩室には大きなテーブルとパイプ椅子が置かれている。そのパイプ椅子の一つに腰を下ろし、テーブルに突っ伏した。冷えた天板が心地いい。天板に触れたところから、ぴりぴりとした弱い痛みが肌の表面を走っていく。生理や熱の前兆に、よくこういう症状に見舞われる。喉の痛みや鼻づまりがあるから今回はきっと熱の方だろうと思いながらも、生理の周期を頭の中でたどった。たまにズレることもあるけど、周期は毎月の初めごろで大体安定している。予定通りならあと十日くらい先のはずだ。

 やっぱり、熱の方かな。

 夜になったら熱が出るかもしれない。

 少しすると店舗全体が昼休憩に入って、同僚たちががやがやと休憩室に向かってくるのがわかった。

 体を起こし、シャキッとする。


「お疲れ様でーす」


 同僚たちと軽い挨拶を交わしながら、朝のうちに注文しておいた宅配弁当のふたを開ける。ほかほかとした湯気が立ち昇ったけど、普段ほど食欲は湧かなかった。


「おっ里芋の煮っ転がし。もうそんな季節か」

「だいぶ涼しくなりましたもんね」

「いい香りですねぇ」

「あそこの弁当は良い鰹節使ってるからな、ダシが違う」


 持参する人以外は出入りの弁当業者さんに一括でお願いするので、皆同じお弁当だ。

 めいめい感想を述べながら、割り箸を割る。


「あ、そういえば、上澤さん」


 声をかけてきたのは後輩だった。

 口に入っていたご飯をもぐもぐし、いつもより少し苦労しながら飲み込んで、答える。


「なに?」

「上澤さんって、小川涼子さんと同期ですよね?」


 迂闊にもこのタイミングで口に入れてしまった梅干しの種をどうやって吐き出すか迷いながら、コロコロと舌で転がす。いつもなら顔をクシャクシャにする威力を持っている梅干しだけど、味覚が鈍っているのかそれほど酸っぱさを感じない。


「うん、そうだよ」

「どんな方ですか?」


 テーブルの上にあったティッシュを一枚失敬して、種をプッと吹く。ついでに鼻をかみたくなったけど、食事中なので自重した。あとでこっそりトイレでかもう。


「美人でしっかりしてて、仕事できるよ。どうして?」

「実は、私の母の友達の息子さんが小川さんとお付き合いしてるとかで。私が同じ銀行に勤めてるからって、どんな人か知ってるか聞かれたんです」


 私の友人が後輩のお母さんのお友達の息子さんと付き合っている。近いような、遠いような。ただでさえ田舎の狭い世間だから、本気で探せばどこかで必ず繋がっている。

 そんなことより、「お付き合い」? つまり、涼子の彼氏ってこと?

 そういえば涼子は指輪をしていた。あれはやっぱり、意味のある指輪だったのか。

 里芋のモッチャリとした食感を楽しみながら、ぼんやりと考えていた。

 この間の飲みのお誘いは、その報告も兼ねてのものだったのではないだろうか。私が目頭から汗を噴出したおかげで、涼子は言えなかったのかもしれない。きっとそうだ。悪いことをしてしまった。


「お母さんのお友達に伝えて。『大学時代から知ってるけど、面倒見が良くて優しくて温かくて本当にいい子です』って」

「わかりました」


 涼子におんぶに抱っこだったことを反省。

 煮っ転がしに入っていたひき肉が箸から逃げ出そうとするのを執拗に追い詰めて口に入れながら、頭の中は紅ショウガと涼子の指輪に占領されていた。

 それも窓口の営業時間が終わって、キャリア面談の席で「上澤さん、転勤についてどう思う?」と訊かれるまでのことだったけど。




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