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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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 涼子はすっかり据わった目で続けた。


「別にいいよ? 恋愛なんて自分が幸せになるためにするんだから、自分の気持ちを優先するのが悪いって言いたいわけじゃないの。好きじゃないのに相手のためを思って付き合うとか、わけワカメだし」

「ええと、すいません涼子さん、なんですかそれ」

「わけワカメ」


 涼子の手がふにゃふにゃと動かされ、それがワカメを意味しているのだとわかった。

 そして、もう一つわかったことがある。涼子はものすごく酔っている。間違いなく、これまで見た中で最大の酔っぱらい具合だ。

 涼子は大きなため息をついた。おそらく相当酒臭いため息だったと思うけど、同じく酔っぱらっている私にはよくわからなかった。ただ、すこし(ひる)んだ。


「私が言いたいのは、好きじゃないならサッサと解放してあげればってこと」

「好きじゃないわけじゃないよ」


 言った後で「ジャナイ」の回数が合っていたか不安になった。たぶん合っていたような気がする。あたまがふわふわする。


「ほら、好きなんでしょ?」

「う」

「それなのに、麻衣にとっても相手にとってもキツい状態にしとく意味、ある? 好きです、付き合います、ハッピー。これまでの麻衣はそうだったじゃん。そして、これまで最大の障害だった匂いもなくなったわけでしょ? むしろ、何を迷う必要があるわけ?」


 涼子の言っていることは、ものすごく正しい。

 目の前のグラスについた水滴に、間接照明の光が映りこむ。

 キラキラ、キラキラ。

 お酒の力で潤んだ視界のせいで、光がぼやけてユラユラする。


「麻衣は何に怯えてるの?」


 その問いかけに、揺らいでいた視界が余計にぶれた。


「『怯えてる』……?」

「そう見えるけど、違う? 上村先輩をキープしておいて他の人と天秤にかけてるわけでもないし、追いかけられる恋愛を楽しんでるって感じでもない。まるで何かを怖がってるみたい」


 ああ私は怖かったのか、と、涼子の言葉ではじめて自覚した。

 名前がついたおかげか、感情が急にくっきりした輪郭を持つ。


「気持ちが……わからなくて」

「好きだって言われたんでしょ?」

「そうだけど。気持ちなんて簡単に変わるから」


 再会した夜に彼の匂いが次々に移ろったように、人の心は常に動いている。今日好きでも、明日は好きじゃないかもしれない。


「それに……口にする感情がいつも真実とは限らないって、知ってるから。『好きだ』なんて口先だけで、気持ちが伴ってない人もたくさん見てきた」


 カウンターに肘をついてだらりとしていた涼子の背筋が伸びた。


「いや、さすがに全然気持ちが伴ってないかくらいはわかるでしょ」

「ううん……わかんないの」


 涼子がゆっくりと顔をこちらに向ける。長い足を組み直し、私の言葉を待っている。


「わかんなくなっちゃった。仕事でも叱られてばっかり。窓口から外れて裏で仕事することが増えた。理由は『気遣いができないから』。飲み会で上司のグラスが空になりそうだったらお酒を注ぐとか、注文を聞くとか、そういう定型化された『気遣い』はできる。でも、普段の窓口業務の中で求められる気遣いってそういう型どおりのものじゃなくて、相手の気持ちを汲み取らないといけないでしょ?」


 涼子は何も言わない。


「本当に全然わからなくなっちゃった。たとえば、子供向けのアニメを見てて、登場人物が喜んでる、怒ってる、悲しんでる、楽しんでる、はわかるの。感情表現が大げさでわかりやすいから。でも、大人向けのドラマはわかんない。人の感情はものすごく複雑で、皆がどうやって表情からそれを読み取ってるのか見当もつかない。大人は感情を隠そうとするでしょう。だから、顔を見ただけじゃ好きか嫌いかなんてわかんないよ。それに、カズくんが私のことを好きだっていうのは、昔の感情を懐かしく振り返ってるだけかもしれない」


 再び甲子園という夢を追い始めた彼が、当時手に入れ損なったもうひとつのものを追い求めるのは自然なことのように思えた。

 彼が好きなのは今の私なのか。それとも当時の私なのか。


「それをたしかめるために付き合ってみれば?」

「うまくいかなかったら?」

「別れる。で、次を探す」


 涼子は短くそう答えた。

 「別れ」という単語に、喉の奥がひゅんと音を立てる。


「終わるのが怖い?」


 涼子の問いに頷いた。

 家族からの匂いがなくなったせいか、忘れかけていた幼少期の記憶がやけに蘇る。仕事でも叱られてばかり。


「上村先輩がどうこうっていうより、何かを得て失うのが怖いんだね」


 もう一度頷いた。


「指の間から、いろんなものがこぼれていってる気がするの」


 家族、恋愛、仕事、それにもしかしたら友情。そのすべてを、いつか失うかもしれない。求めても求めても指をすり抜けていった、幼い頃のように。


「気がついたら手が空っぽになってるんじゃないかって」


 あの頃のことは誰にも話したことがない。涼子にも。父にすら。

 自分が愛されるに値しない人間だと自白することになる気がするからだ。

 ひとりぼっちになりたくなくて、誰かに傍にいてほしいのに、失うのが怖くて手に入れられない。相容れない願望が私の中で同居しているから、どうしたらいいのかわからない。

 経験を重ねて私は少し賢くなったはずなのに、立ちすくんで動けないのは子どものときと同じ。大人になったと実感できるのは、どうしようもない状況を忘れるためにアルコールの力を借りてしまうことくらいだ。

 グラスに半分くらい残っていたコーラ割りを一気に呷り、カウンターに肘をついて両手で顔を覆った。


「麻衣……? 泣いてんの……?」

「泣いてないよ」

「すごい鼻声だけど」

「気のせい」

「指の間から、水、こぼれてるけど」

「これは汗」

「麻衣の汗腺、どこにあるの」

「……目頭」

「目頭にあるのは、一般的には汗腺じゃなくて涙腺って呼ぶと思うけどね。ほら、ちょっと」


 涼子の手が私の腕をつかんで、顔から手を引きはがす。


「汗、拭いてあげるから」


 ゴシゴシと、涼子がハンカチで顔を拭いてくれた。


「麻衣は汗っかきだね」


 ハンカチからは、柔軟剤の仕業らしいフローラルな香りがした。


「涼子は薔薇だったのに、柔軟剤の香りになった」

「私、薔薇だったの?」

「そうだよ。すんごくほのかでいい香りだったんだから」

「それはそれは」


 そう言って、涼子は「ん?」と声を上げた。


「『ほのか』って言った?」

「うん」

「……ってことは?」

「ほどほどに私のことが好き」


 くす、とパリコレの笑みを浮かべる。


「当たってる」


 ふへ、と私も笑った。

 次々に溢れてくる涙を涼子のハンカチが残らず吸い上げていく。


「あ、コラ、私のハンカチで鼻かむのはやめてよ」

「無理だよ。出てきちゃうもん」


 じゃれ合いながら、顔をわしゃわしゃと拭かれる。

 涼子のハンカチでは全然足りなくて、見かねたバーテンダーさんが差し出してくれたタオルまでびしょびしょにして、その日飲んだウイスキーのコーラ割が全部汗――もとい涙――に代わったころに、ようやく帰途についた。


「麻衣」


 別れ際に酔っぱらいの涼子が言った。


「私は今日もこれからも、『ほどほどに』麻衣のことが好きだよ」


 また目頭の汗腺から汗がこぼれそうになったので、そこを押さえたまま「私もほどほどに涼子が好き」と言ってバイバイと手を振った。



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