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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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「わかってるっつーの。我慢してるっつーの」


 涼子が私の隣に座り、チューリップグラスを乱暴に揺らしている。

 今日は彼女の好みに合わせた小さなバーだ。すでに相当酔っていて、恒例のおっさん顔になっている。

 もともと涼子は洋酒派だし、明日は土曜だから心置きなく飲めるというのもあるのだろう。でも、最大の原因は涼子が今日受けたキャリア面談だ。

 異動シーズンを前に今後のキャリア目標について上司と語るという趣旨の面談だ。涼子は今年の四月に異動したばかりだから、面談の趣旨は職場の環境や資格の取得状況についてのヒアリングのようなものだったらしい。

 涼子はテキパキしていて仕事ができ、直属の上司との仲も良好だ。でも、先輩の一人とそりが合わなくて苦労している。年次は涼子よりも五つも上なのに、しっかり者の彼女におんぶにだっこで、仕事に支障が出るくらい頻繁に細かい質問を投げてくるらしい。そのくせ虫の居所が悪い時には涼子に八つ当たりし、ミスは涼子に押し付け、「私は一般職だから」の一言で逃げるという。上司もその状況はわかっているけど、毎度「我慢してくれ」の一点張りで、涼子の堪忍袋もそろそろ限界を迎えそうになっているらしい。キャリア面談の希望で「あの人がいないところで仕事がしたい」と言い放つくらいに。

 もちろんそんな希望が通るはずもなく、「うまくやりたまえ。それも仕事のうちだから」という穏当なお返事をいただいて、絶賛ヤケ酒中なのだ。


「うん。涼子は本当によく頑張ってると思うよ」


 「りょうこ」が「ろうこ」になってしまったあたり、私もだいぶキている。


「頑張ってますとも。無い愛想を振りまいて。面談中だって満面の笑みだったんだから」

「涼子の満面の笑みって私でもほとんど見たこと無いもんね」

「でしょ?」


 クールビューティーな涼子に満面の笑みで「あの人がいないところで仕事がしたい」なんて言われたら、私なら震えるけど。


「で? 麻衣は?」

「私のキャリア面談は来週だよ」

「違う。映画、行ったんでしょ?」

「あー……うん」


 彼との映画の約束が実現したのは、ずいぶんと涼しくなってからだった。仕事に加えて高校の部活のコーチをしている彼はとても忙しく、なかなか予定が合わなかったのだ。


「どうだったの?」

「映画は面白かったよ。安定のクオリティーでハラハラドキドキ。予想のつかない展開に手に汗握って、クライマックスの大どんでん返しに息を呑んで、最後はちょっとキュン、みたいな」

「そんな、映画のレビューみたいな答えは期待してないんだわ。私が聞いてるのは、上村先輩との関係がどうなったのかって話」

「うーん……特に何もないよ。映画を見て、食事に行ったくらい」


 食事の間も高校時代の友人たちの近況を語り合ったり、部活の話をしたりと、古い友人という関係を超えた会話はない。


「ぶっちゃけ、好きなの?」

「あれ、デジャヴ?」

「いや、デジャヴじゃなくて現実だよ。私が前にも同じ質問をしただけ」


 涼子はそう言ってふーっと深く息を吐いた。

 トントン、と長い爪がカウンターを叩く。


「麻衣、たしかこないだは『好きなわけじゃなくて好きだったんだ』とか言ってなかった?」

「……言いました」

「なのに何でまた中途半端なことになってんの?」

「ええと、これには山よりも高く海よりも深い理由があってね」

「深くもなんともないでしょうが」


 隣に座っているから、前下がりボブに邪魔されて涼子の顔はあんまり見えなかった。

 変わりに細長い指を見ていた。

 あれ、涼子が指輪。珍しいな。初めて見た気がする。いいなぁ。指も爪も長くてきれいだから指輪も映える。

 回らない頭でそんなことを考える。

 子どもみたいな私の手では、指輪をしてもオモチャみたいに見える。


「結局麻衣は上村先輩のこと好きなんでしょ。まぁそりゃそうだよね。高校時代に好きで付き合ってて、お互い嫌いで別れたわけでもなくて、再会して史上最低なお誘いにホイホイ乗っちゃう程度には気持ちが残ってたわけで」

「わぁ辛辣なおコトバ」

「で? それなら付き合えばいいじゃん。なんで『ありがとう』とか言っちゃってんの。それでいて映画やら食事やらの誘いには乗るってさぁ、どこの小悪魔よ」

「別に焦らそうとか思ってるわけじゃないんだよ」


 涼子はグラスを上から掴むように持って揺らした。

 琥珀色の液体が揺れる。


「置き換えて考えてみてよ。たとえば私に好きな人がいるとするよ。私はずっと前にその人と付き合ってて、別れました。別れの理由はよくわからなくて、かなり一方的でした。だから別れてからも引きずってました」

「……うん」

「久しぶりに再会しました。半ばヤケクソで夜の誘いを掛けたら乗ってきました。やっぱり好きだと思ったので告りました。返事は『ありがとう』でした。この話を聞いて、麻衣なら私に何て言う?」

「『キープにされてるんじゃない? そんな人、やめた方がいいんじゃない?』……かな」

「でしょ」


 涼子はグラスを持ち上げて口をつけ、舐めるように飲んだ。芳醇な香りが私のところまで漂ってくる。ブランデーのストレートだ。いい香りだとは思うけど、ストレートで飲むと喉がヒリつくし、私には少し強すぎる。だからさっきからおとなしくウイスキーのコーラ割りを飲んでいる。ひとつ年下のはずなのに、お酒のチョイスといい精神年齢といい、涼子は十個くらい上な気がする。


「麻衣は〈お友達提案受諾〉なんて言ったけど、そうじゃなくて本当は〈お友達以上を提案したのに受諾されなかったから妥協してお友達でもいいよもしくはお友達から始めましょう提案〉だったんでしょ」

「そう……かも」


 そう答えながらスツールの上で身を縮める。

 どうやら今日は、叱られることになりそうだ。




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