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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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15


 家族連ればかりが目に入るのは昼前に嫌な夢を見たせいだろうか。


「なぁ……昼にさ」


 彼がぽつりと言った。


「うん?」

「いや……やっぱ何でもない」

「えっ気になるよ。言ってよ」

「んー……余計なこと言ったかなと思って」

「余計なことって?」

「『似てない』って」


 私はすうと息を吸った。

 今度はうまく笑えた。


「よく言われるから、平気だよ」

「そうか。ならいいけど」


 短い逡巡のあと、告げることにした。


「私は母に似たんだ」

「弟はお父さん似ってこと?」

「ううん。母似ではあるんだけど」


 彼は戸惑っていた。

 父は小さな二重の目でまつ毛が長く、丸っこい鼻をしている。

 今の母は、一重のすっとした目で綺麗に通った鼻筋をしている。弟はふたりとも、この母によく似ている。

 実母の顔はおぼろげな記憶の中にあって、はっきりとは覚えていない。それでも、「そっくり」とよく言われていたことは覚えている。幅の広い二重も、先っちょが少しとんがった鼻も、小さな口も。そして歳を重ねるごとにどんどんと似ていっていることにも何となく気づいていた。初めて化粧をしたときだとか髪型を替えたときに、父の匂いがわずかにブレたから。


「弟とは母が違うの。異母姉弟」


 補足説明をすると彼は驚いた顔をした。

 隠していたわけではない。親の離婚も再婚も珍しいことではないし、恥じることでもないから。だけど、敢えて彼に語ったことはなかった。同情されたくなかったのかもしれないし、昔の話をしたくなかったからかもしれない。

 彼は小さなため息をついた。


「本当ごめん、やっぱり、めちゃくちゃ余計なこと言ったな」

「ううん。気まずい思いさせてごめんね。両親が離婚したのは小さい頃だから、もうなんとも思ってないよ」


 物心ついたときには母とふたりで暮らしていた。入れ替わり立ち代わり男の人が入り込んでくる生活を「ふたり暮らし」と呼ぶのだとすれば、だけど。

 ただ、「もうなんとも思ってないよ」は大嘘だ。

 それどころか、匂いを感じられなくなった今、高校時代よりも私の足元は危なっかしくグラついている。

 すれ違った家族連れを見て胸がシクシクしたのもそのせいだ。両親と二人の男の子という家族構成だったから。あの家族と同じように、「上澤家」は私がいなくても四人で完結している。私がいなくても立派に「ひとつの家族」だ。近頃そんな風に思うことが増えた。


 父に引き取られたのは八歳のときだ。両親は私を温かく迎えてくれたし、幼かった上の弟はすぐに懐いてくれた。ほどなくして生まれた下の弟は、事情を知っているのかすら定かではない。ただ、八歳という年齢は何にも気付かないで過ごすには少し大人すぎた。

 母方の祖父母は急に現れた血のつながらない孫をどう扱ってよいものか戸惑っていたし、私は彼らを「おじいちゃんおばあちゃん」と呼んでよいのかわからなかった。父以外の大人の男性へ抱いていた恐怖心も手伝って、殊更に祖父に懐くことができなかった。縮めそこなった距離はそのまま、祖父母の早世によって永遠になった。私がいなければ母はもう少し頻繁に実家に帰省したのではないかと、時々思う。


「今の母がね、昔チアをやってたの。だから私も高校でチア部に入ったんだよ」

「そうか」


 それ以上何かを聞き出したいと思っている風ではなく、かといって興味がなさそうという風でもなく、彼は静かに相づちを打った。


「明るい母のおかげで、家族みんな仲良しなの」

「いいな」

「うん」


 明るくて、優しくて。彼女が本当の母だったならどんなによかったかと、いつも思う。彼女のことを指して「お母さんに似てるね」と、言われてみたかった。「そっくりな姉弟だね」と言われたかった。

 なのに、年を重ねるごとに私が似ていくのは、男の人が途切れなかった実母だ。嫌だと思っているはずなのに、やはり血は争えないということなのか。

 思考を追い出そうと思い切り笑ってみた。微笑みよりも破顔したほうが、顔は作りやすかった。


「母は歌が好きで、家事をする間ずっと歌ってるんだ。ご機嫌なときは踊ってたりもするよ」

「賑やかそう」

「うん。十八番(おはこ)は演歌でね」

「それはちょっと意外だった」

「しゃもじを片手にこぶし回してるの見ると、いつも笑っちゃう」

「いつか聴いてみたいな」

「頼めばいつでも喜んで歌ってくれると思う」


 そんな話をしながら足を踏み入れたCDショップでは聴いたことのない音楽が流れていた。声は有名な男性歌手のものだから、彼の新曲だろうか。歌詞に耳を傾けていたら、ひと夏の恋の終わりを歌った切ないバラードだった。

 男性歌手のすこし掠れた声質と歌詞がマッチして、ついつい感傷的な気分に浸ってしまう。


 ――ひと夏の恋。


 ひと夏で終わってしまう恋があるということは、ひと夏で終わってしまう感情があるということだ。

 彼の感情もそうかもしれない。

 いまの私には、相手の感情がわからない。だから彼の「好き」が何の前触れもなく終わってしまいやしないかと、怯えながら過ごすことになるのだろう。

 音も、色も。CDやジャケットに閉じ込めて、離れた場所でも楽しむことができるのに。匂いはどうしてそうできないのだろう。技術がこんなに進んでも、テレビから匂いが出てくることはない。保存して持ち歩くこともできない。人の気持ちみたいに掴みどころがなくて、いともあっさりと消えてしまう。


「麻衣」


 呼びかけに応じて顔を上げると、彼はCDの棚を見つめていた。


「何?」

「これからもまた誘っていい? 友達として」


 ――「友達」


 その真意を測りかねて、少し返事が遅れた。


「……うん」

「うし」


 ポン、と大きな手が頭に載ったのと同時に、彼の声色がガラリと変わった。さきほどまでの真剣なトーンから一気に明るいものになる。


「じゃあとりあえず、今度映画行くぞ」


 彼はこの短い時間に気持ちを切り替えたらしかった。どんな方向に切り替えたのかは、よくわからなかった。最初から私の答えを必要としていなかったのかもしれないし、答えを待ってくれるのかもしれない。それとも、私の反応を見てもう好きではなくなってしまったのかもしれない。

 そういえば昔から、切り替えのうまい人だった。

 一点勝ち越しで迎えた九回裏ワンアウト満塁のピンチ、マウンドにナインが集まった。そこで女房役だった入交くんに背中を叩かれ、その後を二者連続三振で切り抜けたのは、高二の秋の県大会だった。


「映画って、何の?」

「そこのサントラCDのコーナー見て思い出した。高校時代に麻衣と観に来た映画の新作、もうすぐ公開だ」

「ああ……そういえば、テレビでCMやってた」

「だろ? めっちゃ面白そうだよな。麻衣の好きな俳優も出てるし」

「よく覚えてるね」

「高校時代の俺にとってあの俳優は最大のライバルだったからな」


 ニヤリと笑った彼につられて笑みをこぼしながら、心の中では謝っていた。


 ――ごめんね、カズくん。


 「好き」だと言ってくれた気持ちは本当にとても嬉しい。だからすぐに「私も」と返せたらよかったのに。オレンジの香りに思考を遮られなければ、たぶんそうしていただろうと思うのに。

 香りのせいで生まれた動揺が、素直な言葉をどこか遠くへ押し流した。

 香りがあってもなくても、私は怯えることになる。あれば、いずれ訪れる再びの別れに。なければ、きっと陥る疑心暗鬼に。

 その夜帰宅してから涼子に短いメールを送った。


〈ベージュな奴らの出番なし。お友達提案受諾〉

〈トモダチの意味は〉

〈ノーマルなやつ〉

〈よし、安心した。おやすみ〉


 家の前の側溝で鳴くヒキガエルがうるさくて、その晩はほとんど眠れなかった。




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