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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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 ――オレンジ……? 香りが戻ってきた……?


 確かめるように深く息を吸いながら、心には次々にいろんな感情が浮かんだ。

 はじめはたぶん喜びだった。オレンジの香りは彼の好意の証だから。

 次に訪れたのは安堵のようなものだった。長らく私のそばにあって、あの日突然消えてしまったものが戻ってきた、と。

 だけどすぐに消沈した。また同じことになる。香りはいずれ強くなり、耐えきれなくなったときに関係が終わってしまう。

 そんな風にぐらぐらと揺れ動いた感情が、どれくらい顔に出ていたのかはわからない。微笑みらしきものを貼り付けているつもりではあったけど、うまく笑えていたのかどうか。

 切れ長の目が私の表情から何かを見つけだそうとじっとこちらを探っていた。だけどたぶん、彼が期待していたものは見つけられなかったのだと思う。

 彼は鼻から静かに息を吐き出しながら笑った。


「麻衣、また鼻動いてる」

「あっえっ」


 あわてて鼻を押さえた。


「何かいい匂いするもんな。オレンジか」


 頭が真っ白になって、彼が何を言っているのかわからなかった。

 そんな私をよそに、彼はしばらく黙って視線を動かしていた。わたしよりも四十センチ近く高い目線の先には、きっと私のとはだいぶ違った世界が広がっているのだろう。


「あ、たぶんそこの店だな」


 背伸びをして首を伸ばしてやっととらえた先に、オーガニックの石鹸やコスメ、アロマオイルを売っているお店があった。

 それを目にしてようやく理解した。オレンジの香りは彼からのものではない。


「実演販売中だってさ。どうりで」


 スンと鼻を鳴らす彼の横顔を見つめながら、さきほどの感情の流れを今度は逆に辿っていく。

 香りのせいで終わることはないのだという安心と、やはり匂いは失われてしまったのだという奇妙な喪失感と、オレンジの発生源が彼ではなかったことへの落胆と。結局複雑なそれを心の隅に追いやって、背伸びをした時に肩からずれたカーディガンの襟元を寄せる。


「麻衣、オレンジの匂い好きなの?」

「うん。すごく好き」


 頷いた自分がどんな顔をしているか、よくわからなかった。「ピンチのときこそ笑え」の教えを実践するのはなかなか難しい。


「じゃあ、あの店見てみる?」


 彼の誘いには首を横に振って答えた。

 いま胸いっぱいにオレンジの香りを嗅ぐのは避けたい気分だったから。


「あっちの……CDショップに行ってもいい?」


 CDが見たかったわけではない。ただ、オレンジが届かない場所に行きたかっただけだ。振り返って偶然目に付いたのがCDショップだった。石鹸のお店と真逆の方向を指すと、彼は軽くうなずいた。そしてまたゆっくりと歩き出す。

 彼のさっきの告白めいたものへの返事は無いまま、話題が移ろった。移ろったというよりも、答えに窮する私を見かねて変えてくれたのかもしれない。それを彼がどう思っているのか気になったけど、彼の顔を見ることができなくて、自分のパンプスのつま先が交互に前に出るのを見つめる。歩きやすくて身長を盛れる八センチヒールのパンプスは私のお気に入りだ。高校時代はペタンコの靴ばかり履いていたから、当時よりも八センチ分彼に近い。だけど、気持ちは当時よりもずっと遠い。


「あの……ありがとう、カズくん」


 顔を上げることなくそう言うと、高いところから声が落ちてくる。


「それは何に対する礼?」

「その……気持ちが嬉しかったから」


 「ありがとう」なんて、ずるいことを言った。

 たぶん彼も同じことを思っただろうけど、口には出さずにいてくれた。


「どういたしまして」


 短い一言は、これまで聞いた中で一番低い声だった。

 嫌われただろうか。

 そう思ったら余計に顔を上げることができなくなって、伏し目のまま黙々と足を動かす。

 相手に「好き」という言葉を返すことはできないくせに、嫌われたくもないのだから、まったく私は自分勝手なのだ。


「あ」


 彼の声に一瞬顔を上げ、隣を歩いていた彼の後ろに回り込んだ。前から歩いて来た親子連れに道を開けるための縦列だ。その位置どりになってようやく、まっすぐに彼を見上げることができた。彼の真後ろに立つと、私の視界は大きな背中でほとんど埋め尽くされる。半袖のシンプルなTシャツ姿だから、腕のしなやかな筋肉だとか首元の僧帽筋だとかが、よく見えた。

 「あ」の一声で、「前から人が来てる。通れるように道を空けないと」という彼の気遣いを読み取ることはできるのに、彼の自分に対する感情はまるでわからないのだから、妙な気分だ。

 大きな背中の横を通りぬけて私の視界に入りこんだ親子連れは、両親と三歳くらいの男の子、ベビーカーの男の子の四人だった。男の子はどちらもお父さんにそっくりな顔立ちをしていた。


「あ、そうだ」


 ちょうど、昼間に来ていたスポーツショップの前を通りがかったときだった。


「麻衣は俺が野球部のコーチ始めたって、知ってた?」

「うん。弟が『上村コーチ』って言ってたから、たぶんそうだろうなって思ってたよ」

「そうか」

「ビシバシ指導してやってね。同じピッチャーだし」

「おう、任せろ。弟くん、背も高いし、バッティングは俺よりいいし、いい選手になると思うよ。まぁ、チームはまだまだ弱いけどな」

「上村コーチの腕の見せどころだね。目指せ来年夏の甲子園」


 後半をチアガールっぽい高い声で言うと、彼は深く頷いた。


「この歳になってもう一度甲子園を目指せると思わなかったから、まじで嬉しいよ」


 彼は高校時代、センバツには出場できたけど、夏の甲子園への出場は叶わなかった。

 夏の県大会の準決勝で敗れた後、すがすがしい表情で監督やチームメイトへの感謝の言葉を述べた彼は、その夜グラウンドの隅でひとり泣き崩れた。あのときの悔しさが、いつか晴れたらいい。

 泣き崩れる彼を傍らで座って見守ることしかできなかった私は、当時と変わらず今も無力だ。でも、わが家の焼きおにぎりが部活に専念できるようテスト勉強に協力するくらいはできるかもしれない。


「カズくんは強いね」

「ん?」

「一度は破れた夢をまた追いかけるって勇気がいると思うから」


 そう言うと、彼は一瞬眉を寄せた。


「……甲子園の話、だよな?」

「うん。そうだけど……?」


 問いの意図がわからず彼を見つめたけど、彼は納得したように頷いただけだった。

 彼の夢が今度こそ叶いますように。

 遠くで響く、見知らぬ子どもの「おかあさーん!」という声を聞きながら、そう願った。



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