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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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「大学に入ってから耳にしてた話はどれも、俺の中の麻衣の印象とは全くつながらなかった。だから、いつも半信半疑で聞いてた。本人に会って『やっぱり変わったんだ』って思えたら、ちゃんとケリがつけられる気がした。それで、口座の開設を口実に支店に行ったんだ。用事を終わらせて麻衣のほうを見たら、小さい体で重そうな水のボトル持ち上げてるところでさ。チアのポンポンが大量に詰まった袋に埋もれながら一生懸命運んでた高校時代の麻衣が重なった」

「……よく手伝ってくれてたよね」


 廊下で一人ふうふう言いながら荷物を運んでいたら、黙って近づいてきて私の手から荷物を奪って歩き出すような、不器用な優しさだった。追いかけて「ありがとう」と言うと、照れたように笑っていた。


「全然変わんねぇな、と思った」


 彼は手に持った雑貨を光に透かすみたいに目の前に掲げて、くるくると回している。


「変わってない麻衣を見てホッとしたんだ。矛盾してるだろ。それで、自分でもわかんなくなった。変わっててほしいのか、変わんないでいてほしいのか」


 彼が雑貨を棚に戻そうとして伸ばした手が隣に置かれた小さな陶器に触れた。

 コロン、丸っこい形をした陶器は陳列棚のふちに向かって転がる。

 反射的に手が出た。

 同じように、彼の手も出た。

 床に落ちかけた陶器を私が掴んで、それを私の小さな手ごと、彼の大きな手が包み込む。


「あっ」

「おっ」


 慌てて手を引っ込めた。彼も、私も。

 彼と自分の慌て具合が何だかおかしくて、私は思わず笑い出してしまった。


「……なんで笑うんだ」


 どうして私が笑っているのか、きっとわかっている彼は、顔を背けながら言った。

 この間もっと直接的に触れ合ったくせに、手がほんの少し触れただけで焦るなんて不思議だ。

 私が答えずに笑っていると、彼は静かに続けた。


「吹っ切るために会いに行ったはずなのに、気づいたら強引に飯に誘ってた。滑稽だったろ。あんなに必死こいて」

「滑稽だなんて思わなかったよ」

「俺は思った。ガキみたいだって。それが情けなくて。飯食ってる間もずっと、麻衣の中に昔の面影を探そうとしてる自分に無性に苛立って……未練が口から飛び出した。あんな最低な言葉で」


 ――抱かせてくれんの?


 胸がしくしくと痛んだ。私はただ、黙って彼の言葉を聞いていた。


「平手打ち食らう覚悟で追いかけたら『いいよ』って言われて、びっくりした。それに心のどこかで喜んでもいた。そのくせ、麻衣がこれまでどんな奴と経験を重ねたのかとか、そういうことばっかり頭に浮かんで、勝手にまたイラついた」


 日なたに置いておいたオレンジだとか、かすかに混じったヘドロだとか。

 あの日の匂いの理由が、わかった気がした。


「ほんと悪かったと思ってる。俺の勝手な苛立ちをぶつけて。まじで最低だった。信じられないかもしれないけど、麻衣を傷つけたかったわけじゃないんだ」


 私は軽く首を振った。

 彼の顔はこっちを向いてはいなかったけど、私が首を横に振ったことは、たぶん気配で伝わっていただろう。


「私、傷ついてないよ」


 そう言ってから、少し黙って、言い直した。


「もう、傷ついてない」


 ちっとも傷つかなかったと言ったら、たぶん嘘になる。あの夜、自分の価値のようなものを思い知らされた気がして、たしかに私は粉々になった。

 だけど彼の話を聞いていたら、粉々になったかけらが一つ一つ、元の場所にはまっていった。


「ぐちゃぐちゃ色んなことを考えて、よくわからなくなったのは私も同じだよ。だからもう『ごめん』はやめよう」

「麻衣」

「お互いに、再会の仕方をちょっと間違えたよね。だから、再会からやり直そう」

「『やり直す』って?」

「『カズくん、久しぶり』」


 そう言って右手を差し出すと、彼はためらいがちに手を握った。大きくて暖かい手が私の小さな手をまた包み込む。


「……久しぶりの再会で握手するって、ドラマの中だけだと思ってた」

「たしかに、再会の握手するの、初めてかも」


 二人で笑って手を離す。そして深呼吸をすると、さっき救出した陶器からふわりと薔薇が香った。


「あ、いい匂い」


 丸っこいハート型の小さな白い陶器には小さな穴が開いていて、中の空洞に薔薇のポプリが詰まっているらしい。


「そういうとこ、変わんないよな」


 私の手からポプリの陶器を受け取って棚に戻しながら、彼は静かに笑う。


「そういうとこって?」

「匂いに敏感なとこ」

「……そうだっけ?」

「高校入学当初、よく鼻ヒクヒクしてた。身長小さくて、丸っこい目して、いっつも小動物みたいに鼻動かしてるから。可愛いなと思って見てた」

「……初耳」

「高校時代の俺はそんなことを口にする余裕はなかったからね」

「鼻が動くの、カ……」

「か?」

「カズくんの、癖だと思ってたのに」


 カズくん、という呼びかけに一瞬目を丸くしてから、彼は昔と同じ顔で笑った。


「麻衣の仕草かわいいなぁと思ってずっと見てたから、たぶん伝染(うつ)った」

「え?」

「好きな奴の癖って伝染るもんなんだって。大学の教養科目で聞きかじった心理学」


 その言葉が何となく照れくさくて、私は何も言わずにゆっくりと歩き出した。歩幅の違う彼は、私よりもさらにゆったりとした動きで足を出す。

 休日の夕方だから、ショッピングモールには家族連れの姿がたくさん。子どもを肩車しているお父さんや、ベビーカーの中でぐっすりと眠る赤ちゃん、買ってもらったばかりらしいおもちゃを抱えてニコニコと歩く子どもが次々に目の前を過ぎていく。

 それを眺めていたら、パサリ、と肩に暖かいものが乗っかった。

 驚いて肩を見ると、さっきまで彼が着ていたはずの黒いカーディガンが両肩にかかっていた。


「寒いんだろ。いいよ、それ着といて」


 私がなおも驚いた顔をしていると、彼は続けて言った。


「無意識? さっきから腕さすってた。ここ冷房効いてるからな」


 無意識だったけれど、カーディガンの暖かさが心地よかったから、たぶん少し寒いと感じていたのだろう。


「……ありがとう」

「どういたしまして」

「あの、でも、借りちゃって平気なの?」

「俺は体温高いからな」

「そう……だったね」


 カーディガンに残る彼の体温のせいで、言葉がうまく出てこなかった。私には大きすぎるそのカーディガンに袖を通すのは気が引けて、肩に羽織ったまま前を寄せて手でつまんだ。


「俺のじゃやっぱり大きすぎるな」


 カーディガンに着られている状態の私を見て、彼は言う。「やっぱり」ということはきっと彼も私と同じことを思い出していたのだろう。高校時代にも、これと同じようなことがあった。


「……聞かないの?」


 カーディガンの前をつまんだまま人波の中を進みながら、尋ねた。


「何を?」

「高校時代のこととか」

「ああ……」

「それを聞きたくて連絡をくれたのかなって思ってた」


 彼は首の後ろに手をやって、一度天井を見上げた。


「連絡したのは謝りたかったからだよ。もう二度と俺の顔なんか見たくないだろうと思ったから連絡できなかったんだ。でも入交から伝言を聞いて、謝るチャンスをもらえるかもしれないと思った」

「そっか」


 高校時代のことを聞かれたら何と答えようか、ずっと考えていた。

 答えが出ないまま、ここへ来た。

 だからそのことを聞きたいのではないとわかって安心したはずなのに、胸の中にもやもやとしたものが広がった。

 私は一体、何を期待していたのだろう。

 昔のことを話して、その先に。


「俺の何がダメだったのか、とか。何で急に俺を避けるようになったのか、とか。聞きたいと思わなかったわけじゃないよ。高校時代からずっと知りたいと思ってた」

「……今は?」

「麻衣が話してくれるなら聞くけど、聞き出したいとは思ってない」

「どうして?」

「もう昔のことだから」


 過去のこととして消化したということなのだろう。

 私は「過去」の一部、か。落ち込む権利はない。そうわかっているのに、うっかり視界が滲み始めたのに気づいて、あわてて通りがかりの服屋さんにディスプレイされていた帽子を手に取った。それを目深にかぶり、鏡を覗き込む。

 背の高い彼の角度からは、帽子のツバで私の顔は見えないはずだから。

 角度を調整するふりをしながら目元をぬぐってくるりと振り返り、「似合う?」と彼を見上げたら、彼は真剣な表情で私を見下ろしていた。


「似合ってるけど、帽子の話はちょい置いといて」


 顔を隠すためにかぶった帽子は彼の手にあっさりと奪われた。ばっちり目が合ってしまって、何か言わなければと思った。とっさに口から出たのは謝罪の言葉だった。


「あの、ごめんね、カズくん。あのときのこと。今さらだけど、いつか謝りたいと思ってたから」


 見上げながら、たぶんうまく笑えていた。

 ピンチのときこそ笑えと、昔チアのコーチに口癖のように言われていたから。


「それは入交からの伝言でも聞いた。もういいよ」


 彼はそう言ってしばらく私を見つめ、それから顔を背けて肩を震わせた。


「そんなこの世の終わりみたいな顔しなくても」

「えっ」


 背けた横顔の口元が緩んでいるところを見ると、どうやら笑われているらしい。


「『もういい』って言ったのは、どうでもいいってことじゃないよ。俺は昔のことよりも、今のことの方が気になってるってこと」

「今……?」

「麻衣が今、俺のことをどう思ってるか、とかかな」

「え?」


 服屋さんの前で立ち止まったまま、向き合っていた。


「大学以降の麻衣のことはほとんど知らない。変わったことも、変わってないこともあると思う。それでも、こうやって話してると、やっぱり俺は麻衣のことが好きだって思う」


 たぶん私はマシンガンで豆を食らったハトみたいな顔をしていたと思う。

 その瞬間、ふわりと、オレンジの香りが鼻をくすぐった。




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