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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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 その日の夕方、彼との待ち合わせ場所は昼間に遭遇したばかりのショッピングモールだった。


「お、昼間と服が違う」


 会うなり、彼は言った。

 ツッコまれるだろうと覚悟はしていたものの、いざとなるとやっぱり恥ずかしくて、両手で顔を覆った。耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかった。


「昼間のあれは誰にも会わないだろうと踏んで選んだ楽チンな服で……すっぴんだったし……できればあの姿は、記憶から消去していただけたら」


 手の中でもごもごと言うと、彼が笑う気配があった。


「俺は麻衣のすっぴんの方が見慣れてるし、高校の体操着姿も知ってるから、何とも思わないけどな。で? こっちはデート仕様?」

「……お出かけ仕様です」

「そこ、敢えて言い直すんだ。いいけど」


 可笑しそうに笑ってから、彼はゆっくりと歩き出す。

 アイスクリンみたいな生成りのシフォンの半袖ブラウスにコーラルカラーの膝丈のスカート、華奢なゴールドのネックレス、シンプルなパンプス。たったこれだけの無難なコーディネートに辿りつくのに、弟と帰宅してからほとんどすべての時間をつぎ込んだなんて、言えるはずもない。

 ついでに言うと、化粧にも普段の三倍くらいの時間がかかった。ケバくなりすぎてしまい、一旦落として最初からやり直したせいだった。

 でも実のところ、一番迷ったのは下着のチョイスだった。

 お祭りの翌日に彼からのメールを受け取ってから、悩みに悩んだ末に会うことにした。それを涼子に話したら反対されるのではと思ったけれど、反応は意外にも「そっか。楽しめるといいね」というあっさりとしたものだった。代わりに、昨晩短いメールが届いた。


〈明日はタンスの中で一番ダサくて誰にも見せられない下着で行くように〉


 あの夜と同じようなことにならないように、と心配してくれているのだろう。ありがたい助言に従って服の下にはベージュの下着を身に着けている。上下バラバラで、パンツに至っては綿百パーセントのハイウエスト。綿パンツの出所は母だ。大昔に買った高価な下着を未使用のままタンスの肥やしにしていたらサイズが合わなくなったから、と贈られた。何となく捨てるのも忍びなくて取っておいたものの、おそらく一生穿かないだろうと思っていたので、出番ができてよかったのかもしれない。


「ここも、だいぶ変わったよな」


 パンツに思いを馳せていたら、彼が言った。

 彼と一緒にプリクラを撮ったり洋服を買いに来たりしていたころとはもう随分と違っている。テナントも、各店舗のレイアウトも。それに、私が立ち寄る店も。


「昔はどこに何の店があるか完全に把握してたのに。もう全然わかんないな」


 そう言って通路の両側に並ぶ店舗を見渡す。


「サーティーワンはあの頃と同じ場所にあるよ」

「そうなんだ。後で食おうかな」

「痩せるためにプロテイン飲むって言ってなかった?」

「痛いところを突いてくるな」


 彼はそう言って笑いながらポケットに軽く手を入れて肩をすくめた。

 白いTシャツにチノパン。黒の長そでカーディガンを羽織った姿は、アンダーシャツの彼とは全然違う。だけど細かな仕草に昔の彼を見つけて、嬉しいような、寂しいような、懐かしいような、不思議な気持ちになる。


「高校時代は体作りのために節制してて全然食べなかったもんね」

「その横で麻衣は三段重ねのやつ食ってたよな」


 彼は遠い目をする。


「そんなひどいことしたっけ?」

「したんだよ。しかも一回じゃないぞ。拷問かと思った」

「わたしも一応体重とか気にしてたはずなんだけどなぁ」

「麻衣は太らない体質だろ」

「まぁ、あの頃はね。今はそうもいかないけど」


 あまり太らない代わりに身長も伸びなかった。

 実母は今の母ほど長身ではないにしろ平均身長くらいはあったようだから、私が小さいのは幼いころに栄養が不足していたせいだろうと医師から言われていた。


「麻衣はクッキーアンドクリームが好きだったよな」

「うん」

「チョコミントが嫌いで」

「今でも苦手だよ。歯磨き粉の味がするんだもん」

「そういや大学時代にヨーロッパ行ったとき、歯磨き粉が入ったチョコ食ったよ」

「何それ」

「ミント味の白いフィリングが入ったチョコでさ。めっちゃ高級なやつだったらしいんだけど、歯磨き粉とチョコ食ってる気しかしなかった。それで、麻衣の言ってたことがちょっとわかった」

「でしょう?」

「まぁ、俺はアイスのチョコミントは好きだけどね」


 上辺だけをなぞるような、平坦で穏やかな会話が続いていく。

 昔なじみの気楽さと、久しぶりの気まずさと、この間の出来事のせいで生まれた妙な緊張が体の中をぐるぐるしている。

 それから二十分ほど歩きながら話した頃だっただろうか。


「ちゃんと話をするなら個室のレストランがいいかなとも思ったんだけどな」


 彼が言った。


「二人きりで顔つき合わすより、歩きながらの方が話しやすい気がして」

「そっか、だからここだったんだね」


 学校帰りにここに寄って、何をするでもなくただ歩きながら色んな話をした。

 友達のこと、勉強のこと、進路のこと。

 他愛もない話題ばかりだったと思うのに、不思議なほど話は尽きなかった。


「座ってゆっくり話す方がよければ、レストランに入ってもいいけど」

「ううん。ありがとう。こっちの方がいい。ブラブラ歩きながら話そう」


 ショッピングモールを歩き回っていれば目についたものが話題の種になる。だから沈黙で気まずい思いをせずに済むし、レストランのように周囲の目を気にする必要もなく、気が楽だ。

 雑貨屋さんの店頭に並んでいたウサギの置物がふと目につき、持ち上げて裏側についている値札を確認した。


「あの日のことだけど。ごめん、まじで」


 彼はそう言ったきり息を止めているようだった。

 小さくて可愛いウサギは全然可愛くないお値段だったから、そっと元の場所に戻した。


「あれは、私が『いいよ』って言ったんだもん。謝るようなことじゃないよ。むしろ、黙って帰ってごめんね。びっくりしたでしょ」


 彼の目を見ることができなかった。向き合って話をするんじゃなくてよかったと、心底思った。


「目が覚めたとき、『終わった』って思った」

「……何が?」

「俺の長い長い……未練が、かな」


 大きな手が、たぶん欲しくもない雑貨を持ち上げて弄ぶ。私はその大きな手をじっと見つめていた。


「麻衣のこと、ずっと忘れられなかったんだ」


 どくん、と体のどこかで脈が跳ねる。

 入交くんも同じようなことを言っていたけど、本人の口から聞くのは違う意味を持っていた。


「あの日、麻衣に『変わったよな』って言ったのは、たぶん俺がそう信じたかったからだ。俺の知ってる麻衣とは違う、俺が好きだった麻衣はもういないって、ずっと自分に言い聞かせてきたから」


 そう言ってこっちを向いた彼の表情は真剣だった。




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