11
「ねぇちゃん、まだー?」
玄関から聞こえてきた弟の催促に、「顔洗って歯磨いたら出れるー」と返事をしながら、階段を駆け下りた。
「晃平、休みなのに練習着?」
高速で左右に振れるワイパーの向こう側に目をこらしながら、助手席にいる弟に問いかけた。
ボトボトと、車の屋根を叩く雨の音がうるさい。
「私服持ってないからな」
茶色い弟は紺色のノースリーブのアンダーシャツの首元を引っ張りながら言った。
「平日は制服で、休日はほとんど部活だろ? 私服着る機会なんてねぇもん」
「えっ……」
弟が私服を持っていないという事実ではなく、その発言が呼び起こした記憶のせいで出た「えっ」だった。
――ダサい服でごめん。首が伸びたTシャツ着て家出ようとしたら、ばあちゃんに「みっともない」って止められて。持ってる中で一番ボロくない服、これだったんだよ。もう部活引退してんだからそろそろ普通の服買わないとな。
そう言ってアンダーシャツで笑った彼と、まさかこのタイミングで遭遇することになろうとは。
「上澤?」
背後からの声に振り返ると彼は少し離れた場所に立っていて、私と弟を交互に見ていた。
彼が弟と私のどちらに気づいて声を掛けたのかはわからなかった。
「あっ上村コーチ! こんっちは!」
棚の前にしゃがみ込んで熱心に商品を見つめていた弟は、途端にシャキッとして彼に駆け寄り、頭を下げる。目下たけのこ並の成長期を迎えている弟は、長身の彼と並んでもそれほど差はなかった。
「ういっす」
「練習休みになったんでグローブの紐買いに来たんす」
「皆考えることは一緒だなぁ。さっき新堂にも会ったよ」
「あ、まじっすか?」
「うん」
大型のスポーツショップといえばこの場所か、さらに車で三十分ほど走ったところのロードサイド店舗しかない。だからって何も、同じ日にスポーツショップに寄り集まらなくてもいいものを。
「コーチも買い物っすか?」
「俺はグラブのオイル見に来た。ついでに最近ちょっと緩んできた体を引き締めようと思ってプロテインをな」
「えっ全然緩んでないっすよ」
「脱ぐと腹がな」
そう言ってから、彼は弟の後方二メートルほどの位置に立つ私のほうに視線を寄越した。
私はあわてて目を逸らした。「脱ぐと」なんていうタイミングで、こっちを見ないでほしい。
弟が振り返って私の姿を確認し、彼に向き直る。
「あ、アレねえちゃんです。高校時代の同級生なんすよね?」
「うん」
そう言ってから、彼は苦笑いした。
「上澤、だもんな。名字同じなのに全然気づかなかった。あんまり似てないんだな」
「やっぱ似てないっすか?」
「うん、顔もだし、それに体格も」
いたずら坊主みたいにニヤッと笑った彼は、昔のように私の身長をからかおうとしただけだったのかもしれない。
でも、私はうまく笑えなかった。
隣の棚に並べられたグローブから漂ってくる革の匂いが鼻の奥をつんと突く。
長身な両親に似て弟は二人とも背が高い。
一家でちんちくりんは私だけだ。
「もうちょっと姉ちゃんに似てれば俺もモテたかもしんないのになぁ」
ぼやく弟の背を見つめ、私は何も言わずに彼に軽い会釈だけをした。
夕方から会う約束をしている人と昼に会ってしまうのも何だか妙な気分だ。きっと彼も同じだったのだろう。
「雨すごいし、気を付けて帰れよ」
弟に対するものなのか私に対するものなのかわからない言葉を残して彼はその場を立ち去った。
買い物を済ませて外に出ると、雨足は幾分弱まっていた。
パタパタ、サアサア。
雨は決して好きじゃないけど、雨の日に車が走る音は好きだ。サァァアッという音と水しぶきとともに駆け抜けていく。
たぶん騒がしいのが好きなのだ。静寂が何よりも嫌いだから。幼い頃に高熱を出して必ず見ていたのは、人の輪切りでもカマキリでもなく、音の無い暗闇でひとり膝を抱えて座っている夢だった。
来るときよりもゆっくりとしたワイパーの動きを見つめながら信号待ちをしていたら、弟がぼそりと言った。
「ねえちゃん、上村コーチと昔なんかあったの?」
「……なんで?」
「コーチの表情、なんか意味ありげだった気がしたから」
「……そうかな」
古い友人で、一度は付き合ったことがあるほど親しかった人なのに全然気づかなかった。
たぶんそれは、彼が変わったかどうかとは無関係なのだと思う。
昨日の仕事でも痛感させられたことだ。どうやら私は人の表情から感情を読み取る能力をどこかに置き忘れてきたらしい。これまで香りに頼りすぎて、他の要素から人の感情を読み取る術を学んでこなかったせいだろう。
それに幼い頃、笑った次の瞬間に突然怒り出すような人と長い時間を過ごしたから。表情なんてアテにはならないと、いつかの時点で諦めてしまっていた。
『あれだけお客様が怒ってらっしゃるときは、早めに上を呼ぶようにね』
『はい、すみません。以後気をつけます』
先輩には頭を下げたけど、先輩の言う『あれだけ』がどれのことが、実のところさっぱりわからなかった。ただ、声を荒らげて怒り出すよりも随分と手前のことなのだろうということだけはわかった。
「ねぇちゃん、アイスクリン食いたい」
「えっそれならさっきのショッピングモールの食品売り場で買えばよかったのに」
「今食いたくなった」
「しょうがないなぁ。スーパー寄る?」
「うん」
帰り道にあるスーパーに車を止め、アイスクリンを買った。
駐車場に停めた車の中で、ふたりで食べた。
こうして一緒にアイスを食べるあたり、仲は悪い方ではない。たぶん弟に嫌われてはいないのだろうとも思う。でも、イマイチよくわからなかった。
弟から香るのはアイスクリンだけ。生まれたときからこの弟が纏っていた甘い香りは、一体どこへ消えてしまったのか。
「ねぇちゃん、機嫌悪いの?」
「へ?」
「黙ってるから」
「考え事してただけだよ」
「そっか」
「アイスクリン、久しぶりに食べたなぁと思って」
「やっぱうまいよね」
「うん」
甘くて優しい味がする。普通のアイスよりも少し薄く、食感はシャーベットに近い。生成りの色も卵の風味も、どことなく懐かしい。
「なぁ、どしたの? ねぇちゃん」
窓の外に目をやってドーム状のアイスクリンをベロリと舐めながら、弟が言った。
「んー?」
私もアイスクリンを口に含んだままで答える。
「最近なんかおかしくね? ボーッとしてること多い」
「そうかな」
「うん。下がり眉でこっちの顔覗き込んできたりさ。なんか、捨て犬みたいに見えるときある」
捨て犬、か。
その通りかもしれない。
「犬種は?」
「食いつくの、そこなの?」
「捨てられ方に食いついてもしょうがないからね」
「いや別にそういうことを言ってるわけじゃないけど。犬種ね……うーん……チワプー、かな」
「また可愛いのきたね」
正直、チワプーの顔は全然思い浮かばなかった。ただ、チワワとトイプードルを掛け合わせた犬なのだろうということは名前から察した。土佐犬じゃなかっただけで大満足だ。
「まぁ、なんせアイスクリンおごってもらってるからね。ちょっとくらいゴマすっとかないと」
「グローブの紐代もお忘れなく」
「あ、そうそう。あざっす」
「買い物行くのに財布持ってないとか、ほんといい度胸してるよ」
「ねぇちゃんいるからいいかと思って」
「ドライバー兼お財布ですか」
「いや別にそこまでは」
「いいよ、晃平が働き始めたらこれまでのお返しに何かすごい高いもの買ってもらうから」
そう言ってにっこり笑うと、弟はコーンをバリバリと噛みながら言った。
「だいぶ先だぞ」
「早くしてよ」
「いや、無理だろ」
どろりと溶けたアイスクリンが指を伝う。
それを舐めとりながら、脳裏に浮かぶ声に必死で蓋をしていた。
『あんたのことなんて、大っ嫌いだったんだからさ』
やっと見つけた居場所を失いたくない。
ひとりぼっちになりたくない。
願いはいつも、恐怖と背中合わせだった。




