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甘い香りは終わりの始まり(旧題:芳香罪)  作者: 奏多悠香


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『邪魔者がいなくなってくれて、せいせいするよ。あんたのことなんて、大っ嫌いだったんだからさ』


 ――やめて、やめてよ……!


 耳を塞いで叫んだら、ゆさゆさと体を揺すられた。


「……ちゃん、ねぇちゃん!」


 目を開けると、焼きおにぎりが私の顔を覗き込んでいた。猛暑の中、連日の部活でこんがり具合は日に日に増している。そのおにぎりの向こう側にある天井が見慣れた自分の部屋のものであることに安堵して、ひとつ深呼吸をした。


「ねえちゃん、めっちゃうなされてたぞ。布団の上でバタフライしてんのかと思った」


 どれほどダイナミックなうなされ方をしていたのか少し気になったものの、深く掘り下げる元気は残っていなかった。枕に顔を押し付け、もごもごと言った。


「あー……なんか怖い夢みてた気がする……」

「怖い夢って。子どもかよ」


 のろのろと上体を起こしてベッドの縁に座り、いつの間にか蹴り落としたらしいタオルケットを持ち上げてベッドに乗せる。


「夢に大人も子どもも関係ないでしょ。こないだなんて、巨大なカマキリに襲われたよ」

「ねぇちゃん、怖い夢の程度……低くね」

「私より大きいカマキリだよ? 超怖いよ。あの三角形の顔とカマが間近に迫ったところを想像してごらん。人型の死神よりよっぽど怖いから」


 ぶる、と肩を抱くと、弟は生意気にフッと笑った。


「怖くねぇよ」

「む。じゃあ、あんたの怖い夢ってどんなの」

「小さいころ熱出すと必ず見てた、めっちゃスプラッタなやつ。ヒトが輪切り……」

「あ、もうイイです」


 弟は肩をすくめ、ベッドサイドの小さなテーブルの上に載っていたリモコンを手に取った。ピッという小さな電子音に続き、涼しい風がすーっと吹いてくる。


「こんな暑い部屋でクーラーもつけずに寝てるから変な夢みるんじゃん?」

「そうかも」

「あと、寝すぎなんだよ。もう十一時だぞ」

「疲れてたんだもん」


 寝る前よりも今の方が疲れているような気がする。

 不快な夢を見た記憶はあるけど、夢の内容は徐々に徐々に薄れていく。うすらぼんやりとして掴みどころがなくて、ただモヤモヤとして不快感だけが体を包む。

 代わりに覚醒し始めた耳が、窓に叩きつけるようなボツボツという重い音を拾い上げた。


「……雨?」

「そう。豪雨」

「そっか。それで、焼きおにぎりが家に……」

「おにぎり? 寝ぼけてんの?」

「いや、部活、ないんだなと思って」

「そうだよ。久々の休み。そんでさ、お願いがあるんだけど」


 リモコンをベッドのマットレスの上にポンと投げながら、弟は言った。

 私はベッドから立ち上がり、重い頭をぶるぶると振る。やけに疲れているのは、寝すぎのせいか。それとも昨日先輩にこっぴどく叱られたせいか。


「ショッピングモール連れてってくんない?」


 立ち上がっても、弟にはまだ見下ろされている。頼みごとをされているはずなのに見下ろされるのは、なんだか癪だ。


「ショッピングモール? なんで?」

「スポーツショップに用事あってさ」

「……えー……やだ」

「なんで?」

「今日夕方から用事があって出かけるから、あわただしくなっちゃう。お父さんに頼んでよ」

「言ってみたけど、自分でチャリで行けっていうんだよ。片道五十分、この雨だぞ? 死ぬだろ」


 最近は東京の方でも「ゲリラ豪雨」と呼ばれるすごい雨が降ったりするようだけど、この辺りでは昔から打ちつけるような雨がよく降る。幼いころ傘を持たずに夕立に遭い、あまりの水の勢いに息苦しくなったこともあるくらいだ。雨の音はポツポツ、シトシトではなく、バタバタ、ザアザア。本当にバケツをひっくり返したんじゃないかってくらいの勢いで降り、道路の上を水が這う。


「晴れてる日にチャリで行けばいいじゃん。いい筋トレになるよ」


 今日はちょっと疲れているし、こんな雨の日の運転は殊更に気を遣う。ショッピングモールまでは車で二、三十分ほどだけど、週末で雨とくれば間違いなく渋滞している。行って、戻って、夕方また出かけるのは正直かなり億劫だった。


「それか学校帰りに行けば? 学校からなら近いでしょ」


 そう言って大きな欠伸をしてから弟を見上げたら、ムッとした顔をしていた。


「なんだよ。ケチくさ」


 弟の口から飛び出した言葉に、ひるんだ。

 目を逸らして唇を突き出した表情は末っ子お得意の「拗ねたフリ」にも見えるし、本当に機嫌を損ねているようでもある。


「晴れてる日は大体部活あるし、グローブの紐切れそうでピンチなのに」


 ため息交じりの言葉からは、弟の感情がまるで見えなかった。

 背中を、暑さのせいではない汗が静かに流れ落ちる。

 そして汗に逆行するように、冷たい何かが背を這い登った。


『あんたのことなんて、大っ嫌い――』


 薄れきっていた夢のひとかけらが唐突に耳の奥で響く。

 ごくん、耳からそれを追い出すように唾を飲んだ。


「……いいよ」

「あ、まじ? やった。さんきゅ」


 ころりと笑顔になったところをみると、本気で怒ったわけではなかったのか。

 ふぅ、と静かに息を吐き出すと、耳の奥で響いていた鼓動が少しずつおさまっていく。


「ねぇちゃん、あとどんくらいで出れる?」

「十五分、くらいかな」

「りょうかーい」


 弟は嬉しそうに部屋を出て行った。

 ふう、ともうひとつため息を落とし、パジャマ替わりのTシャツを脱ぎ捨てた。寝ている間に相当な量の汗をかいたらしく、Tシャツはじっとりと湿っている。首の後ろをぐりぐりと強く手で揉んでみても、肩と頭のずしりとした重さはとれそうになかった。疲れの原因は悪夢だけではない。


『上澤さん、この間も言ったでしょう。クレームは初期対応を間違えると大きくなるって』


 昨日の先輩の言葉が蘇った。

 私はただ、頭を垂れて謝るしかなかった。

 昨日は民間企業の給料日で、店舗が混雑する日だった。暑さと長い待ち時間のせいでお客様のイライラも最高潮だったのだろう。「窓口での預金の払い戻しには印鑑が必要です。カードと通帳をお持ちでしたらATMへどうぞ」という型通りの説明をしている間に初老の男性の怒りが少しずつ膨らんでいることに、私は気づけなかった。そして先輩がフォローに入ってくれたときにはすでに、男性の怒りは頂点に達していた。結果、最終的には「支店長を出せ」と言い出すほどの大事になってしまったのだ。


『上澤さんの説明が間違ってたわけじゃない。でも、もう少しお客様の感情に寄り添うような対応をすべきだったと思う。ATMにご案内して操作をお手伝いするとか。忙しかったのはわかるけど、それはこちらの都合で、お客様には関係のないことだから。あのお客様、並んでらっしゃる途中から相当イライラした様子だったでしょう?』


 ブラジャーのホックを体の前で止め、くるくると後ろに回してから前かがみになった。脇の肉を寄せてカップの中に押し込み、サイドを整えてキャミソールを着る。その上から黄色い半袖のワンピースをかぶり、鏡を見た。

 すっぴんの顔は疲れていて、いつもよりだいぶ老けて見える。


 ――感情に寄り添う、か。


 鏡の中の自分は不思議な表情をしていた。

 眉根が少し寄っているけど、怒っているのとは少し違う。額にできたまっすぐの皺からはどこか困っているようにも見える。それに瞼がいつもより腫れぼったいせいで二重の幅が余計に広がって、普段よりも眠そうだ。

 眠いとか、叱られて凹んでいるとか、夢の内容を引きずっているとか、そういう感情が全部寄り集まるとこういう表情になる。それはわかっても、その逆は――こういう顔を見て、逆算して複雑に絡まる感情を読み解くことは――とても難しい。

 吐き出したため息が思ったよりも大きくて、鏡がかすかに曇った。



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