閑話 「灰の勇者」
その眩さは、まるで聖なる光が己という闇を焼き尽くそうとしているかのように思えた。
「……地上、か」
目を細めて太陽に手を翳す青年は、何の感情も含めずに呟く。そうして、足を引きずるように歩き出した。
(とりあえず……傷を、癒せる場所は)
青年は満身創痍だった。否。そんな言葉で形容できるような傷ではない。
体中にあざを残し、右腕を失って、腹部には今も血が溢れ出している。ボサボサに伸びた髪は灰色に染まっていて、片方の瞳は光を失くしていた。
今ここに立っていることに違和感を覚えるほどの重傷を負っている青年は、己の奥底に巣食う昏き情念に従ってひたすらに歩みを進める。
新城蓮。
かつて、日本に住んでいた男だった。
(……ここも『魔界』か)
右腕を失っているせいか、時折バランスを崩しながら歩く新城の真後ろには、異常なまでに濃密な魔力で埋め尽くされた空間が広がっていた。
迷宮『奈落』。
魔大陸の南部に広がる『魔界』――その最奥に位置している、世界最難関と呼ばれた最凶の迷宮だった。
世界に名を轟かせる超級冒険者の一人が迷宮『奈落』への挑戦を決意したものの、『魔界』に住む凶悪かつ狡猾な魔物の脅威に敗北して、迷宮に辿り着くことすらできなかったことは有名な話だ。
新城は『鑑定』で周囲の情報収集をしながら、激痛を乗り越えて足を動かし続ける。
魔大陸は悪魔族が住む北部と『魔界』が広がる南部で分かれていて、南部はたとえ戦闘力に長ける悪魔族ですら寄りつくことは決してない。
その領域に踏み込んだが最後、恐怖する間もなく死ぬと云われているからだ。
新城はそんな伝説を知らない。
彼はもともと異世界の人間だ。
その上、転移先が迷宮『奈落』だった新城は、脱出を成し遂げた今日までひたすらに魔物と戦い続けてきた。
想像を絶するほど、ひたすらに。
「…………」
新城が『白い空間』から異世界に転移した際、迷宮『奈落』に落ちたのはまったくの偶然だった。
『奈落』はその名が示す通り奈落の底へ続く峡谷で、迷宮内に入ること容易いが、出ることが至難だ。
まさに、地獄の釜口である。
新城はそのことを知らずして、世界最悪の地に転がり落ち、屈強な魔物共に襲われたのだ。
『奈落』の地面に足をつけた二秒後に右腕が消し飛ばされた記憶は、今も脳裏に鮮烈に刻みつけられている。
恐怖で精神を歪めながら、泥の中を駆けずるようにして逃げ回った。
生き残れた理由は奇跡だった。
あるいは、"灰の勇者"であるが故のステータス補正なのかもしれないと一瞬考えたが、レベルオーバーですら話にならない『魔界』の魔物に対してその程度の誤差はまるで意味を為さない。
新城が召喚師の天職を持っていたことは、奇跡以外の何物でもなかった。
一体だけでも魔物の使役に成功すれば、逃げ出すぐらいは何とかできるようになったのだから。
恐怖を重ねるうちに慣れて、段々と戦闘を繰り返した。
新城は召喚師の特性を活かして、一戦ずつ、逃げて、逃げて、逃げて。
稀に倒すことができた魔物を使役しながら、戦って。
そうしていつの間にか、気づいたときには迷宮の魔物とギリギリ戦えるようになっていた。
新城は精神を擦り減らしながら、扱える魔物を増やして、脱出する為にひたすらに戦い続けた。
何度死のうと思ったか分からない。
どれほどの涙を流したのかもう覚えていない。かつての日本での、騒がしくも楽しかった日々の記憶は、襲い来る魔物の恐怖に埋め尽くされた。
何度も打ちのめされて、泣いて、激痛を乗り越えて、慟哭を上げ、それでも前に進み続けられた理由は、ただひとつの執念の成せる業だ。
昏き情念が導く復讐の為だ。
新城は挫けそうになる度に憎悪の念を膨らませる。精神的にも死んだも同然だったけれど、その妄執だけがギリギリのラインで崩壊を防いでいた。
暗い情念の対象は、新城を異世界に連れ込んだ張本人。騒がしくも幸せだった生活から、地獄の底に叩き込んだ者。
――ただ、どす黒い感情だけが心の中で渦を巻いていた。
「……待って、いろ」
行き過ぎた憎悪は言葉から感情をかき消した。空虚なままに筆舌し難い感情が流れ落ちる。
「……必ず、殺す」
喉は嗄れていた。
血反吐ばかり出していた弊害なのだろうか。そもそも、これだけの傷を負いながら、まだ生きていられることが不思議で仕方がない。
だけど。
まだ、死ぬわけにはいかない。
あの女神を、確実に殺すまでは。
「――くそったれが」
それだけが新城の支えだった。
絶対に殺す。死ぬまで痛めつける。本当の絶望をその身に刻みつける。殴って蹴って抉って斬り刻んで爪を剥いで骨を一本ずつ折る。目を抉る。掻き出す。顔を削る。歯を砕いて肉を削ぎ落とす。尊厳を蹂躙する。その配下も、眷属も、何もかもを根絶やしにする。死ね。殺してやる。どんな手を使ってでも、絶対に殺す。だから死ねない。どんなに辛くても倒れない。絶対に。
たとえこの世界を犠牲にしようとも、新城はあの女神を殺すと決めた。他のモノなんて何もかもがどうでもいい。
そう、新城蓮は誓ったのだ。
迷宮『奈落』の最奥で、為す術もなく魔物に蹂躙されていたとき。
神殺しがどれだけ至難の業なのか何となく理解はしていながら。
それでも。
あの幸せな生活のすべてを奪い、地獄に叩き落としたあの女神を殺す、と。
他の願いなんて何もなかった。
あるいは、他のことを願う感情なんて、とうに擦り切れてしまった。
憎悪を越えた復讐の念だけが、新城の精神を支えているのだ。
「……あ?」
ギロリ、と。猛禽のような瞳が遠方の森に向けられた。
迷宮で鍛えられた異常なまでの危機察知能力が顕在化する。
ここは『魔界』だ。
『奈落』は抜け出したとはいえ、超級冒険者ですら逃げ出したような異界の地だ。決して油断はできない。
「……魔物か」
当然のように、桁の違うステータスを持つ魔物共がわらわらと押し寄せてきた。対する新城は召喚師として魔物を使役して戦う為に、手持ちの魔物の選択を始める。
雑魚とはいえ『魔界』のレベルだ。
試しに、最大戦力で様子を見ることにしようか。そう判断した新城は面倒くさそうに息を吐きながら、
「……『四神降臨』――スザク」
光の収斂と共に現出した巨鳥が、何の前兆もなく思い切り羽ばたく。
火の海が展開された。そう思う暇すら与えられずに、森が消えた。
「……加減が分からないな」
何もなくなった大地を、新城は一歩ずつ歩いていく。
偶然という落とし穴に呑まれたはずの不幸な青年は、神すら気づかぬうちに別の生物に生まれ変わっていた。
異世界の地に、化物に解き放たれた。
◆◆◆
「何してるんですか?」
ピレーヌ山脈での騒動から約二週間。
草薙竜吾は、念のため迷宮都市ローレンからそれなりの距離を取り、王都近郊の商業都市にやってきていた。
「ん? いや、ちょっとな……」
「何ですか? その歯切れの悪い感じは。もしかして早速浮気ですか? 私という者がありながら貴方はまったく」
「え!? いや、違え! そんなんじゃねえぞ!?」
「何でキョドってるんですか。気持ち悪いですよクサナギさん」
「……」
おそるおそる街に入ったが、指名手配などはされていないようだった。
一応、予想通りではある。
ライン王国の正史ではあの戦いは勇者と竜騎士隊が魔王を撃退した事件になっているので、『なかったことにされた』草薙や士道に対して懸賞金の名目が作れないのだ。
だから門番にちょっとした催眠をかけて、街にはすんなりと入れた。
「あ、あのクサナギさん? マジな方で落ち込まないでください! こんなのちょっとした戯れじゃないですかー」
「……お前のそれ、男を惑わせんだよ。ちゃんと自分の可愛さを自覚してんのか?」
「……え、あ、はい」
「どうした?」
「……クサナギさん。不意打ちは卑怯ですからねー」
「は? 何の話だ?」
ちなみに草薙と共に行動しているララは現在、魔族特有の紅い瞳を魔法で蒼く変えていて、服の中に悪魔の翼を収納している。
「……はぁ。もういいです。元英雄なんて大層なこと言うから女の子にも慣れてるんだろうなーとか思ってたのに、そのイメージ崩壊ってもんじゃないですからね?」
「実を言うと俺も英雄になりゃ女に慣れるモンだと思ってた。しかし、アレだな。なんつーか、そんなポジションに立っちまうと逆に寄ってくる女っていないもんだな」
「へえー。でもですよークサナギさん」
「あん?」
「私がいるじゃないですか」
「……………………そ、そうだな」
「あ、照れてる照れてる! クサナギさん可愛いー」
ララは悪魔族残党として身を隠しながら過ごてきただけあって、人族に擬態する術に長けているので、特に問題はなかった。
「というか、お前だけはどこでフラグを建てたのか謎すぎるんだが」
「そりゃーアレですよ。……あれ? 私はいったいクサナギさんの何処を好きになったんでしょうね?」
「俺が知るかよ……」
「ホントですねー。顔だけだったらキリサキさんとかの方がカッコよかったし」
「いや、ホラ、あいつと違って俺は背が高いから総合的に考えてイーブン? みたいな?」
「は? そんなわけないじゃないですかー。キリサキさんは女の子にもちゃんと気を使えますし、トーク力もある素敵な人ですからね」
「………………あっそ」
「あ、拗ねないでください! クサナギさんにも良いところはちゃんとありますって」
そんなこんなで草薙とララは持ち併せの金で宿で取り、傷が癒えるまでゆったりと休息していた。
ララの治癒魔法も、すべての傷を即効で治せるわけではないのだ。
「でもお前さっき良いところ出てこなかったじゃん……」
「やだなー。あんなの冗談に決まってるじゃないですかー」
「お前の冗談と本気の境目が俺にはわからんよ」
呆れたように言う草薙の前に座っているのは、薄桃色の髪にくりくりとした大きな瞳をした少女だ。お洒落な白いワンピースを着ていて、胸元の双丘は傾斜の激しい曲線を描いている。
「クサナギさんこそ、私に惚れちゃった理由は何ですかー?」
「いや別に、惚れたってわけじゃない……って言うと思ったろ?」
「えへへ、分かってますよー……って、あれれ?」
草薙は、小首を傾げて目を丸くするララを強引に抱き寄せた。
「えぇ!? あの、その、ク、クサナギさん、私まだ心の準備が……」
「なるほど。ようやく分かったぞ。さんざん振り回されてきたけどもう終わりだ。お前、押しに弱いな?」
「…………えっと、その」
ララは顔を真っ赤にしながら、ジト目で見上げてきた。
「…………ばか」
それを聴いた草薙はしばし真顔になって、直後に目を回して倒れた。
◆◆◆
夜の帳が下りて数時間が経過していた。ララが寝静まった頃、草薙は机の上にまとめた書類を整理していた。
「……やっぱ妙だな」
目を細めて呟く。
ここは王都近郊の商業都市だ。それなりに情報も集まってくる。
だから草薙は情報屋を辿って様々な情報を掴んでいたのだが、天使に関するもので少し妙な点があった。
(各地で目撃情報が多すぎる……)
本来、天使族とは神聖な存在として扱われている。草薙のいた百年前とは異なり、現代ではそれなりに姿を見せることもあるようだが、それにしたって目撃回数が多すぎる。
おそらくは、かなりの人数が『天界』から地上に降りてきている。
(だってのに……ピレーヌ山脈の戦いじゃかなり遅い到着だった。本来なら、魔王復活以上に大事な案件なんかねえだろうに)
つまり、答えは単純だった。
天使族にとって、龍魔王ウォルフが復活したとしても、成し遂げようとしている『何か』があるのだ。
(いったい、何を企ててやがる……?)
草薙はしばらく黙考していたが、答えが出るはずもなく。ふとため息を吐くと、自身の眠るベッドに戻ろうとした。
「あれ? まーたベッド間違えやがったのか」
呆れたように呟く。
草薙の視線の先では、綺麗な顔立ちをした少女が毛布にくるまり、あどけない寝顔をさらしていた。
そっと髪を撫でると、己のその行動に苦笑しながら別のベッドに身を預けた。
「護るべきモノが、増えちまったなぁ」
不思議と嫌な気分ではなかった。
元英雄はかつて失った誇り高き信念を再びその手に掴んだ。
もう二度と、離さぬように。




