5.あの日交わした約束
肌を刺すような、冷たい風が吹きすさぶ日だった――
「本当に……行くのか?」
「ええ」
艶やかな黒髪を風になびかせながら、ザラは力強くそう言った。
「レイシリアはとてもいい国よ。でも……やっぱり、いつまでもここに残るのはね」
そう口にしたザラは、そっと視線を下に落とした。ロキもその視線を追いかける。二人が視線を向けた先では、一歳になったばかりのサクラがザラの胸に抱かれてスースーと寝息をたてていた。
「二人だけで……大丈夫か?」
「何とかなるわ。あなたも、たまには遊びに来てくれるんでしょ?」
「も、もちろんだ!」
慌てて返事をするロキを見て、ザラの口もとがかすかに綻んだ。
「この子が物心ついたら、父親があなただと伝えるつもり。一緒に暮らしていない理由を聞かれたら、あなたの女癖があまりにも悪いから別居したってことにしておくわ。一番説得力があるし」
「ああ……俺はそれでかまわない」
「ごめんなさい……そのせいで、あなたはこの子からよくない感情を抱かれるかもしれない」
「そんなこと、気にしなくていい」
ふふ、と笑みをこぼしたザラが空を仰ぐ。
「なあ……やっぱり、俺も――」
「ダメよ。あなたは新しい魔王になったのよ? レイシリアを統治する役目があるでしょう? それに、私と交わしたあの約束も果たさなきゃいけないし」
「……ああ。そうだな」
「お願いね、ロキ。あなたならきっとできるわ」
ザラはにこりとほほ笑むと、踵を返しその場をあとにした。少しずつ小さくなるザラの背中が見えなくなるまで、ロキはその場に立ち尽くした。
「――キ。おーい、ロキ!」
遠くで呼ばれた気がして、ロキはハッと顔をあげた。
「おいおい、何をぼーっとしてんだよロキ」
ソファの向かいに座るガーランドとガイルが怪訝そうな目を向ける。隣に座っていたロベリアも、怪しみながらロキの顔を覗き込んだ。
「あ……すまん。ミーティング中だったな」
「もしかして、疲れてるんじゃないか?」
ロベリアがロキの顔を見ながら心配そうに口を開く。
「いや、大丈夫だ。ちょっと昔のことを思いだしていただけだ」
「ならいいんだが。てっきり、握手会の疲れが溜まってるんじゃないかと心配した」
隣でくつくつと笑うロベリアにロキがジト目を向けた。
「あー……今回の握手会はなかなかハードだったからなぁ……」
「ガハハ。特にロキはな。大量の握手券を持参してた貴族のお嬢ちゃんもいたしな」
ガーランドとガイルが愉快げに口を開く。
「まあ……ありがたい話さ。人間の貴族が率先して俺たちのファンであることを公言してくれたら、魔族やレイシリアへの印象がさらによくなる」
「そう、だな……ま、それはそうと、ライブの最終的なセトリ決めようぜ」
セトリとはセットリスト。すなわちライブで演奏する曲と順番だ。
「ああ。今回は新曲もいくつか入れようと思う。あと、それぞれのソロコーナーを設けるのもいいかもな」
魔鈴の世界ツアーはあらゆる国々から注目されている。ツアーの一発目となる公演で、失敗や不手際は許されない。ロキをはじめ、メンバー全員が真剣な面持ちでミーティングを進めていく。と、そこへ――
「ロキ様。失礼します」
ガチャっと部屋の扉を開いて入ってきたのは、ロキの側近であり魔鈴のマネージャーでもあるラーズ。
「おう。どうした?」
「は。先ほどグリムアド共和国からの使者が魔王城へ訪れまして……」
グリムアド共和国は、魔国レイシリアと十年来のつきあいがある友好国である。
「使者? 口上は?」
「資金援助の嘆願です」
「そうか……あそこは昨年、飢饉と疫病のダブルパンチ喰らったからな」
数ヶ月前、グリムアド共和国の首相と会談するため訪れたときに見た光景をロキは思いだした。
「来年あたりまでは大変だろうな。問題ないから、向こうが希望する金額の援助を進めてくれ」
「……レイシリアの国庫は大丈夫でしょうか? 数カ月前には精霊国バーニアへも多額の研究資金を提供していますが」
精霊国バーニアは、エルフの女王が治める国である。
「なぁに、問題はないさ。少なくなりゃまた俺が稼げる方法を考える」
「は。かしこまりました」
「いいか、ラーズ。助けを求めてきた国へは必ず手を差し伸べるんだ。特に、人間の国には」
ロキがラーズの目をまっすぐ見ながら言う。ラーズは力強く頷くと、頭を下げて部屋を出ていった。
「ロキ、本当に国庫は大丈夫なのか? ここ十数年は各国への賠償で相当資金が目減りしたと聞いていたが……」
腕組みをしたままのガーランドが心配そうに口を開いた。賠償の話は事実である。二十年近く前、二代目魔王アンガスが突如心変わりし、さまざまな国へ攻撃を開始した。
ロキがアンガスを討伐したものの、複数の国が被害を受け、魔国レイシリアは多額の賠償金を支払う羽目になったのだ。
「大丈夫だ。お前たちは心配しなくていい」
「……ロキがそう言うのなら大丈夫なんだろう。俺たちは一つ一つのステージを大切にするだけだ」
ロベリアの言葉に、ガーランドとガイルが静かに頷く。
「はぁ……それにしても、アンガスはどうしてあんなことしたんだろうな」
やれやれ、といった様子でガーランドが呟き、ガイルも「それな」と同意する。
「さあ、な。アンガスが何を考えていたのかは、俺にもわからんよ」
ロキがそっと目を伏せる。アンガスとロキは古くからの友人同士だった。
というより、ロキにガーランド、ロベリア、ガイル、ラーズ、そしてアンガスは、幼いころ魔王アキラに拾われ育てられた経緯がある。
つまり、魔鈴のメンバーにとってアンガスは家族のようなものだったのだ。
そんなアンガスが、親父と慕う初代魔王アキラや一番仲がよかったロキに何も言わず、突如各国と戦端を開いた。アンガスの行動はロキにとっても晴天の霹靂だったのだ。
「まあ……アンガスの話はやめよう。それより、ミーティングを進めるぞ」
――鏡の前に立ったサクラは、鏡に映る自分の姿を見てかすかに眉をひそめた。
んー……ちょっと派手かなぁ? もう少しおとなしめな感じのほうが……いや、でもライブだしな。
うーんうーん、と唸りつつ、いろいろな角度から自分の装いをチェックする。鏡の前から離れたサクラはクローゼットのなかを見やった。
クローゼットのハンガーパイプには、端から端までぎっしりとさまざまな衣類が吊るされている。すべて、ロキがサクラにプレゼントしたものだ。
服を買ってくれるのは嬉しいんだけど、これだけ多いとどれを着ようか迷っちゃうよ。それに、ロキの好みってかなり偏ってるし……。体のラインがくっきり出るやつとか、めちゃくちゃスカートが短いやつとか……。
手を伸ばして別の服を手にとる。何カ月か前にプレゼントしてもらった、花柄模様の膝丈ワンピース。
これ、すごく好きなんだけど、ちょっと子どもっぽいかなぁ……ん?
視界の端に映りこんだ服へと手を伸ばした。これも、数カ月前に買ってもらった真っ赤なワンピースドレス。
これはこれで派手すぎる気がする……でも、たしか赤ってママが一番好きな色だったよね。
生前、ザラが赤い服やアクセサリーを好んでいたのを思いだし、サクラの頬がかすかに緩んだ。
「うん。これでいいや」
サクラは真っ赤なワンピースドレスを大事そうに胸へ抱えると、再び鏡の前へ移動し体にあわせた。
うん、少し派手だけど、ロックバンドのライブなんだしいいよね。ステージの上からもよく見えそうだし。や、別に見つけてほしいわけじゃないけど。
とりあえずライブに着ていく服も決まり、安心したサクラはお風呂に入るため軽い足取りで浴室へと向かった。




