◇糧召喚? 後編
――コンコンコン。
歌い終わったのを見計らったように扉が叩かれ、那由はそちらに視線を向けた。訪問者らしい。
ローディハイのセクハラ紛いの発言に対する怒りはいまだ鎮まらなかったが、那由はなんとか気を落ち着かせた。
何も関係がない第三者に、不機嫌な顔を見せるのは申し訳がない。それに、この程度のことで憤懣を溜め込んでいては、ローディハイの側になどいられないのだ。那由自身は別に側にいたいとは思わないのだが、今のところそうせざるを得ないので仕方がない。
「入れ」
那由が大きく息を吐くのを愉快げに眺めたまま、ローディハイは扉の外へ入室の許可を出した。
一拍置いて、ゆっくりと重厚な扉が開かれる。奥から現れたのは濃紺の髪に同色の瞳をした、柔和な雰囲気を纏ったまだ年若い執事であった。
「失礼致します。ナユ様のお食事をお持ちしました」
声までも柔らかな執事が頭を下げると、背で一纏めにされている艶髪がさらりと流れた。
清潔感あるオフホワイトのスーツに身を包み、気品溢れる所作で礼を取る様は良家の子息のように洗練されている。今は下げられているため見えないが、優しげに弧を描く眉や高すぎない鼻梁、男性にしては少し厚みのある唇、何より晴れ渡る夜空のような濃紺の瞳が美しく、世の女性の注目を一身に集めるだろう容貌をしているのだ。
しかし那由はこの年若く美しい執事が良家の子息などでは決してないことを知っていた。
初めて会った当初はこの執事――クウィデアには色々と騙された那由だが、今ではローディハイなどよりずっと頼りにしている。纏う雰囲気を裏切らず、ローディハイに仕えているとは信じ難いほど穏やかであり優しくもあるクウィデアが、那由はとても好きだった。
(あ、クーイ、ありがとう)
那由が礼を言うとクウィデアが頭を上げ、視線が合った那由に向かいふわりと微笑んだ。その穏やかな笑顔に和まされつつ、室内へと進むすらりとした姿を追っていると、いつもと違うことに気づいて那由は首を捻った。
(あれ?)
いつもであれば、クウィデアは室内に踏み込む前に扉の外の給仕カートを取りに行くのだが、今日はそれがないのだ。
クウィデアは数歩進むと、開いた扉の前を空けるようにして脇に控えた。
不思議に思った那由だが、その行動の理由は尋ねるまでもなく直ぐに判明した。
クウィデアが脇へ控えると同時に、扉の奥から金茶の髪をしたメイドが姿を現したのだ。クウィデアの代わりに給仕カートを押して入室して来たそのメイドは、俯き加減で頬をほんのりと桜色に染めている。
(メイドさん? ――珍しいね、クーイがメイドさんを連れて来るなんて)
普段、那由がローディハイと共に過ごしているときの食事の給仕は、執事であるクウィデアが一人で行なっている。二人分の食事を世話するのであれば一人では手が足りないだろうが、食事を摂るのは那由だけなので問題はない。
ローディハイは食事を摂らない。と言うよりも、ローディハイの食事は那由の歌がそれに当たり、物を口にすることはほとんどないのだ。酒は別のようだが、腹が空けば那由に歌えと命じればそれで済む。
那由にしてみれば奇怪なことではあったが、ローディハイは人ではなく、俗に“魔族”と呼ばれるような存在であるから当然なのかもしれない。
基本的に、魔族であるローディハイの食事といえば、人や魔族、あらゆる生き物の精気である。生きる源、あるいは生命活動の際に発散されるエネルギーと言ってもいい。摂取の仕方は様々だが、魔族であるローディハイはそうしたものを糧として生活していた。
しかしあるとき、その精気が那由の歌――声から摂取できることがわかった。しかもそれは今まで調達してきた中でも味わったことの無い程に極上ときて、以来ローディハイは那由の歌でのみ飢えを満たしている。
那由の声や歌はローディハイだけでなく、魔族と呼ばれるものには全てに有効なものだったが、一方である種の麻薬のような効果もあり、ローディハイほど力のある魔族でなければ耐えられないこともわかった。
入室して来たメイドが頬を染めていたのは、扉越しに聞こえてきた那由の歌声に中てられたからだろう。
だが彼女がその程度で済んだということは、メイドにしては珍しく彼女もそれなりに力のある魔族なのかもしれない。どのくらいの時間聞いていたかはわからないが、扉越しとはいえ那由の歌を耳にしたのが普通のメイドであれば、頬を染める程度では済まなかっただろう。
そうした理由があるからこそ那由は普段、歌どころか声を出して会話することも禁じられているし、自分でも進んで声を出そうと思わないのだ。
ローディハイ以外にも、那由の歌声に耐え極上の美酒のように味わうことの出来る者は居るにはいたが、狭量なローディハイが許可をしないため、余程のことが無い限り那由はローディハイのためだけにしか歌わない。そしてローディハイの食事はほぼ那由の歌で賄われているのだ。
ともかく、ローディハイが“人”の食事を摂らないということは、今このときの昼食の給仕にもクウィデアだけで事は足りるということだ。メイドは必要ないはずなのである。
しかし、そうであるならクウィデアが連れて来たメイドは一体。
那由が首を傾げていると、クウィデアの返答よりも先に何故かソファの方から冷やりとした空気が流れてきた。まるで絨毯が氷に変わってしまったかのように足元が寒くなる。
那由が慌てて確認すれば、今の今まで機嫌良さそうにしていたローディハイが片眉を跳ね上げていた。
盛大に不愉快、と表現しているそれに自然、那由の眉間にも皺が寄る。感情の起伏が激しすぎてついていけない。
(……どうしたのよ、ロード)
那由が眉を顰めて尋ねると、ローディハイはそれを無視し、クウィデアを睨めつけて言った。
「メイドだと? そんなものの入室は許可していない。――どういうことだ、クウィデア」
「ええ、只今連れて参りましたのは私の独断です。申し訳ありません。ですが、これはエンリケニアの指示でもありますので」
垂れ流す冷気と威圧感にクウィデアは緊張しながらも気丈に返す。
話の中心となっているメイドなどは顔面蒼白でカタカタと震えていて那由は同情したが、今那由がメイドを庇うように動けばローディハイの機嫌は更に悪い方へ傾くだろうことが容易に想像できたので、静かに見守るしかなかった。
「エンリケニアめ、勝手なことを」
クウィデアの言葉に出てきた名前に、ローディハイは苦々しい顔になった。
エンリケニアはローディハイの家令で、執事であるクウィデアの上司に当たる。
彼は今、ローディハイの名代で屋敷を空けているのだが、どうやら屋敷を出る前にクウィデアに何かの指示を出していたらしい。
エンリケニアはローディハイが唯一信頼している人物でもあり、随分と長い付き合いにもなるようで一方的に押さえつけることの出来ない貴重な人物でもある。
クウィデアがこの場でその名前を出したのも、そうすればローディハイが渋々ながらも話だけは聞くだろうと予想したからかもしれない。或いは、エンリケニアがそうしろと言ったのか。
とにかく、その名前が出たことで僅かながらローディハイの冷気が治まったのは事実だった。……不機嫌さは増したようではあったが。
「このメイドをナユ様の側付きにするように、とのことです」
(えっ――!?)
「なんだと!」
クウィデアの言葉に、ローディハイが声を荒げる。途端、鎮まっていたはずの冷気がぶり返し、ぶわりと空気に黒く重い何かが溢れ出した。
那由は嬉しさの滲んだ声をあっという間に飲み込む。メイドに向けていた視線をローディハイに戻すと、ローディハイの表情は不機嫌どころか苛立ちに燃え、美しい黄金色だった瞳には興奮により赤い光がちらつき始めていた。
(ロード!)
那由は慌てて声を上げるも、ローディハイには再び無視された。人の主張はとことん聞かない男だ。那由はムッとしたが、賢明にも空気を読んで押し黙った。代わりにクウィデアが硬い声で口を開く。
「――ローディハイ様、お怒りは御尤もですが、どうぞお聞き届けを。ナユ様に女性の側付きはやはり必要です。魔族ばかりのこの域で人であるナユ様が暮らし続けるならば尚のこと。この者は、魔族ではありますが、人の域で暮らしておりました。幸いなことに、もしも那由さまのお声を耳にしてもなんとか耐え得るだけの力も備えております」
「…………」
ローディハイは口を開かず、じっとクウィデアを睥睨している。
威圧し、それで折れれば良し、とでも考えているのかもしれない。現にクウィデアの首筋が薄っすらと汗ばんでいるようである。
しかしそれでも執事は、その柔らかい雰囲気とは裏腹に意思は固いようで、視線を落とし僅かに頭を垂れたまま微動だにしなかった。
重く圧し掛かる強大な力の気配と、衣服越しにも皮膚を突き刺すような冷気に、もはやメイドは立っていることがやっとで、それも給仕カートという支えが無ければ崩折れてしまいそうに震えている。
その姿があまりに可哀相で、何よりこの重苦しい空気の原因は本をただせば自身にあるので、那由は思い切って叫んだ。
「ロード!」
「……」
「……」
どこか陰惨だった空気に突如とろりとした甘さに似たものが加わって、そのアンバランスさにローディハイ含め全員が微妙な顔をした。
酒だと思って飲んだら激甘なジュースだった、というような気持ち悪そうな表情であったが、とりあえず注意を引けたのでいいだろう、と那由は今度はきちんと心の声で言葉を発する。
(ちょっとロード、落ち着いてよ。そんなに過敏にならなくても大丈夫だよ、たぶん)
那由は眉尻を下げて、橙に染まり掛けている瞳を見つめる。
ローディハイが、なにもただ気に入らないからという理由で那由にメイドを付けることに反対しているわけではないことを、那由は理解している。
那由がローディハイによってこの地に喚ばれて間もない頃、那由には専属のメイドが数人付けられたのだが、そのときに色々と思い出したくないようなことが起こったのだ。
ローディハイは優しい男などではないが、せっかく手に入れた面白い玩具であり極上の食糧でもある那由を傷つけられたことに、そのときは並みならぬ怒りを見せた。
再びメイドを付けるとなれば、また同じことが繰り返されるかもしれない。そう思うと、怒りが再燃するのだろう。
(自分の身の周りのことは自分で出来るし、そこまで困ったことがあるわけじゃないけど、でもやっぱり私も近くに女の子がいてくれたらと思うよ。ロードが私を元の世界に還してくれる、っていうなら話は別だけど。それに、エンリさんがオッケー出したんなら大丈夫なんじゃないの?)
主人の所有物に手を出されたことは、その所有物が“人”だったことで当初は勝手が分からなかった所為もあっただろうが、ローディハイの側近を務めるエンリケニアが同じ轍を踏むとも思えない。
ローディハイは那由の言葉を聞きながら、目を眇めてクウィデアを眺めている。
しかし怒りは多少治まったらしい。次に開いた口から聞こえた声の冷たさは、幾分和らいでいた。
「お前を還す気など皆無だな」
(……でしょうね)
ふんと鼻で嗤って言い切るとは、大概感じが悪い男だ。逆らえないのが口惜しい。
「クウィデア。そいつは人の域で暮らしていたと言ったな?」
「はい」
「ならば人に対する意識はどうだ。人を恨んでいるようなら逆効果だろう」
「確かに、魔族とは知らずとも異質さに周囲の人間からは倦厭されていたようですが―――」
本人を前にしての会話としては失礼極まりない内容が展開され始めたことに那由は嘆息しつつ、指先を真っ白にして給仕カートを掴んでいる金茶の髪のメイドに視線を向ける。
勝手にああでも無いこうでも無いと話している二人を放って、那由はメイドに声を掛けた。
(ね、顔を上げて。名前は何て?)
金茶のメイドは呼びかけに反応し、パッと視線を上げた。
潤んだ瞳はハッとするほど綺麗なエメラルド色だった。
胡桃のように円く大きなエメラルドの瞳が印象的なそのメイドは、結局無事、那由の専属メイドとなったが、この時怯えていた姿は何処へやら、その後ことあるごとにローディハイと火花を散らすこととなり、那由は頭痛の種を増やす結果となった。
了。
一応こちらはこれにて終了です。
未だに有耶無耶な部分があるんですが|(召喚の経緯とか執事に騙されたエピソードとか)、そちらはいつか連載版に出来るような機会があれば、また。




