◆おまけ 中編
長くなってしまったので切りました。
次話で終わります。
次話は早めに更新予定。
「あの、ありがとうございました、ラスティアードさん」
「――!」
毒の鱗粉をまき散らす蝶たちを適当に追い払うと、異界から来た少女は黒髪を揺らして俺に頭を下げた。
その小さな頭の天辺を眺めながら、俺は返事もせずに驚きに目を瞠った。
(――俺の名前、知っていたのか)
いや、おかしなことじゃないんだ。普通に考えれば。
ハルディオとつるんでいる関係上、彼女と話したことはあるし、自己紹介もしてある。だから彼女が俺の名前を知っていることは何らおかしくない。
ただ、人って知ったことを必ずしも憶えるわけじゃないだろ?
俺はそれを嫌というほど経験してきた。そして諦めた。
なにせ俺の名前は女性には憶えてもらえないことが多い。
最初から俺一人で接した女性はそうでもないが、ハルディオを介してや、もしくはあいつと行動しているときに知り合った場合、女性は大抵が俺の名前を憶えない。いや、憶えられない、と言った方が正しいか。
理由は簡単。ハルディオのお綺麗な顔に目が釘付けになり、耳はハルディオに関する情報を拾うために他の雑音の一切を遮断するからだ。
……つまり、俺に関する情報は雑音に分類されるってことだな。
ハルディオの美貌に一瞬で落ちた女性たちは、その場で知り得たあいつの情報を大事に持ち帰り、あいつのことばかり考えるようになるらしい。他のことが手につかないほど。
日がな一日、ハルディオについてのあれやこれやを妄想するのに忙しく、寝食を忘れる者もいるとかいないとか。
そんな、ハルディオのことで頭がいっぱい夢いっぱいの状態から脱するまで、長いときではふた月ほど掛かると言うんだから、恐れ入る。
ただ、この状態のときは案外と害にならないので、俺としてはそのまま夢の世界で虚像のハルディオときゃっきゃうふふしていてほしいものなのだが……、現実はそう甘くない。
彼女たちは現実世界へご帰還あそばすと、早速ハルディオの交友関係について調べ始める。こんなときばかり脅威の情報網を発揮するのだから、恋に溺れた女性は怖いものだ。
そして、徹底的に調べるうち、彼女たちはようやく俺という存在と名前を認識する。すでに初対面のご挨拶は済んでいるのに、だ。
そんなわけで、ハルディオを挟んで出会った女性には、初対面からそれなりに時間が経過した後でないと俺の名前を本当の意味で知ってもらえない、という歪んだ常識が既に俺の中で定着していた。
それなのに、少女とは自己紹介をしてからひと月足らず、既にしっかり名前を憶えてくれていたとは、異界の女性には何かハルディオ耐性でもついているのだろうか。
「……ラスティアードさん?」
「あ?」
ちょっとばかり感動し過ぎて、不安げに呼びかける少女にぞんざいな返事をしてしまった。こりゃまずい。
俺は慌てて言い繕った。
「あ、ああ、すまない、少しぼうっとしていた。
――さっきのことなら気にしないでくれ。ちょっとしたお節介だから。あと名前はラスでいい」
「お節介だなんて! ちょっと経験したことのない感じだったのでどうしていいかわからなくて。だから本当に助かりました。ありがとうございます、えっと、……ラ、ラスさん」
「……ああ」
はにかむように愛称を呼ばれて、俺は頬を掻く。なんだろう、このむず痒い感じは。
自分で愛称で呼ぶように言ったくせに、何か照れくさい。
えへへ、あはは、みたいな甘酸っぱい空気に項が痒くなった。
決して彼女が悪いわけじゃないんだが、従騎士になり立ての頃の青かった自分を思い出すので、大変に居た堪れない。
まいったな、と視線を彷徨わせていると、少女が不自然に片手を逆の手で覆っているのが見えた。
「まさか、怪我したのか?」
じっと見つめると、指の隙間から赤が覗いている。
眉を寄せると、少女は慌てたように首を振りながらその手を背中に隠した。
「い、いえ、怪我なんて大げさなものじゃないですっ。洗濯籠を落としてしまって、そのとき籠の網目に爪をちょっと引っ掻けただけで」
「…………」
そういえば、外廊下で立ち聞きしていたときに何か物が落ちる音がしていたな。その直前に、ご令嬢の一人が叫ぶような声も。
たぶん、腹立ちまぎれに洗濯籠を叩き落とされたんだろう。
「あの、本当に大丈夫なので、気にしないでください。ラスさん、どこかへ向かわれる途中だったんじゃあ……」
彼女は黙り込む俺にさらに言い募るが、俺には見えている。白いリネンに点々と散る鮮やかな赤が。
そりゃあ命に係わる怪我ではないだろうが、滴る程度には大した怪我なんだろう。下手をすると、爪が剥がれているんじゃないのか?
無言で足元に散乱するリネンを見る俺の視線に気づいたのか、少女も視線を落として、息を呑んだ。
「ああ、洗濯物が……! どうしよう」
そっちか。
いや、自分で大した怪我じゃないと言うのだから、怪我がひどいだろう証拠よりもリネンを汚したことを気にするのは当然なのか。
本人が平気だというものを俺が騒いでも仕方がないんだが、女の子が怪我をしているとわかっているのに放置するのも騎士の名折れだ。
俺は、がっくりと俯く少女に右手を差し出した。
「見せてみろ。消毒くらいはしないと膿んで悪化するかもしれないぞ」
「え、でも大丈――」
拒否しようとする言葉の途中で、差し出したままの手をくいくいと振ると、意図に気づいたのか少女は言葉を途切れさせ、困ったように眉尻を下げた。
しばらく俺の手と顔を行ったり来たり眺めていた彼女は、しばらくして観念したのか、おずおずと左手を差し出す。
柔らかくてちっこくて細い。
力加減を間違えば簡単に握り潰してしまいそうな華奢な手を取って、俺は思わず呻いた。
「うわ、結構深いな……」
案の定、中指と薬指の爪が三分の一ほど剥がれかけて捲れていた。
彼女が指の付け根を握っていたからか、血はほとんど止まっているが、それでもかなり痛みはあるはずだ。爪のあたりは拷問にも使われるほど敏感だから。
この感じだと、今後しばらくは指先に力を使う仕事は厳しいだろうな。
「まったく、ご令嬢方も乱暴なことをする。――痛いだろう? 直ぐに医療所に行った方がいい」
場所はわかるか? と続けるが、少女はまた俯いてしまった。
柔らかそうな黒髪が俯いた拍子にさらりと流れて、覗いた白い項が頼りなく晒された。
「あの方たちがああいう行動に出たのは、きっと私の配慮が足りなかったんです」
「……え?」
何を急に、と思った。
ご令嬢方の行動はどう考えても自分たちのことしか考えていない勝手なもので、少女の配慮など関係がないと思うんだが。
それをそのまま言おうとした俺より先に、少女が話し出した。
「何か私、ハルディオさんの周りの方のこと、何も考えずに行動していたんだなって思って……。ハルディオさんがとても人気のある方だっていうのは見ればわかったはずなのに。
私、一人でこっちの世界に来てしまって、誰を頼ればいいのかまだよくわからなくて。
偶然なんでしょうけど、こちらの常識も風習も知らない私がヘマをしたり危ない目に遭ったとき、ハルディオさんには何度か助けてもらったんです。だからつい、ハルディオさんを頼ってしまっていたんです」
でもそれって、ハルディオさんを好きな女性たちにとっては、ポッと現れた女が急に馴れ馴れしく近づいているように見えたんですよね、きっと。
そう、彼女は続けた。
俺にしてみれば、彼女のどこが悪いのか疑問だ。
寄る辺ない彼女が優しくしてくれるヤツを頼るのは当然のことだし、相手もそれを受け入れているなら馴れ馴れしくたっていい。むしろ、第三者がその交流を阻害していい理由こそないと思うんだが。
「私、少しハルディオさんに会うのを控えようと思います」
「い、いやそこまでしなくても――」
「――何をやっているんだ?」
タイミングがいいのか悪いのか、振り返ると極彩色の奇人がそこにいた。




