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異世界のかけら -断片集-  作者: 滝底
拍手お礼再掲とおまけ
35/48

◆おまけ 後編



(しまった、思い切り心配かけちゃったよね……)


 突然抱きしめられたことには驚いたけれど、ぎゅうと背骨が軋むほど込められる力に、相当ハラハラさせてしまったのだろうと思ったら申し訳なくなった。


 彼は、神経質なまでに私の身の安全を気にしている。それは単に過保護や心配性からくるだけのものじゃなく、何かもっと根の深い部分に起因しているのだろうということには気づいていた。

 ……本当は、彼の話をもっと聞いてあげるべきなのかもしれない。

 一辺倒に“人違い”だとか“貴方を知らない”と言うのではなくて、彼のこと、彼の言う“守維”のことをきちんと知ろうとするべきなんだと思う。

 今のように、なんとなく拒否しきれずに押されるまま流されて、明らかな問題があるのにそこから目を背けて有耶無耶にしている現状が、とても褒められた状態じゃないというのもわかっている。

 だけど、私は聞けない。踏み込めない。

 彼が抱える何か。それが決して軽いものではないとわかっていて、受け止めることもできない私が安易にいろいろと尋ねるのは、無責任だと思うんだ。

 下手な歩み寄りは、お互いが辛くなるだけだと知っている。――私にも、事情があるから。

 だから、できれば彼が、煮え切らない態度の私に愛想を尽かして離れてくれないかと、そんな勝手なことを思っている。

 でも、そんなどっちつかずな私が一つだけ決めたことがある。

 彼のことや彼の言う“守維”のことを聞かず、彼の気持ちを軽くしてあげることができない代わりに、これ以上心配だけは掛けないようにしよう、って。それが私にできる唯一のことに思えたのだ。

 なのに、今日は浮かれていて油断してしまった。まったく、成人したいい大人が情けない。


 彼が常に抱えているだろう不安を刺激するようなことをして、無駄な心労を与えてしまったかと思うと本当に申し訳なくて、私は彼に抱きすくめられるがままじっとしていた。

 そのうち落ち着いてくれるだろうと思っていたけれど、なんだか様子がおかしい。

 些細な違和感を感じて、内心首を傾げながら、彼の様子を注意深く伺ってみる。ややして、違和感の正体に気づいた。


(もしかして、息して無い……!?)


 いや、息をしていない、というのは少し大げさで、彼はたぶん、息を詰めているのだ。

 人は極度の緊張状態にあると、呼吸が浅くなったりする。今の彼もちょうどそんな状態なのかもしれない。

 「そのうち落ち着くだろう」なんて、心配を掛けた張本人が暢気に考えていたなんて!

 自分で自分を叱りつけながら、私は慌てて、でも彼を驚かせないようにそっと、彼との間に押しつぶされている荷物から片手を抜いた。ほんの一瞬、躊躇ったけれど、思い切って片手を彼の広い背中に添える。それから宥めるようにゆっくりと上下に動かした。

 小さい頃、何かあるとよくお母さんがしてくれたように優しく擦る。弟妹のいなかった私はもっぱら抱きしめられ慰められる側だったから、誰かをこうして宥めるのは慣れていない。それでも気休め程度にはなるだろうと思いながら、何度も彼の背を撫でた。

 撫でるごとに彼の身体の力が少しずつ抜けていき、やがて彼が私の肩口でふっと息をついたのを感じた。なんとか落ち着いてくれたようで、私までホッとしてしまう。

 ……だけど、荷物を持った私は両手ではなく片手でしか彼を宥めてあげられない、それが私と彼との関係と重なるようで、少しだけ物悲しくなった。全身で受け止めることも慰めることはできない。でも放っておくこともできない。――この微妙な距離感が、私たちの間にある距離だ。

 落ち着いたらしい彼の背を撫で続ける私に、彼は抵抗せずひたすら私の肩口に顔を埋めている。逞しい腕が、何の頼りにもならない私に縋っていることがなんだか切なかった。


 ――私は、どうしたらいいんだろう……。



「――ったく、道端で何やってんだ!」


 そんな声が聞こえたのは、たぶん彼が少し落ち着いてから直ぐのことだった。

 荒っぽく、苛立ちを多分に含んだ声に、私はびくりと肩を揺らしてしまう。明らかに私たちに向けられた悪態だとわかったからだ。

 心配を掛けてしまった後ろめたさから彼に抱きしめられるままおとなしくしていた私は、慌てて顔を上げて周囲を見た。別に声を荒げた人を探そうと思ったわけではないけど、反射的にきょろきょろと視線を彷徨わせる。

 よく見なくても、人通りの多い町のメイン通りで人の流れを無視して立ち止まっている私たちは、さぞ通行の邪魔だろう。それに、傍から見たら男女が抱き合っているというのは明らかにある特定の誤解を招く行為だ。実際はそんな甘いものなんて全然無くて、むしろお互いに苦いばかりだというのに。

 などと冷静に現状を分析しながらも急激に顔に熱が集まるのを感じた私は、ひとまず離してもらおうと彼の背に回していた腕を下した。同時に、彼は思いのほかあっさりと私から身を退いた。彼の耳にもさっきの怒鳴り声が聞こえていたのかもしれない。

 周りの音が聞こえていたということは、案外、彼の動揺は浅かったんだろうか。それは悪いことじゃなくむしろ良いことなんだけど、光を失いガラス玉のようになった月色の瞳を目にしていた手前、少し意外だった。

 こっそり彼の顔色を伺い見ると、彼の表情はいまだ硬く強張っていた。

 不機嫌というわけではないようだけど……、さて、どう声を掛けよう。ここはやはり謝罪から……、なんて思って口を開こうとしたけれど、無言の彼に突然手を取られ、私は驚いて言葉を飲み込んでしまった。

 彼はそのままいつに無く速い歩調で歩きだした。いつもは私に気を遣って歩いてくれている彼を知っているだけに、私が転びそうになるほどのペースでずんずん進んでいく彼の様子が少し衝撃的で、私は止まってほしいとも言えずに引っ張られていくしかなかった。



 

 無言のまま連れて来られたのは、服飾商店街の直ぐ近くにある安宿だった。

 たぶん、てっとり早く落ち着ける場所が宿だったんだと思う。人目がなく、二人きりになれる場所。路地裏でも人通りは少ないけれど、おかしな人間の溜まり場である可能性もあるから避けたのかもしれない。

 受付をあっという間に終え、部屋に連れ込まれてベッドに座らされたときは正直に言うと焦った。出会いの出来事が頭を過ぎったこともあって、何をされるのかと……。

 でもそれが自意識過剰だったと知るのは直ぐだった。

 緊張で固まる私の前に跪いた彼は静かに持っていた荷物を脇に置き、私からも真新しい下着の入った袋を取り上げて脇に避けると、自由になった私の両手を撫ぜるように引き寄せた。そのまま静かに彼の額に押し当てて、動かなくなってしまった。

 そして冒頭に戻る……。


(これは……どうしたらいいんだろう……?)


 かける言葉が見つからない。祈るような姿勢の所為か、なんだか邪魔をしてはいけない気がする。どこか危うい空気を纏う不安定な彼を振り払うのも憚られて、黙って彼の気が済むのを待つしかないと覚悟を決めた。

 だけど、安い宿にはベッド以外には小さなテーブルが一つしかなく、とても味気ない。居た堪れずに彼から視線を逃がしても、見るものなんて何もないのだ。仕方なくこの部屋で一等綺麗な彼の色素の薄い艶やかな髪を眺めながら、考えていた。


(やっぱり、このままじゃいけないんだよね……)


 追い詰められたような彼の様子に抗いきれず、こうして微妙な距離を保ちながらも会っていること。どっちつかずの私の態度が、結局彼をさらに追い詰めているんじゃないかと思えてきた。 

 馬車に轢かれそうになって紳士に助けられた後、雑踏の隙間に見えた彼の生気を失った月色の瞳を思い出す。確かに彼は生きてそこに立っていて、目もしっかり開いているのに、まるで何も見えていないような――ううん、何も見たくないと訴えているかのような瞳だった。

 彼と初めて会ったとき、彼が言った「二度と失えない」という言葉。その言葉の意味を、私は今日やっと本当の意味で理解したような気がする。

 もし“守維”を失ったら、彼は――。


 壁が薄いのか、彼と私しか居ない部屋は静かなわけではなく、遠く商店街の賑わう声が聞こえる。

 小さな窓から差し込む日に煌めく白金の頭を眺めながら考えに没頭し、時折外の喧噪に耳を傾けてどれくらいしたころだろう。

 頭を上げないまま、彼がそっと口を開いた。


「私は――」

「……?」

「私は、低劣な人間です」

「え……」


 ぎょっとする。

 やっと喋ったと思ったら何を言い出すんだろう、この人は!


「何、待っ――」

「私は」


 不穏な空気に焦って制止の声を掛けたけれど、遮られてしまった。

 表情は見えない。でも、私の手を握っていた彼の両手にぎゅっと力がこもったのが伝わってくる。


「私は、貴女をまた失うのかと――。

 貴女のいない世界は私にとって何の意味もなく、月を失った夜よりも暗く陰鬱だ。果てのないうろに足を踏み入れたように動けなくなる。上も下も右も左もない、肉体の消滅よりも残酷な――」

「ちょ、ちょっとストップ……!」

「――――」


 今度こそ止めた!

 この人は、延々と何を言おうとしているのだ。わかり難い表現の羅列に、混乱する。

 ……つまり、遠回しに私を責めているんだろうか?

 危険なマネをするな! ってこと?

 それとも、自分を卑下するような最初の言葉を考えると、私を助けられなかった自分を責めているんだろうか。

 ほんの微かに震える声から彼が真剣なのは十分伝わってくるけれど、そんなに深刻にならないでほしい。確かに危ない目にはあったし、もしかしたら私は死んでいたかもしれない。でも、結果的には紳士に助けられて無事だったんだし……。

 放っておくと負の渦に自分からダイブしてしまいそうな彼に、困ってしまう。


「あのですね、まず、ひやひやさせてしまって本当にすみませんでした。私の不注意で貴方の心に負担をかけてしまって、反省しています」


 私の謝罪を聞き、彼は顔を上げないまま小さくゆるゆると首を振った。

 表情が見えないというのは不便だ。彼が本当に気にしていないのか、はしゃぎ過ぎた私を責めていないのか、判断がしづらい。

 だけど、首を振ったからには怒ってはいないと思わせてもらうことにする。


「私、無事でした。生きてます。貴方の目の前にちゃんといます」

「……はい」

「すごく親切で、稀なくらいに紳士な人に助けてもらったので、どこも怪我なんてしていませんし」

「…………」

「だからその、……あまり自分を責めないでください」


 実際、不注意を責められるべきは私の方で、彼が『低劣』なんて言葉を自分に使う必要は無いんだ。私が悪かったとわかっていて先手を打って謝り、彼が私を責める隙を無くした私はちょっと卑怯だったかもしれないけれど。

 輝く白金を眺めながら、黙り込んでしまった彼の言葉を待つ。少しでも浮上してもらおうと言った言葉だったんだけれど、次に彼の口から出た台詞はとんでもないものだった。


「……やはり私は、己の責を一番に考えるべきなのでしょうね」

「え!?」


 いや待って、何を聞いていたんだ、この人は!

 私は彼に自分を責めないで、って言ったのに、彼の頭の中ではどんな変換がされたの!?


「私は」


 私が絶句していると、彼がゆっくりと顔を上げた。

 小さな窓から差し込む日差しが、月色の瞳に揺れる碧の虹彩を鮮明に浮かび上がらせる。日を浴びているのに、暗く底知れない感情が澱のように瞳の奥に積もっている気がして、知らず背筋が震えた。

 狭い部屋に籠る空気が硬質なものに変わった気がした。


「馬車の前に飛び出した貴女に手が届かないとわかって絶望しました。あの瞬間、確かに世界が失われた。何も考えられませんでした。本当に何一つ、貴女の身に起こったことも、己が何故貴女から離れた場所にいるのかさえ、理解できなかった。

 だが貴女は生きていた。紛う方無き無二の黒曜を見て、歓喜に震えました。もう十分だと思いました。貴女が生きているだけで、そこに存在しているだけで、十分だと。

 ですが――」


 私は口を挟めなかった。

 淡々と発する声とは逆に、昼にも陰らない月が重く妖しく光っていた。


「ですが私は、あなたの無事を認識した途端、愚かにも醜く浅ましい感情に呑まれた。

 ――貴女を支える見知らぬ男に、確かな殺意を」


 ……これは、何か物凄く危険な懺悔なんじゃないだろうか。

 聞いてはいけないような気がして、でも私の両手はいまだ彼に捕らわれているから耳を塞ぐことができない。

 月色の瞳から、甘い毒が流れ出しているような気がした。


「守維、貴女の側にあるのは私であるべきだ。……そうでしょう? それは定めでもある。なのに何故――、……いや、違うな。貴女は何も悪くはない。あの男にあの位置を許したのは私だ。

 私は、己の浅慮を悔いています。何故、貴女から離れてしまったのか。守れぬ位置に甘んじていたのか。二度と失えないと自覚し、二度と失わないと決意した。だというのに、真実重要なときに限って側にあれない。なんと無意味な決意だろう。結果、貴女を危険な目に合わせた。

 ――ですが、私の後悔も己の責を問う心もきっと、純粋に貴女の身を案じてのものではありません」


 淀みなく話す彼から目が逸らせない。

 内容は重く苦い気持ちが溢れ、まるで重大な罪を犯したように自責の念が滲んでいる。それなのに、彼の月色の瞳は強くて、複雑な感情を湛えているのに全然ブレが見えない。

 じっと私を見つめ、まるで瞳から身体の奥深くまで入り込もうとしているみたいだった。

 急に、おへその下あたりが重くなったような錯覚を覚えた。


「私は、知らぬ男が貴女に触れることを許してしまったことを、何より後悔している」







と、微妙なところですが終了です。

本当はこの後に書きたいことがあったのですが、割愛します。

跪く騎士に手を取られているとか、典型的においしいシチュなので、月の人にはもう少し色々と行動してほしかったのですが。



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