◆おまけ 中編
まさかの前中後編。
短くまとめる力の無さに絶望した!
結果から言えば、私は無傷だった。
馬にぶつかる直前、腕を掴まれ引き戻されたのだ。
引かれるままの勢いで硬い胸にダイブしてしまったけれど、助けてくれた人はうまく衝撃を逃がしてくれたのか、あまり痛くはなかった。
瞬く間の出来事にしばし呆然とし、思考が動き出したと同時にドッと冷や汗が出た。
(あ、危なかった……!)
この世界では、元の世界の車と同じように馬車に轢かれて命を落とす事故が珍しくない。
馬車はエンジンのついた車ほどにはスピードは出ないけれど、人の賑わう街中で、しかも場合によってはそれほど道幅がなくても構わず走行することもあるから、私のように注意散漫な人や子供は事故に遭いやすい。
もし男性が助けてくれなければ私も悲惨なことになっていたはずだ。知らない世界に落っこちて数か月のうちに馬車に轢かれて死ぬなんて、笑い話にもならない。
「……大丈夫でしたか?」
深く安堵の息をついていると頭上からの優しく窺うような声が降ってきて、はっとした。
気づけば馬車の警鐘も車輪の音も遠くなっていて、お礼も言わずにぼうっとしていた自分に気づいて少し慌てる。
(あれ、でも今の声って……)
微かな違和感を覚えながら、とにかくお礼だけは言うべきだ、といまだに抱きしめてくれている人を見上げて、けれど私の口をついて出たのはお礼ではなく驚きの声だった。
「――え?」
「……?」
(えっ? あれ!?)
違和感の正体が判明した。
思いのほか近い位置にある、綺麗な薄茶の瞳にけぶる紅茶色の睫毛。物凄く整っているというわけではないけれど、柔和で優しげな顔立ちをした人。
(財布を拾ってくれた人……?)
そう、助けてくれた人は、さっき私の不注意で落とした財布を親切にも拾ってくれた男性だった。親切ついでに助けてくれたらしい。
私が飛び出したとき、一番近くにいたのは目の前の男性で、当然と言えば当然だ。けれど、私を助けてくれたのがこの男性だというのは、ある意味馬車に轢かれそうになったことよりも私に衝撃を与えた。
もちろん、彼の顔がおかしいわけじゃない。――おかしいのは私の頭だ。
人の好さそうなその男性の顔を凝視したまま、小さく口を開けた間抜けな顔のまま瞬きだけを繰り返してしまう。
私は、何か大きな勘違いをしていたらしい。
危ういところを誰かに助けられたとわかったとき、何故か助けてくれたのは月色の瞳をした彼だと私は思い込んでいたのだ。
私を包む温もりの主はきっと彼だろう、と全く疑っていなかった。暢気に腕の中にいたのはその所為だ。
たぶん、このふた月ほどの間ずっと彼が側にいて、些細なことから何から私が不自由しそうになったことはすぐに彼が手を差し伸べてくれたからだ。知らず知らずのうちに、困ったときや危ないときは彼が助けてくれるものと思い込んでしまったのかもしれない。
だけど良く考えれば、今の出来事で彼が私を助けるのはかなり不可能に近い。道を飛び出したとはいっても彼は通りの反対側にいたのだ。町の誇りでもある服飾商店街の横幅のある通りの端からでは、彼がこちら側に来るなんて難しいのはわかりきっていることだったのに。それなのに助かったとわかったときに私を抱きとめてくれた腕の主は彼だと信じ切っていたなんて、思い込みって怖い。
(彼はどこだろう……?)
とんだ勘違いに衝撃を受けながら視線を彷徨わせると、行き交う人々の隙間に、放心したようにこちらを見つめる彼の姿が見えた。上体が少し前傾しているところを見ればやはり彼は私を助けようとしてくれたのだとわかる。その事実に安堵して、でも彼の瞳を見た瞬間、思わず息を呑んだ。
いつも優しさの奥に力強さを秘めて輝いているはずの月色の瞳が、力を失いがらんどうのように暗い色を湛えていたのだ。
「――っ」
心配をかけてしまった所為だろうか。それならば今すぐ駆け寄って私は大丈夫だからと言わなければ。――そう焦るくらい、彼の感情の抜け落ちた表情に不安を覚えた。
実際に駆け寄らなかったのは、私の身じろぎと言葉にならない声にこちらに月色の瞳を向けていた彼が反応してくれたのがわかったからだ。
ぱちり、と彼は瞬きをした。それから暗い瞳がゆっくりと私の全身を確かめるような動きをした。最後に目が合う。次に瞬いたとき、月色の瞳に力が戻っていた。細い蝋燭の先に小さな火が灯るような僅かな変化は、徐々にはっきりと光と熱を増した。
死人の目のようだった彼の月色の瞳がまた輝きを取り戻したことにホッと胸を撫で下ろし、自然と笑いかけようとして、けれど失敗に終わる。
それは急激な変化だった。
月色の瞳にぐっと力がこもったかと思うと、直後に碧の虹彩に宿る感情の灯火が、突風に煽られたように激しく燃え上がったのだ。
いったいそれはどんな感情の動きを表していたんだろう。
私が見極めようとするよりも先に彼はさっと片手で目元を覆ってしまったから、私には彼の瞳に燃えたものがなんであったのかはわからなかった。
「……大丈夫ですか?」
彼の動きを追っていた私は、頭上から再び心配そうにトーンを落とした声が聞こえて、物凄く慌てた。
(そうだった!)
彼のことも気になるけれど、今は優先するべきことがあるじゃないか!
いまだ抱きしめてくれたいた腕から、失礼にならない程度の素早さで距離を取る。
「あの、本当にすみません! ありがとうございましたっ」
「いいえ、ご無事で何よりです」
相変わらず優しい声の人だ。助けてくれた人そっちのけで気を逸らしていた私に気づいただろうに、咎めもしない。たった数分で、目の前の男性の懐の深さを思い知った。
「本当に何とお礼を言ったらいいか……」
「はは、お怪我がなければ十分ですよ。……ああ、そうですね。お礼と仰るなら、次に通りを渡るときからは馬車の警鐘に耳を傾けてくださると嬉しいですね。たとえばこう、耳に手を当てて」
ジェスチャーを交えながら、後半は茶化すように言う。恐縮する私が気負わないよう気遣ってくれたのはすぐにわかった。
……優しくて懐が深いうえに、茶目っ気まであるとは……。
おどけるように耳に手を当てた姿が可笑しくて、少しだけ笑ってしまう。
でも内容はまるで子供への注意と同じだから、内心物凄く恥ずかしかった。
馬車が街中を走行する際には、御者がハンドベルを鳴らすことが義務づけられている。それによく注意を払うというのは、元の世界でいう横断歩道を渡る際の左右確認だとか、手を上げることだとかと同じだ。つまり、子どもが小さいころに習うこと。
私が轢かれそうになった馬車も、ハンドベルはちゃんと鳴らしていた。耳には届いていたけれど、脳には到達していなかったのだ。元の世界にあった電車や車の警鐘音とは違い、抽選会で景品が当たったようなベルの音だったから慣れていないのもある、というのは言い訳にしかならないよね。
とにかく本当に久々の自由な買い物に浮かれすぎていたと反省するばかりだ。
「気を付けます……。本当にご迷惑をおかけしました」
熱を持つ頬を隠すように縮こまる私に、男性は何のことはないとにこやかに笑ってあっさりと去って行った。
なんて紳士的で爽やかな人だ。完璧ではないか。
こんな人もいるのだと少し感動しながら男性の後ろ姿を見送ったあと、私は安堵と脱力感の混ざった溜め息を深く深く吐き出してから振り返った。何かすごく疲れた……。
すっかり喜びも冷めてしまったけれど、先ほど購入したばかりの商品の袋をぎゅっと抱きしめ、賑わう通りの向こう側で待っているはずの人の元に向かった。――向かおうとしたんだけれど、足は即座に止まってしまった。
「守維!!」
「――っ!」
正確には、止められたのだ。
驚くことに、今度はいつの間にか目の前まで来ていた月色の彼に抱きしめられていた。




