◇アドラヴェスタの火種 後編
ジャクスはどうやらアイザとナバアルへの伝達を終えたらしい。
合流しろとの指示に従って現れた同胞を見て形勢は逆転したと口の端を歪めたグシオンだが、少女からは思いのほか冷静な声が発せられた。高貴な琥珀がひたりとグシオンに向けられている。
「誇り高きフウリアの頭領殿、目を開き、深きを知ってください。このままでは拙いことになる」
早口にそれだけ言うと、少女は千切れた宝石など見向きもせずに身を翻した。あまりに軽やかなその動きに咄嗟に追おうとして、しかし毒の苦しさにグシオンは膝をついた。
屈辱だった。フウリアの頭領ともあろう者が膝をつかされたのだ。しかもその手段は、嘲笑の対象でしかなかった色仕掛け。仕掛ける色など持っていそうにない少女に、だ。
このときのグシオンには、少女の生意気な物言いなど深く考える余裕はなかった。
自身へか王女へか、……いや、当然どちらへでもあろうが、とにかく胸をかき回すような憤怒でグシオンの視界はちかちかと火花が散って見えるほどだったのだ。
だが、そこでグシオンは思い出す。彼女は騎獣すら連れていなかったはずだ。ヌアラビスの毒にやられているグシオンでは無理だが、ジャクスならば簡単に追い付ける。
グシオンは上がる呼吸を必死に抑え、同胞へと視線を向けた。頼みの綱である男はこちらへ近づこうとしていたようだが、何故か中途半端な位置で止まり、ぼうっと少女の走り去った方を眺めている。幻でも見たかのような気の抜けた表情に苛立ち、グシオンは一時苦しさも忘れて声を荒げた。
「……ジャクスッ、何を……やっている……! ――追え!!」
「あ、ああ、――うわぁっ!」
渾身の怒声はきちんと同胞に届いたらしい。我に返ったようジャクスは慌てて騎獣を駆った。が、しかし騎獣には彼の意思は伝わらなかった。ジャクスの意思に反して騎獣は突然駆け出し、思わぬ動きに対応できずジャクスは騎獣から見事に振り落された。
(何をやっている!!)
同胞の失態に舌打ちしたい気持ちを堪え、駆け出した騎獣を視線で追って、グシオンは驚愕に目を瞠った。
「グルァゥ」
まるで甘えるような声。
駆け出した先は少女の方ではなく、もう一頭の騎獣、グシオンが乗ってきたものの方だ。見れば、地面に身体を擦り付けるようにして二頭ともが恍惚とした表情を浮かべている。
いったい何だ。思い通りにいかぬ事態に歯痒さを募らせるグシオンの耳に、ジャクスの驚いたような声が届いた。
「マタタビだ」
それを聞いたグシオンはしばし呼吸を止め、次いで苦渋に顔を歪めた。
フウリアの駆る騎獣は猫科の獣だ。人が酒に酔うように、猫はマタタビに引き寄せられ、酔っ払う。猫科の騎獣も大きさこそ異なれど、本質は同じだ。マタタビの香りを嗅げば、あっという間に恍惚感に骨抜きになってしまう。
しかし、マタタビはフウリアの森に自生している植物ではない。このタイミングでそれがこの場所にある理由は一つだ。
(たかが女一人に、この俺がどこまでもしてやられたらしい)
いつの間にマタタビを投げたのかは知らないが、先ほどの一連の絡みにも騎獣が静かにしていたわけはこれだったのだ。
グシオンは騎獣の存在すら完全に忘れ去っていた己を殴り飛ばしたい衝動に駆られたが、今はそんなことをしている場合ではない。
毒のお陰で呼吸は苦しく、酸欠で頭が朦朧とする中、グシオンはもはや意地で弓を構えた。
遠く、跳ねるように木々の合間を駆けていく少女の白い姿がある。距離はあるが、グシオンの腕をもってすれば届かぬ的ではなかった。
「…………」
せめて一矢でも報いねば、フウリアの誇りが泣く。
そう強く思うのに。
「……グシオン?」
「ぐ……っ」
「グシオン!」
毒を飲まされた割には動けているが、それでも毒は毒だ。苦しさに照準を合わせることができず、グシオンは弓を下した。
「おい、どうした! やられたのか!?」
「いい、から……追え!」
駆け寄るジャクスを制し、声を振り絞る。あの少女を逃す気など、グシオンにはまださらさらないのだ。
「だが――」
「行け!!」
負傷しているらしい頭領を置いていくことに躊躇いを見せるジャクスをさらに追い立てると、眉を顰めながらもジャクスは指示に従い駆け出した。
その様子を視界におさめてから、グシオンは近くの樹に身体を預けた。
どうにか呼吸を繰り返す。毒を飲み込んだ直後よりはいくらか痺れは引いたようで、多少呼吸は楽になっていた。
(……致死量ではなかったのか……?)
ここで初めてその事実に気づく。
先ほどまでは屈辱と怒りで少女を捕えることしか頭になかったが、一度冷静になって考えるとおかしい。
ヌアラビスの毒は、葉だけで作られたものならこれほどの苦痛は引き起こされない。ならば当然、葉と蜜を混ぜて作られた毒を使われたはずだが、それにしては毒性が低いようなのだ。
確かに調合によっては毒性の強さを調節することはできる。しかし、敵地へ足を踏み入れるにあたり、そんな中途半端な武器を仕込む必要があるだろうか。
敵に捕まったときの自害のための毒ならば、致死量に達しないものを持っていても仕方がない。敵に遭遇した際に使い隙を作るためのものだとしても、確実性をとるならもっと強い毒でなければ逃げ果せないだろう。何せ、ここはシェリテガの者にとっての敵地であり、フウリアの民にとっての守護地――庭である。下手な情けは己の身を滅ぼすだけだ。
フウリアの操る騎獣の特性までも理解しマタタビさえ用意していたのは周到と言ってもいいが、敵を打つ覚悟がないならば、なぜ大胆にも独りこの地へ侵入などしたのか。
「…………」
思考に沈みそうになったとき、頭のすぐ上の方に突き刺さる短剣が視界に映り、グシオンは無言でそれを引き抜いた。微かについている木屑を払い腰の鞘に戻すため下を見れば、打ち捨てられた宝石が転がっているのに気づいた。
(一の姫ではなかったのか……?)
そうだ、あの少女の正体。これにも疑問が残る。
琥珀の瞳は、彼女が間違いなくシェリテガ王家の人間だと証明している。加えて森を走るに無駄な装飾を見、グシオンは彼女が一の姫だと判断したが……。
果たして美しいものをこよなく愛し、周囲が呆れるほどの執着を見せるという一の姫が、これほど多くの宝石をあっさりと打ち捨てて逃げるだろうか。
いや、しかしやはり彼女が一の姫である可能性は完全には捨てきれない。何せ、二の姫は――。
「グシオン!」
思考を遮る声に顔を上げれば、ジャクスがこちらへ駆けて来るのがわかった。どうやらグシオンのように毒を浴びたりはしなかったらしい。手持ちが切れていたのか。
同胞の無傷の帰還を喜ぶべきところだが、ジャクスの周囲にさっと視線を巡らせたグシオンは眉を吊り上げた。
「……手ぶらか」
少女を追わせたはずだが、どう目を凝らしてもジャクス以外の姿はない。女一人の足に、森の民が追い付けぬはずはないというのに、どういうことだ。
怒気を孕んだ空気を察したジャクスは多少足を緩めたが、迷わずグシオンの下へと戻った。
「――ああ、……いや、これを」
差し出されたのは二本の小瓶だった。蓋に細かな彫刻の施されたそれを興味もなく無言で眺めれば、ジャクスが仕方なさそうに蓋を開けた。
「お前には必要なものだ。確かめてみろ。
それよりあの娘は何者だ? シェリテガの方へ走って行ったが、途中で消えた。木々に遮られて一瞬視界から外れたんだが、そのあと姿が見えなくなった。消えたあたりも調べたが、特に抜け道も見つからなかった」
「……。……解毒剤?」
「ああ、追っている道の途中で拾った。たぶん彼女が落としたものだ」
「…………」
まったく、わけがわからない。
毒を用意していたのだから万一自分がそれを取り込んでしまったときのために用意していたのだろうが、それをこうも都合よく落とすだろうか。
胡散臭い。
少女の行動の意味がまったく掴めず、不審に顔を歪めたまま小瓶を凝視するグシオンを見、ジャクスが困惑しながらも宥めるように告げる。
「言いたいことはわかるが、とにかく飲め。お前ともあろう奴がどうしてこんな状態になったのかは知らないが、まだ呼吸が乱れている。そんな姿で村には戻れないだろう」
「…………」
その通りだ。
グシオンはフウリアを束ねる頭領。誰もに恐れられる厳格で強靭な、揺るがない存在でなければならない。敵とする相手が強大なものであるからこそ、頭領であるグシオンはたとえ同胞にであろうとも弱みなど見せられないのだ。
(どこまでも馬鹿にしてくれる)
敵に塩でも送ったつもりか。
悪態づきながら、ヌアラビスの解毒剤であろう小瓶の中身を一気に煽った。
もう一方の小瓶は持っていた水筒に入れて嵩増しし、軽く目を洗ってから残りは布に染み込ませて目元に当てた。
「……もう一度探すか?」
しばらくしたころ、グシオンから抑え切れぬ怒りを感じたらしいジャクスが問うが、グシオンは黙って立ち上がった。
同胞ですら震え上がらせることのある鋭い濃緑の瞳。そこに憤激の炎が揺らぐさまを見たジャクスは息をのんだ。
グシオンは濃緑の瞳を眇めて森の奥を睥睨し、抑揚のない声で言った。
「次にあれが俺の視界に入たなら、必ずネアビスの元へ突き落す」
冥府の神ネアビス。
そこへ送るということは、絶対なる死を意味した。
死亡フラグ……!
グシオンはフウリアの民の穏健派を捻じ伏せる過激派の頭領です。
謎の姫が一応主人公なのですが、正体不明w
さて、一応、断片集の新作投下はここまでとなります。
ここまでお読みくださった方、本当に有難うございます。
この後は過去の拍手お礼をおまけをプラスして載せていく予定です。
ホームステイ以外は全て一つずつお礼があります。
よろしければ、そちらも覗いてやってくださいませ。




