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異世界のかけら -断片集-  作者: 滝底
本編的断片
30/48

◇アドラヴェスタの火種 中編 二



 王女の行動は完全に予想外だったと言っていい。まさか、一国の姫君が『女』を武器にしてくるとは思わなかった。しかも、色をちらつかせる程度ではなく、自ら尊き唇を差し出すとは。お陰でまんまと避け損ねた。

 しかし、口づけ一つで隙を作ろうとでもいうのだろうか。

 こんな子供騙しの誘惑に乗せられる程度の男と思われているとするなら、随分舐められたものだとグシオンは不快感も顕わに眉間に力を込めた。至近距離から半ば伏せられている琥珀を静かに睨み据える。

 確かにまったく驚かなかったと言えば嘘になる。が、動揺までには及ばない。ただ唇が重なっただけ。成人をとうに超えた男を誘惑するにはあまりに稚拙な行為と言える。この程度で理性など飛びようもなく、それでは作りたくとも隙など作れるはずがない。だから王女のそれは、ただ無駄に身を削る愚かな行為でしかないのだ。

 ……そう思うのに、冷静な思考に反してグシオンの身体は動かず、細く軽い少女の身体を振り払うことすらできずにいた。


「……っ」


 柔く、アミンデの樹液により腫れて少し厚みの増しているらしい肉感的な唇が強く押し付けられる感触。深く絡むでもない重なるだけの口づけだというのに、思春期の少年のようグシオンの唇は微かに震えた。優しく吸い付く花弁のような唇は甘く、グシオンのそれより少しだけ低い体温まで感じれば、項のあたりに痺れるような感覚が走った。


「――――」


 息が詰まる。まさか、緊張しているとでもいうのか。

 心の中では王女の愚かな行為を哂っているというのに、身体はグシオンの制御から外れてしまったように動かない。何かの薬でも使われたかとも考えたが、唇が重なっている程度で全身に作用する薬など存在しないはずだ。

 そう、唇が重なっているだけ。ただそれだけ。

 それだけという事実に、グシオンは無意識に焦れ始めていた。

 ――どうせならばもっと。本気で誘惑するつもりなら今以上の大胆さが必要ではないのか。

 この程度で隙など生まれない。生むつもりもない。隙を生みたければそれ相応の対価が必要だ。

 そんなグシオンの心の声が聞こえたのか、王女の唇がグシオンのそれをそっと食むように動いた。綿が触れるように控えめな、優しすぎる動きだ。しかし、その動きを受けたグシオンには強烈な刺激だった。

 何かが腹の底から頭の先まで突き抜けたような感覚を覚え、痺れるようなその衝撃は硬直していたグシオンの身体を解す鍵となったようだ。

 気づけばグシオンは王女の細い腰を抱え込み、小さな身体に覆いかぶさるようにして彼女の唇を貪っていた。


「――っ、……あ」

「……は、っ……」


 激しさに見合った濡れた音が森に溶けていく。

 食べ尽くすように何度も角度を変えながら、ほんの少し前まで冷静に王女の稚拙な行為を分析していた頭には替わりに言い訳じみた言葉ばかりが浮かんだ。


(――初めに仕掛けたのはこいつだ)


 やられるばかりでは男の名折れ、乗ってやろうじゃないか。心行くまで。

 そして自分の浅慮を心底悔いればいい。


 どうせ、逃がしはしない。


 …………。


 ――らしくない。

 グシオンは残った理性の片隅で思った。

 女と呼ぶには年端もいかぬ少女の愚行に付き合う己ではなかったはずだというのに、完全に挑発に乗せられている己が信じられない。

 常のグシオンであれば、敵国の、まして王族ともなれば有無を言わせず拘束し、なんとしてでも情報を絞り出してから確実に始末をつけたはずだった。女子供でも情けも容赦もかけはしない。それが森を守る誇り高きフウリアの民を率いる男、グシオンであったはず。


 それがどうだ、このていたらく。


 思考とは切り離された体は勝手に動く。

 今や王女の小さな唇はグシオンのそれで完全に覆われ、深く差し入れられた舌は口腔内を縦横無尽に這い回っていた。別の意味で情けも容赦もない激しさだ。

 一方で腰を抱いていたグシオンの手は意思を持ってするすると下りていき、無遠慮に王女の小ぶりな尻を鷲掴わしづかむ。手のひらに味覚などなかったはずだが、何故だかグシオンの左手は張りのある柔肉に触れた先から甘さを伝えてくる。

 全身に広がる甘い痺れにただの獣に成り果てそうな己を自覚しながら、グシオンは尊き琥珀の瞳を睫毛が触れるほどの位置から凝視し続けていた。王女から見ればグシオンはいま血走った獣の目をしているに違いない。アミンデの樹液を浴びたのだから、実際に充血して赤くなっているはずだ。さぞ恐ろしく映っているだろうに、王女からは恐れよりも戸惑いと小さな焦りだけを感じるのは何故だろうか。

 疑問に思いながらもかまわず口腔内を思うさま蹂躙した。アミンデの樹液が微かに残っていたのか、ぴりりとした刺激が舌先に伝わったが、そんなことも気にならないほどの妙な昂揚感がグシオンを支配していた。

 理性の燃え滓のように拘束し続けていたグシオンの右手が王女の手首をとうとう手放し、当然のように彼女の胸へと移動したそのとき、王女の琥珀の瞳が一瞬揺らいだ気がした。

 それを疑問に思うよりも早く、グシオンは二度目の屈辱を味わうこととなった。


「――ぐっ!! っがは!!」


 溢れる唾液を飲み込んだタイミングで、何か別のものまで飲み込んでしまった感覚に慌てて吐き出そうとするが時既に遅く。舌の奥が痙攣し、気道が引き絞られるような息苦しさで激しく咳き込んだ。

 口の中には草の青臭い匂いと鉄と砂を混ぜたような不快な匂いが広がり、ほんの少しの苦みが舌を刺す。それが何であるか、グシオンは知っていた。


(ヌアラビスの毒だと……!?)


 ヌアラビスはシェリテガ特産の花の名だ。大きな桃色の花弁と、その中心に花弁よりも鮮やかな赤い花粉を纏う雄しべのある珍しい花で、シェリテガの宮廷庭師が研究の末に生み出したと聞く。

 今や国中で親しまれる国花ではあるが、実はその葉には毒性がある。それほど強い毒ではなく、葉だけであれば弱い麻酔薬や痛み止めとして使えるというのは国民の誰もが知っていることと言っていい。

 しかし、国民には知られていない事実が一つある。それは、ヌアラビスの葉と雌しべから滴る蜜を一定量合わせるとその毒性が格段に増してしまう、ということだ。

 その毒を口から取り込めば触れた部分が痙攣を起こし……、つまりは今現在苦しんでいるグシオンのように喉の奥が麻痺して呼吸困難に陥り、一方で胃が刺激され強い吐き気と気持ち悪さを引き起こす。

 葉には独特の青臭さと鉄と砂の混じったような匂いがあり、これを完全に消すことは難しいため暗殺の道具としては使い物にならないのだが、こうして堂々と使われてしまえばどうしようもない。


「ぐっ……あ……っ!」


 グシオンは苦痛に喉元を抑えながら、必死に目の前に立つ王女を睨みあげた。得体の知れない昂揚感は当然ながら跡形もなく消え去り、代わりに腹の底から湧き上がるような憤怒と憎悪が燃え立つように瞳に宿る。

 グシオンの激しい瞳に気圧されたよう一歩身を引いた王女に手を伸ばすが、僅かに届かず空を切る。そのさまは王女の目にさぞ滑稽に映っているだろう。

 悔しさに歯を食い縛るグシオンに眉を寄せながらもしっかりと目を合わせた王女がゆっくりと口を開いた。


「目に……見えるものだけが真実ではないんです」


 そう言って、グシオンから目を逸らさぬまま躊躇いもなく白いローブを引く。それにより、グシオンの短剣が刺さっていた部分が思い切りよく裂け、鏤められていた宝石が飛んだ。森を走った所為でローブにはもともと裂け目が多かった所為か、宝石をたっぷりと縫い付けたまま切り離されたものもあった。


「ヴェドゥの火も――」

「――グシオン!!」

「!」


 少女が言いかけた言葉を突然どこかから上がった声が遮った。少女は厳しい表情で視線を巡らせる。

 ほとんど呼吸ができない中でグシオンも同じく視線を巡らせると、木々の奥に濃茶髪の青年、ジャクスの姿が映った。







冗長だけどもう一話…!



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