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異世界のかけら -断片集-  作者: 滝底
本編的断片
3/48

◆異世界で人違い? 後編





 「……っ! ちょ、や、やめ……!」


 浮いた汗すら味わうように舌が首筋を滑り、次いで硬い歯が痛みの走らない程度に肌を食む。

 短く吐き出される吐息と水音に目の前が白く弾ける。

 散々走り回った所為で上がっているはずの、私の体温以上に、熱い舌。吐息。触れた瞬間冷やりと感じたはずの唇すら、いつの間にか火傷しそうなほど熱を持っていた。


 切れ長の目も眉も、引き締められた唇だってどこかストイックな雰囲気を漂わせていたっていうのに、全部フェイクだったの?

 それともこれは悪い冗談?

 笑えない冗談は要らないって言ったのはそっちなのに!


 首元で何度も繰り返される動きは少しずつ上へと移り、いつの間にか耳の下まで到達していた。

 私の背中を包み込む腕は簡単に半周して、まるで存在を確かめるみたいにゆっくりと腰を撫で、時折ぎゅうと力が込められる。触れている部分が発火しそうに熱い。

 これはきっと摩擦の所為。ぞわりと背筋を駆け抜けたものが何であるのかは、知りたくなかった。


 慌てて抵抗を再開してみても、両腕ごと抱き込まれているから全然効果がなくて焦りが増す。

 目が合ったときから、どこか冷静さに欠けていた彼だけど、月色の瞳の奥にはちゃんと理性の光があった。己を律する術を知っている人の覇気もあったはず。

 なのに今は何か、箍が外れたような危うさがあって、押し流されそうで怖い。

 それでも熱い吐息が耳朶じだに触れたとき、思わず叫んでいた。


 「い、嫌だっ! 本当に私は貴方なんて知らないのにっ!!」


 叫ぶと同時に、首筋に唇をつけたまま彼の動きがぴたりと止まった。

 ああまた傷つけちゃったかも、なんて後ろめたさが胸に浮かんだ私は大概お人好し過ぎる。

 この人があまりに苦しそうで、力も感情も激しくぶつけてくるくせに今にも崩れてしまいそうな危うさを晒すから悪いんだ。

 それでも、やっぱり見知らぬ人にこんなことをされるのは嫌だ。どんなに相手が端整な顔立ちをした男性でも、恐怖しか感じない。

 身体が震えるのだって、嫌悪からに違いない。

 きっと、絶対、そうだ。

 必要以上に自分に言い聞かせながら、藻掻き続ける。


 ――私は絶対に彼の求める人じゃない。



 だって、私は3ヶ月ほど前に“この世界”に“落ちた”ばかりなんだから。



 そう、ここは私が22年間生きてきた世界じゃない。

 何かの物語のように、ある日突然、私はこの世界に落ちた。それからまだ、3ヶ月しか経っていない。

 そして、その3ヶ月の間に彼と知り合う時間なんて、1秒だってなかったと断言できるんだ。


 それなのにどうしてこの人は私のこちらでの名前を?


 私の本名は藤堂とうどう守維すいという。

 スイという音はこの世界では発音し難いらしくて、この街で知り合った人は皆、私のことを“シュイ”と呼ぶ。

 彼も私に“シュイ”と呼びかけた。

 彼が人違いだとも気づかず、取り乱すほどに私と似ている探し人の名前が“シュイ”であるなら、こんな偶然があるだろうかと疑問に思うのも事実だ。


 だけど、何度考えたって、私が彼と知り合う時間なんてなかったのだ。

 こちらへ来た直後、幸運なことに親切な人に拾われて、今はその人の家で居候までさせてもらっている。

 住む所は直ぐに何とかなったけど、それでも見知らぬ土地で慣れなければいけないこと、覚えなければいけないことも山ほどあって、今日までの3ヶ月はあっという間だった。

 こんな、飲み込まれそうなほどの激情をぶつけられるくらい、彼と深い関わりを持つ余裕なんて、少しも無かったんだ。



 もう、混乱の極地で泣きそうだ。

 やっとこの世界に慣れ始めたばかりという段階で、色々我慢していたものが刺激された所為もあるのかもしれない。

 たとえ言葉が通じても、周りはどう見ても日本人ではなくて、景色だって現代日本とは掛け離れている。生活様式だってそうだ。

 一人ぼっちで心細く、帰る術なんて全然わからない。

 それでも拾ってくれた人がとても親切で、一先ず頑張っていこうと思えた矢先に、こんなわけの分からない人が現れるなんて。


 目を背けていた不安が急激に膨れ上がって視界が滲む。

 でもここで泣いたらこれ以上もう頑張れないような気がして必死に涙を堪えていると、震える私に気づいたのか、一度惜しむように強まった抱擁が、ゆっくりと解けていった。耳元で鳴ったリップ音がやけに響いて聞こえた。


 「――申し訳ありません」


 慇懃な言葉。だけど妙に色っぽい掠れた声。

 鎮め切れない熱と、拭いきれない痛みを含んだ熱い吐息が肌を焼いた。


 この人は本当にずるい。そんな切ない声を出すなんて。

 恐ろしい思いをしたのは私なのに、実際に傷ついたのは彼のような気がして、責められなくなる。

 ああ、やっぱり私はお人好しだ!


 だけど、ちゃんと冷静さを取り戻した声で、少し安堵した。色々な感情を理性で無理矢理に捻じ伏せたような苦しげなものだったとはいえ。


 背中から離れた手はゆっくりと私の頬を撫で、涙の浮かぶ目尻を撫でてから、輪郭をなぞるように肩に落ちていった。

 肩に置かれた大きな手はそのまま、まるで逃がさないとでも言うように離れる気配がないけれど、我慢する。

 本当は今のうちにもっと抵抗して、何が何でも振り払って逃げなければいけないのかもしれない。

 だけど、この人の声や瞳、手の平からでさえ慟哭が聞こえてくるようで、それが出来ずに俯いたまま棒立ちになっていた。決して、街中を追い掛け回されて体力が限界だったわけじゃない。

 空気が動く度に首筋がすうすうする。

 恐怖よりも不安よりも、急激に恥ずかしさが湧いてきた。

 絶えられなくて、私は腕だけ動かして風を遮るようにそこに手を当てた。顔が熱い。

 

 頭の上から月色の視線が降ってきているのを感じる。

 彼は暫く黙っていたけど、やがて小さく吐息を落とし、静かに口を開いた。


 「貴女が私を知らないというのには、何か理由が……?」


 まだ信じてくれていなかったらしい。私だって彼が頑なに私を探し人だと言うのを信じていないのだから、お互い様なのかもしれないけれど。

 私は急いで首を横に振って答えた。


 「理由なんて無いし、嘘を吐いているわけじゃありません。ただ、本当に知らないんです。貴方はきっと人違いをしてる」


 やっと求めていた人が見つかったと思った彼を傷つける言葉を何度も言うのは心が痛い。でもこれだけは、きっぱりと言っておかないといけないことだと思った。

 ごめんなさい、と呟くと、また少し沈黙が降りた。

 重い空気をどうしたらいいのか。打破する術が全く無い。

 緊張したまま黙っていたら、彼が細く嘆息するのが聞こえた。


 「……わかりました。貴女の言葉を受け止めます。他でもない、貴女の言葉だから。……貴女は私を知らない」

 

 最後の言葉を紡いだ声はひどく硬質で、本当は認めたくないのだという思いを痛切に感じた。

 事実なのに、顔が上げられない。


 「貴女は、私を知らない……」


 彼はもう一度そう小さく繰り返してから、何かを振り切るように言った。


 「ですが、私は貴女を知っている」


 強い口調。

 平行線だ。

 私は彼を知らなくて、彼は私を知っている。

 その言葉だけ抜き取れば一方的に彼が私を知っているのだろうと言う事も出来るけど、彼は前に私が城に“戻らなかった”とか、“断りもなく”と言っていた。その言葉は、彼の求める人がちゃんと彼と対面し言葉を交わしていたことを意味している。

 だとすれば、やっぱり人違いと言うしかなかった。


 ああ本当、どうしたら……。


 途方に暮れかけたとき、彼が静かに、縋るように言った。


 「シュイ。スイ、――いえ、守維。……そう呼べば、少しは貴女も私の言葉を信じてくれるだろうか」


 私は弾かれたようにうな垂れた頭を上げた。


 今、“守維”って、言ったよね?


 完璧な発音で放たれた自分の名前に、驚愕する。

 この世界へ落ちてから、自分の名前を呼ばれてもずっと違和感があった。

 “シュイ”という音は日本を遠く感じさせて、呼ばれる度に小さな悲しみが胸に積もっていたのに。

 今、彼の口から落ちた名前は確かに、私の名前だった。


 瞠目した私の視線を捉えた月色の瞳は、私の動揺を見てどこか安堵したように柔らかく細められた。

 瞳の中の苦痛も渇望も消えたわけじゃない。でも怒りや憤りが形を潜めて、代わりに増した熱の正体が何であるのか、私にはわからない。

 彼は呆然とする私を見つめ、微笑した。


 「ずっと探していました。脅威を退けた後、貴女の姿を見失った瞬間から」


 脅威を退けた……?

 言っていることは理解できない。記憶にだって欠片もない。

 だけど、告げていないはずの私の本当の名前を彼が口にしたのだけは、疑いようがなくて。――混乱する。


 ただ月色の瞳を見返すしかない私に、彼はもう一度ふっと笑って見せた。

 黙って首筋を押さえていた私の手をそっと引き剥がし、代わりに自身の背に流れる白いマントの端を引き寄せて、私の首筋に当てた。

 自らが残したものを静かに拭っていく。

 あのときの熱など無かったように、優しい仕種だった。

 羞恥を思い出して首まで赤くなっている私に、そこへ視線を向ける彼は当然気づいているだろうに、何も言わない。……何か言われても困るけど。

 一通り拭い終わると、彼はマントを払って、ゆっくりと目の前に跪いた。

 私の両手を取り、下から顔を覗き込むようにして言う。


 「貴女が、私のことを――。……この世界で成したことについての記憶を、失くしてしまったのか、あるいは今の貴女が元々それらを持たない貴女であるのか。それはわかりませんが……。貴女が私の知る“守維”であることは変わりません。私は貴女を間違えない」


 間違えない、なんて。

 無理だと思うのに、パレードの喧騒の中でぶれることなく真っ直ぐに私を見つめていた瞳が瞼裏に過ぎって、嘘だと断じれない私がいる。

 何も言えず立ち尽くし、ただ月色の瞳に視線を合わせる私を見上げながら、彼は静かに続ける。


 「どちらにしろ、私はもう二度と貴女を失えない」


 激情に揺れていた月色の瞳は今、強く固い決意に満ちていた。

 怒りや憤りの浮かんだ、荒れ狂うまでの熱を孕んでいたときよりも、今の瞳の方にずっと飲み込まれそうだと思うのは何故だろう。

 風が何処からか小さな花弁を運んで来て、彼の白金の髪を柔らかく撫でていく。


 「貴女がどう思おうと、どんなに抗おうと、貴女には私を受け入れてもらう」


 なんだか、物騒なことを言われた気がする。

 宣言染みたそれを騎士である彼が言うのは、洒落にならないんじゃないかと思う。

 きっと彼は、放った言葉を裏切らないだろうから。


 鎮まったと思った狂気にも似た熱が、月色の瞳に浮かぶ碧の虹彩で再びちらちらと燃え始めていた。

 それに気づいた私が肩を震わせたのを感じ取り、彼はすっと射るように目を細めた。両手を掴む力が強まる。


 「――どこまで逃げようと、貴女の行き着く先は私だ」


 どうぞ御覚悟を。


 そう続けた彼は控えめに微笑する。


 その表情には見覚えが……。


 そう思った私は、やはり彼を知っているんだろうか。


 彼よりもずっと往生際悪く半信半疑な私は、彼の激情を受け止める勇気などそう簡単に湧くはずもなく、既に逃げ出す算段で頭がいっぱいだった。



 追いかけられたら、逃げたくなる。



 ――とりあえず、彼の大きな手で固く握られたままの自分の手を、どうやって取り戻すべきだろうか――。


 





 了。




結局、青年の名前は出てこず……。


長編の断片なので色々謎な部分も残ったと思いますが、これはこれで終わりでいいような気もするから書けて満足!


結構一気に書き上げたので、文章おかしかったらすみません。



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