◇アドラヴェスタの火種 中編
視点変わって、グシオン。
「それ以上一歩でも森に踏み込んでみろ、――射る」
「――っ」
張り詰めた空気とともに一瞬にして広がったのは驚愕と緊張、そして何より恐怖だろうか。白い面を強張らせ硬直する少女を睨み据えながら、グシオンは引き絞った弓の照準を小さな的にひたと合わせた。
か弱き少女に問答無用で矢を向けるのは威嚇にしても些か行き過ぎているようだが、グシオンの纏め上げる少数民族『フウリア』が守るこの森にあって、突如現れた少女は確かな侵入者である。敵対する国の中枢が遂に動き出したようだとの情報が入ったばかりでは、過敏な対処も当然と言えた。
それに何より、少女の姿は不審どころか――。
(これはまた随分な獲物とみえる)
森の民フウリアの特徴は成人とともに肌の何処かしらに施される刺青、そして褐色の肌と濃い色の髪である。対して目の前で身体を強張らせる少女は白い肌に白金の髪をしているから、当然フウリア族の人間ではない。刺青に関しては全身が白いローブで覆われているため確認できないが、肌と髪だけでも侵入者である事実は明白だった。
そしてもう一つ、少女には無視できない特徴がある。
(琥珀の目とは……。舐めているのか)
琥珀の目。
それが意味するところは、もはやフウリアの民のほぼ全てが理解しているはずだ。しかも、ご丁寧に少女は見るからに上等な衣服を身に纏っている。
これらの特徴は疑いようもなく少女の正体を知らせてくる。あまりに明瞭過ぎて不審感はいや増すが……、さて。
ただの愚者か、それとも罠か。
グシオンはいつでも矢を放てるよう姿勢を保ちながら器用に騎獣を操り、少女との距離を詰めつつ口を開いた。
「幼き稚児でもあるまいに……、道に迷ったか、シェリテガの姫? 大事な姫が斯程に方向感覚に乏しいのでは、彼の国の王もさぞ心配だろうな」
「…………」
子供でも気づくような皮肉の込められた言葉に、白き少女の応えは小さく眉を顰めるという程度のものだった。
挑発に乗らぬ冷静さは褒めるに値するが、はっきりと否定をしないのは間違いだ。
たった今、彼女は己が目の前で弓引く男の敵、シェリテガの王女だと認めてしまった。それが自身にとっても国にとってもどれほど危険なことなのか、目の前の少女は理解しているのか。
いくらシェリテガ王家の特徴である琥珀の瞳が隠せぬ証拠としても、ここではグシオンの皮肉に素知らぬ顔で便乗するくらいの豪胆さを見せねばならない場面だ。すなわち、『自分と国は関係がなく、ただの迷子だ、敵意も謀略も持ってはいない』と。
とはいえ、グシオンにとっては少女がどのような態度を取ろうと知ったことではない。己の素性を明かそうと、無理な言い訳を連ねようと、少女が敵であることは自明の理。ならば、グシオンが為すべきことも限られている。
「さて、あんたは一の姫か、二の姫か……。どちらの姫かは知らぬが、フウリアの守護地に侵入したからには伴に来てもらうぞ」
言いながら、視線を外さずゆっくりと騎獣から降りる。
シェリテガには継承権を持つ王子の他に大事に育てられた王女が二人いたはずだ。どちらも有名な噂が一つ二つはある。王族に関する様々な噂が飛び交う中でも淘汰されず、それどころか多くのシェリテガ国民がもはや真実として語っている噂だ。その噂に照らせば、目の前の白い少女がどちらの姫なのかすぐに判断できるだろう。
「後ろを向いて両手を木につけ」
「…………」
少女は硬い表情のまま勿体ぶるようゆっくりと背を向ける。細く華奢な手をローブから出し、太い木の幹に触れた。
グシオンは弓を下ろし、短刀に持ち替えてから腰紐を一つ解いて小さな少女へ近づく。
「両手をゆっくり背中に回せ」
「…………」
素直に指示通り動く少女に目を眇めながら、グシオンは細い手首に手をかけた。
ふと、遭遇から今まで少女が一言も言葉を発していないことに思い至る。恐怖で喉が詰まっているのかと思ったが、間近で見ても少女は震えている様子一つない。一見して武器もなく、騎獣も連れていないというのに、落ち着き過ぎているようにも――
「――ぐっ!!」
不自然さに気づき素早く拘束しようと動いたときには遅かった。
思わぬ反撃をくらい、グシオンは呻いた。まさか、大切に育てられた一国の姫君が、口から何かを吐くとは思わなかった。
「クソが……!!」
「きゃあ!」
咄嗟に短剣で、森に適さぬ長いローブを木に縫い付けると、駆け出そうとしていたらしい少女から小さな悲鳴が上がった。
グシオンは目元を抑え、同じ民ですら恐れる凶悪な視線で少女を指の隙間から睨みあげる。
(アミンデの樹液か……!?)
少女に何かを吹きかけられた目元が突き刺すような痛みを訴える。そして微かに甘い香り。
この二つはフウリアの森に生えるアミンデという木の樹液の特徴だ。触れると肌に炎症を起こし、粘膜を刺激するのか傷口や目などの弱い部分に入ると強烈な痛みを与える。しかしほのかに香る甘い匂いに誘われ、森で迷った知識のない者は誤って口に入れてしまうことも多い。シェリテガとの緊張が高まるにつれて森に入るもの自体が減り抑えられてはいるが、アミンデの樹液による被害は毎年数十件は起きているのだ。
そう、目に入ればもちろんだが、口に入れてしまってもアミンデの樹液の力はいかんなく発揮される。
「……ふん、捨て身の攻撃か?」
油断した己を心のうちで罵倒しながら悔し紛れに吐き捨てるが、確かに今頃少女の口の中は大変なことになっているだろう。いつ樹液を口に含んだのかは知らないが、含んでいる時間が長ければ長いだけ、痛みは増すはずだ。遭遇から一度も口を開かなかったのも、樹液を口に含んでいたからだというなら納得もいく。
「多少頭は回るようだが、これしきで逃げられると思うな、一の姫」
「……!」
言い当てれば、口を開けぬ少女の片眉がぴくりと反応する。引き結ばれた唇は、近くで見ると樹液の成分にやられたのか赤く腫れていた。痛む視界でそれを捉えたグシオンは妙な感覚を覚える。体の中心を駆け上がる何かの衝動を抑え込み、短剣を握る手に力を込めた。
「森を駆けるには随分と不釣り合いな衣装だ。――美しい宝石など森では何の役にも立たん」
「…………」
なぜ愚かにも森の中では悪目立ちするだろう宝石を付けた衣装を選んだのか。見つけさせることが目的で何か罠でも仕掛けられているかと思ったが、そうでもなかったらしい。
確か、一の姫は美しいものを心から愛していた。宝石然り、ドレス然り。生き物であってさえも。美しいものには何でも目がなかったはずだ。森への侵入を計画したときも、きっと美しい宝石は手放せなかったに違いない。
ローブを木に縫いとめたのは咄嗟だったが、これは一の姫にとっては何より動けぬ拘束かもしれない。何しろローブの裾には色とりどりの純度の高い宝石が鏤められているのだ。下手に動けば、高価な宝石が大量に切り離されてしまう。
「これに懲りたなら、今後は美への執着を自重することだな」
「…………」
いまだ強い痛みを訴える目元を抑えながらも不遜に哂って見せる。一の姫は奔放だとの噂も事実だったか、と内心でも同様に。些細な小細工を弄そうとも、敵陣の森へ単身侵入するのは愚者の極みだ。
今度こそこの愚かな少女を拘束しようと些か乱暴に腕を掴み、折れそうな程細い腕を引き寄せたときだった。
「――美しきもの」
「何?」
「白む朝焼け。降り注ぐ太陽の下に広がる笑顔。暮れる夕日を背に手を繋ぎ岐路につく親子もまた美しく目に映ります。冬に枯れゆく木の葉も、春に芽吹く草花も」
「何を――、っ!!」
声を失ったのは、白くしなやかな腕が首へと伸びてきたからだ。掴んだものとは反対の腕が、するりと首に巻きつき、繊細にけぶる睫毛が間近に迫る。
次の瞬間、アミンデの樹液により熟れた果実のような瑞々しい唇が、グシオンの少しかさついたそれと重なった。




