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異世界のかけら -断片集-  作者: 滝底
本編的断片
23/48

◇助けた豹に殺されて? 中編



「傷が癒えたらデルフォスの近くまで連れて行ってやる」


 意識が浮上した直後、頭上から無造作に放られるような声が降ってきた。

 まだ頭が働かない状態で掛けられた言葉はあまりに唐突で、仁子は何を言われたか理解できず、緩慢に瞬きを繰り返しながら耳に飛び込んできた言葉をなぞる。


(――傷? デルフォス? ……何?)


 そもそもここは何処だっけ。


 ぼんやりと考えながら、組まれた木が剥き出しのままの天井を眺めた。

 仁子の家の天井は白い壁紙が貼られた平らな天井だ。内側がどうなっているかは見たことがないが、少なくとも見上げたときに見えるのは木材ではない。当然、いま目にしているものは仁子の家の天井ではないとすぐにわかった。

 見たことのない組み方をされた木のさらに奥から、幾筋かの光が洩れ差しているのが見える。どうやら穴が開いているらしい。薄暗い室内に差し込む光は奇麗だったが、天井にあれほどたくさん穴があっては雨を凌げないのでは――。

 そこまで考えて、仁子はハッとした。


(そうだ、わたし……!)


「――ッ!!」


 慌てて身体を起こそうとした瞬間、目の前が真っ赤に染まった。

 実際に赤く染められたわけではないが、それほどの衝撃的な痛みが仁子の首筋に走ったのだ。

 勢いで僅かに浮かせた体も再び固い床へと倒すことになった。

 仁子が十六年間生きてきた中でも経験したことのない強烈なその痛みは、全身に寒気を駆け巡らせ、視界に無数の星を散らせるほどだった。

 痛みを堪えるために固く閉じた仁子の瞼裏に、意識を失う直前に見た力強い漆黒と、そして妖しく美しい紫苑が鮮やかに閃く。

 仁子は首の痛みの原因を思い出した。


(痛い……けど生きてる!)


 指先まで痺れさせるほどの痛みは、しかし確かに仁子は生きているのだと、嫌と言うほど教えてくれていた。




 やがて痛みが引き、浅く小さく呼吸が出来るまでになると、仁子はようやく薄っすらと瞼を開いた。

 霞む視界の端に黒く大きな影が映っているのに気づき、ゆっくりと視線だけを動かす。痛みは引いても、身体は疲労していて動かせないのだ。

 視線が辿り着いた先、捕らえた影の正体を知って、仁子は息を飲んだ。


(く、黒い豹……っ!)


 そこには仁子が助け、そしてあろうことかその仁子に向かい襲い掛かってきた黒豹が立っていた。

 黒い革のブーツに薄汚れた榛色はしばみいろのズボンを穿き、上半身は裸だが、仁子が苦労して巻いた包帯が豊かな漆黒の毛に埋もれるようにして見えている。太い腕と厚い胸板は、しなやかさを失わないまま屈強さを備えているように思える。

 仁子の脇に仁王立ち、眼光鋭く睨み下ろす姿には臥していたときの弱弱しさはなく、漆黒の身体からはゆらりと覇気のような何かが立ち上っているように見えた。

 憎憎しげに口元を歪め、剣呑な紫苑の瞳を眇める凶悪な黒豹の顔に仁子は肩を震わせた。

 何故これほど敵意をむき出しにされているのかわからない。仁子は黒豹を助けたのであって、恨みを買うようなことは一切していないというのに。


「……――く――、――しい――」


 再び噛み付かれるのではないかと恐れ震える仁子を見下ろしながら、黒豹が何かを呟いたのが聞こえた。

 何を言ったのか、痛みの余韻でまだ朦朧としていた仁子には、口の中で転がすような小さな音を正確に拾うことはできない。

 逃げ出したいのに動かない身体をもどかしく感じながら仁子が怯えていると、黒豹が紫苑の瞳をさらに細めて口を開いた。

 今度は仁子にもしっかりと聞き取れるほどの明瞭な、しかしどこまでも平坦な声だった。


「――急所は外した。命に問題は無いが傷は深い。首を無理に動かせば痛むのも当然。声も暫くは出せないだろう」

「…………」


 機械的に現状を説明する。そこには助けた仁子に対する感謝の念は、一切含まれていない。それどころか黒豹は、仁子をまるで不快なものを見るように睨み下ろしていた。

 瞳に宿る敵意に痛みを知る仁子の身体が慄く。

 悲鳴を上げずに済んでいるのは、黒豹の声が冷静な響きを持っているのと、何より首の痛みが声を封じていたからだ。

 仁子の怯えを感じ取っても、黒豹は一向に睨み下ろす視線の剣呑さを取り去ろうとはしない。紫苑の瞳に仁子への配慮も謝意も一欠けらも浮かんでいないようだった。


「殺そうとしたがやめた。手当ても施した」

「…………」


 だから何だろう。


 仁子は怯えながら黒い豹を見上げる。

 不遜なまでの紫苑の瞳はまるで、殺そうとしたことは手当てをしたことで相殺だ、とでも言いたげだった。


「人間であるお前が何を考えて俺を助けたのか知らないし知りたくも無い。礼など言うつもりもない」


 断言されてしまった。

 同時に、仁子が心の片隅で思っていた“この黒豹は仁子が恩人だと気づいていないのでは?”という甘い考えが打ち砕かれたことを知る。

 彼は仁子が自分の手当てをしたことを知っていて、それでも感謝はしないと言っているのだ。

 言葉だけでなく、態度にもそれははっきりと表れている。

 仁子の傷は黒豹がつけたものだが、彼女は布切れを掻き集めて敷いただけの硬い床の上に無造作に寝かされ、黒豹はしゃがむわけでもなく立ったまま腕組みをして仁子を見下ろしているのだ。ともすれば、そのまま足で踏み潰されそうな気さえする。

 手当てをしているときは見返りなど求めていなかったが、ここまで適当に……、というよりも薄っすら殺意さえ見せて対応されると、仁子の内心は複雑だった。

 感謝されこそすれ、何故命まで脅かされる事態になっているのか、理解できない。

 しかし、首の痛みと黒豹が放つ威圧感の所為で文句の一つも言えなかった。

 ひたすら萎縮し混乱しながら仁子が黙っていると、仁子の目を射抜くように睨んでいた紫苑の瞳が僅かにズレて、また直ぐに仁子の目へと戻ってきた。

 何の動きだろうと仁子が疑問に思う前に黒豹が再び口を開く。


「どうやって辿り着いたか知らないがこの辺りは人間の生きられるような場所ではない。デルフォスの付近までは連れて行ってやる」

「…………」


 声を出せない仁子はただ無言で黒豹の言葉を聞きながら、彼の言わんとしていることを必死で考えた。

 手当てのお礼云々の話をした直後に、恩着せがましくデルフォスとかいう場所まで連れて行くと言う。


(つまり、助けたお礼は言わないけど、その替わりにヒトの住める街まで送るってこと……?)


 そう考えると、目の前の凶悪な黒豹が少し前に流行ったツンデレというやつのように思えたが、ツンデレと言うには紫苑の瞳に映る剣呑さが本気すぎる。

 仁子が戸惑いに視線を彷徨わせていると、その様子を見て黒豹は盛大に鼻を鳴らし、くるりと踵を返して長い尻尾を揺らしながら破壊された扉の奥に消えていった。






うまく纏まらず、更新が遅れました。

後編では少し和やかなシーンを入れたいと思います。



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